目次

〈本文理解〉

出典は森政稔『変貌する民主主義』。社会科学系の題材は、国公立大学ではそれほど比重は高くないが、一橋、神戸、阪市大の旧商大や早稲田など私立大学の社会科学系統の学部では頻出である。学びの中で、国民国家やグローバリゼーション、民主主義など今日的なテーマについての理解を深めておきたい。

①②段落。「人民の、人民による、人民のための政治」は、後世、民主主義の理念を要約するフレーズとして使われてきた。このことばは現在の民主主義においても有効な指針だということができるだろうか。問題は何より、民主主義の指針とされる「「人民(people)」とはいったい誰であるのか」(傍線部(1))、ということであろう。リンカーンの政治的意図は何よりも、奴隷制の存廃をめぐって亀裂が入りかけたアメリカ国民の再統一にあったことは明らかであり、ここでのピープルとはアメリカ国民を指していると考えて大きく間違っていることはないだろう。しかし、現在このことばが生きているとして、ピープルとは何かと問われるならば、特定の一国民にこれを限定するのは、恣意的だとする印象を免れないだろう。

 

③④⑤段落。ここにはシティズンシップをめぐる問題といわれるものが存在している。シティズンシップとは、しばしば市民権と訳されるが、権利のみではなく、政治社会の構成員としての義務を含み、「市民である(政治社会の構成員である)とはどういうことなのか」といった政治的含意を持つ概念である。思想史上の民主主義は、特権や身分制と闘う思想であって、誰もが排除されることのない統治を要求する立場として、一方で普遍性を要求してきた。しかし他方で、民主的な政治体制ほど、その構成員に一定の資質を要求し、そうでない人々から区別されたメンバーシップを必要としてきた。人々が政治から基本的に排除される王政などでは、普通の人々は臣民であって、その資質がすぐれているかどうかは、統治者にとってどうでもいいことである。それに対して、「民主的な政治社会にあっては、それを構成する人間の能力のあり方が、統治がうまくいくかどうかに直接関係してくる」(傍線部(2))ことは容易に理解されよう。

 

⑥⑦段落。(シティズンシップの要請する「徳」について)。

 

⑧⑨段落。もっとも歴史上、民主的な政治形態というのは例外的なものである。民主政の歴史的形態のいずれもが、自己と外部とを厳しく区別してきた。近代の社会契約説においても、市民になろうとする人々が自発的に国家に参加するというロジックをとる以上、参加しない外部はかならず想定されており、自発性とメンバーの制限とは相互に補い合う関係にあった。

 

⑩⑪段落。「今日では、このような「民主主義に参加したい人たち、あるいは参加する能力のある人たち」だけの民主主義ではなくなっている」(傍線部(3))。民主主義はまず大枠として国家的な制度であり、好むかどうかと関係なく、その中に住む人々が受け入れるものとなっている。それは、民主主義が国民国家という関係のなかに入り込んだときに生じた。国境で区切られた領域に住む住民は、一定の権利や保護を得るのと引き換えに、義務教育、国語の使用、納税、そしてとりわけ徴兵によって、市民であることが義務化された。

 

⑫段落。それではすべての人々がシティズンシップをもった「市民」になったかというと、そうではない。二○世紀は人々の大いなる移動によって特徴づけられる。その結果、多くの人々が、国民国家の保護の外に置かれるという事態が生じることになった。そうした人々の苦難は、「国籍を有するかどうかで扱いがまるで違うということの不条理」(傍線部(4))、より一般的に民主主義の内部と外部を区別することの問題性を明らかにしたのである。

 

⑬段落。(不条理を避ける努力の例。外国人のシティズンシップを認める動き)。

 

⑭段落。以上に述べきてたように、民主主義にはその理念の普遍性に反して、国民国家枠による排他性が伴っており、その不条理が目立つ現在、民主主義の主体の幅を拡張することによる対処が行われている。このことの実践的な重要性はもちろんであるが、ここではそれから少し離れて、こうした「主体性の拡張によって民主主義がその原理的問題を解決できるかどうか」(傍線部(5))ということについて考えてみたい。

 

⑮⑯段落。リンカーンの言った「人民による政治」と「人民のための政治」。そのどちらに重点が置かれてきたかといえば、「人民による」のほうである。「人民による」政治は民主主義でなければ実現しないのに対して、「人民のための政治」は、別に民主主義でなくても可能だと考えられるからである。もちろん「人民のため」の政治を行ったかどうかを判定するのは人民の側だ、という議論がありうる。そうだとすれば、その判定する主体という点で、「人民による」要素が必要とされることになり、結局「人民のための」要件は「人民による」要件に吸収されることになる。

 

⑰⑱段落。その結果、重要なのは「人民による」の主体性のほうであって、民主主義とは端的にいえば「集団的な自己決定」(傍線部(6))であると考えられるようになった。これは二○世紀のもう一つのトレンドであったナショナリズムと重なって、民族自決の思想に結実した。ナショナリズム革命によって独立を達成した国家のなかには、一党支配や言論の抑圧などその内容において民主主義とかけ離れた例が少なくなかった。それでも「民度の低い現地住民の利益のために」西欧の文明国が替わって慈悲に満ちた統治をする義務があるといったパターナリズムは、「二○世紀には克服されるべき思想となった」(傍線部(7))。

 

⑲段落。しかしその後、二○世紀後半になって、このような集団的自己決定への疑問が提起されるようになる。そのひとつは集団的合意によっても奪うことのできない個人的権利の立場からの批判であり、もうひとつは民族の一体性のフィクションからこぼれ落ちるマイノリティによる自己主張によるものである。

 

〈設問解説〉
問一 (漢字)

a指針 b免 c課

 

問二 「「人民(people)」とはいったい誰であるのか」(傍線部(1))の答えとして適切なものを、(ア) リンカーンの意図するものと、(イ) 現代の視点で考えられるもの、それぞれ、本文中の言葉で示せ。

 

<GV解答例>
(ア) アメリカ国民 (イ) 政治社会の構成員

 

問三 「民主的な政治社会にあっては、それを構成する人間の能力のあり方が、統治がうまくいくかどうかに直接関係してくる」(傍線部(2))というのはなぜか、わかりやすく説明せよ。(60字程度)

 

理由説明問題。直前の王政と対比して、民主政において「構成員の能力が統治の成否に関係する(G)」理由を指摘する。当然、前段④段落、民主主義の「二重性/普遍性と排他性(資質の要求)」を参照するわけだが、「資質の要求」の部分については傍線部に含まれる内容であり、その理由には当たらないことに注意したい。そこで「普遍性」、つまり民主主義が「特権や身分制と闘い/誰もが排除されない統治を要求する(A)」が理由を構成するのだが、これだけではGに着地しない。ここで王政との対比を利用して、王政においては民衆は臣民、つまり被治者であって、よって能力は問われないのであった。それに対して民主政では「人民による」統治を標榜する、よって能力が問われるのである。これをAと合わせて解答する。

 

<GV解答例>
民主的な政治社会においては、特権や身分制により排除されることなく権利と義務を有する構成員自身による統治が標榜されるから。(60)

 

<参考 S台解答例>
民主的な政治社会では、全構成員が主体としての権利と義務を有し、特権や身分制と闘い、平等性や開放性を要求する点で統治に関わるから。(64)

 

<参考 K塾解答例>
政治参加から排除される君主政下の臣民と異なり、民主政では、統治に実質的に関わるべき構成員全員に、政治社会に貢献すべき市民としての義務や資質が求められるから。(78)

 

問四 傍線部(3)について、「今日」の民主主義社会はどのようなものになっているというのか、簡潔に説明せよ。(40字程度)

 

内容説明問題。傍線部が「今日の民主主義ではAだけの民主主義ではなくなっている」という否定形で閉じているので、それに続く肯定部を探すと、「民主主義は…好むかどうかと関係なく、その中に住む人々が受け入れるものとなっている」(⑩)とあるから、これが答えの核。「となっている」とは変化を表すので、「Bによって/Cとなった」という形で、変化の原因Bを指摘したい。これは直後の「国民国家という関係の中に入り込んだ(ときに生じた)」(⑩)を使えばよい。「その中に住む人々」とは、「国境で区切られた領域に住む住民」(⑪)のことだが、これは「国民(全て)」と言えば十分言い尽くしているだろう。

 

<GV解答例>
国民国家が成立したことで、志向や能力に関わらず国民全てが受け入れる前提となった。(40)

 

<参考 S台解答例>
国家的な制度として、国家の領域内に住む人々が、選択の余地なく受け入れざるをえないもの。(43)

 

<参考 K塾解答例>
契約により市民が自発的に国家に参与していた以前と異なり、今日の民主主義社会は、市民が負うべき義務を国家の制度として国境内の住民に受け入れさせるものになっている。(80ww)

 

問五 傍線部(4)について、「国籍を有するかどうかで扱いがまるで違う」ということが、なぜ「不条理」であるといえるのか、わかりやすく説明せよ。(60字程度)

 

理由説明問題。「不条理」とは「条理」、「筋道」「理屈」に合わないことである。国民国家の「国籍を有するかどうかで扱いがまるで違う」あり方(A)が、どういった理屈に合わないのか。民主主義の「普遍性」(④他)理念に合わないのである。後はAを一般的表現に直し、それと対比する形で「普遍性」理念(B)を具体化する。A「国民であることを市民権の条件とする国民国家の課す現実」B「全ての構成員を統治から排除しない民主主義の理念」。

 

<GV解答例>
国民であることを市民権の条件とする国民国家の課す現実は、全ての構成員を統治から排除しない民主制の理念に著しく反するから。(60)

 

<参考 S台解答例>
国籍による不平等は、国民国家による排他性の現れであり、民主主義が標榜する統治の平等性や開放性という理念の普遍性に反するから。(62)

 

<参考 K塾解答例>
人々が国境を越えて移動を余儀なくされる現在、国民国家の枠による不平等や排他性は、政治社会における構成員間の平等を謳う民主主義の普遍的な理念に反するものであるから。(81)

 

問六 「集団的な自己決定」(傍線部(6))とはどのような意味であるか、わかりやすく説明せよ。(40字程度)

 

内容説明問題。傍線部自体の情報が少ないので、一文で考えると、「その結果、重要なのは「人民による」という主体性のほうであって、民主主義とは端的にいえば、(傍線部)であると考えられるようになった」となる。「その結果」は前⑯段落を承けるから、それを具体化し「「人民のため」(→人民の福利は何か)という判定も「人民による」に吸収される」となる。そこからつなげて「人民による」と対応する「集団的な自己決定(A)」であるが、これは二○世紀に「民族自決(B)」の思想に結実した(⑰)、とある。ここで注意したいのがAとBは、本文にも明記されている通り共に「self-determination」と現在は英語表記されるのだが、両概念の成立には時差があり、同じではないということだ(Aの中にBは含まれる)。Bを参考にAを考えると、「民族自決」とはもちろん「自民族のことは自民族で決める」ということだが、ここには宗主国の影響を排除して「自民族だけで決める」という含意がある。ならばAも「人民が自らのことを排他的に決める」と説明できる。この「民族自決/国民国家」の「排他性(⑭)」こそが、「民族自決/国民国家」の限界にもなるのである(⑭⑲)。

 

<GV解答例>
自らの福利は何かということの判定も含めて民衆が自らのことを排他的に決定すること。(40)

 

<参考 S台解答例>
国民国家の領域内で、国民全体が主体的に国家の統治に関する合意を形成するという意味。(41)

 

<参考 K塾解答例>
政治が人民のために行われたかどうかを判定するような、民主主義固有の、人民自らの意志に基づく主体的なあり方という意味。(58)

 

問七 傍線部(7)について、「「民度の低い現地住民の利益のために」西欧の文明国が替わって慈悲に満ちた統治をする義務がある、といったパターナリズム」が、「二○世紀には克服されるべき思想となった」のはなぜだと考えられるか、わかりやすく説明せよ。(60字程度)

 

理由説明問題。「パターナリズム(A)」が「二○世紀がもたらしたもの(B)」により否定されたからである。ここを見抜けば、後はAとBを対比的に具体化するだけだ。Bは「二○世紀」を手がかりにすれば、前⑰段落の「民族自決」がそれに当たるのを見抜くのは容易。Aについては「西欧の文明国が替わって(現地住民のために)慈悲に満ちた統治をする(⑱)」を一般化すればよい。A「上位者が下位者の価値を一方的に決める」B「自民族の価値は自民族で決める」。

 

<GV解答例>
上位者が下位者の価値を一方的に決定する考えは、二〇世紀に定着した自民族の価値は自民族で決める民族自決の理念に反するから。(60)

 

<参考 S台解答例>
西欧の文明国の介入は、国家の構成員を主体として統治の平等性を標榜する民主主義の理念に反して、現地住民の主体性を損なうから。(61)

 

<参考 K塾解答例>
国民国家の枠組のもとで西欧の文明国が非西欧の国々を啓蒙すべきだとする思想は、二○世紀後半に普及した個人の権利や、国民国家に回収されえないマイノリティによる自己の尊厳の主張によって、その正当性に疑問を付されるようになった。(110ww)

 

問八 「主体性の拡張によって民主主義がその原理的問題を解決できるかどうか」という問題について、近年はどのように考えられているか、本文から読み取れる範囲で、わかりやすく説明せよ。(60字程度)

 

内容説明問題。論理的な推論によって導くことを要求している。まずは傍線部の「(民主主義における)主体性の拡張(A)」と「(民主主義の)原理的問題(B)」を明確にする。Bは同⑭段冒頭にあるように「普遍性と排他性の矛盾」である。それを、A「国民の枠を外国人にも広げることで」(②⑬)普遍性を貫徹し、乗り越えようとする。これが傍線部の内容であり、こうした試みの妥当性について、論理的に推論することが問われている。
当然、解答根拠は最終⑲段落である。⑲段落では、直接的には二○世紀後半に提起されるようになった集団的自己決定への疑問が二つ指摘されるが、これは国民国家の枠組での民主主義の試みにも当てはまるはずだ。そこで二つの疑問とは、「集団的合意によっても奪うことのできない個人的権利の立場からの批判」と「民族の一体性のフィクションからこぼれ落ちるマイノリティの自己主張」である。この二つはともに、「集団の同質性圧力に対する/集団内部の異質性(多様性)の主張」と捉えられる。もちろん、国民国家も国民としてのメンバーシップ、つまり同質性を前提とする。ならば、国民国家の枠組を広げたとして、「同質性」から外れるものに対する「排他性」が残るはずで、矛盾は解決されない、と結論できる。

 

<GV解答例>
国民の枠を広げることで民主主義の普遍性を貫徹しようとする試みは、その構成員の同質性を前提としている点で限界を孕んでいる。(60)

 

<参考 S台解答例>
個人的権利が侵害され、民族の一体性からマイノリティが排除される点で、民主主義を集団的自己決定とする立場での問題解決は難しい。(62)

 

<参考 K塾解答例>
人々の移動が盛んな現状を踏まえ、平等や寛容という普遍的理念を掲げながら、国家や民族の枠組による排他性を発揮しもする民主主義の基本的矛盾を、外国人や少数派の市民権を段階的に認め社会の多様性を確保することによって、克服しようとしている。(116ww)

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