〈本文理解〉

出典は武満徹の随想「影絵(ワヤン・クリット)の鏡」(『樹の鏡 草原の鏡』1975)。
 
①段落。私がこれまでに作曲した音楽の量は数時間あまりにすぎない。たぶんそれは、私がひととしての意識を所有しはじめてからの時間の総量に比べれば瞬間ともいえるほどに短い。しかもそのなかで他人にも聴いて欲しいと思える作品は僅か数曲なのである。…
 
②段落。寒気の未だ去らない信州で、棘のように空へ立つ裸形の樹木を歩き、頂を灰褐色の噴煙にかくした火山のそこかしこに雪を残した黒々とした地表を凝視めていると、知的生物として、宇宙そのものと対峙するほどの意識をもつようになった人類も、結局は大きな、眼には感知しえない仕組の内にあるのであり、宇宙の法則の外では一刻として生きることもなるまいと感じられるのである。
 
③段落。生物としての進化の階梯を無限に経て、然し人間は何処へ行きつくのであろうか。
 
④段落。八年程前、ハワイのキラウェア火山にのぼり、火口に臨むロッジの横長に切られた窓から、私は家族と友人たち、それに数人の泊り客らとぼんやりと外景を眺めていた。日没時の窓の下に見えるものはただ水蒸気に煙る巨大なクレーターであった。朱の太陽が、灰色の厚いフェルトを敷きつめた雲の涯てに消えて闇がたちこめると、クレーターはいっそう深く黯い様相をあらわしてきた。それは、陽のあるうちに気づかずにいた地の火が、クレーターの遥かな底で星のように輝きはじめたからであった。
 
⑤段落。誰の仕業であろうか、この地表を穿ちあけられた巨大な火口は、私たちの空想や思考の一切を拒むもののようであった。それはどのような形容をも排けてしまう絶対の力をもっていた。今ふりかえって、あの沈黙に支配された時空とそのなかに在った自分を考えると、そこでは「私のひととしての意識は少しも働きはしなかったのである」(傍線部(ア))。しかし私は言いしれぬ力によって突き動かされていた。あの時私の意識が働かなかったのではなく、意識は意識それ自体を超える大いなるものにとらえられていたのであろうと思う。私は意識の彼方からやってくるものに目と耳を向けていた。…
 
⑥段落。その時、同行していた作曲家のジョン・ケージが私を呼び、かれは微笑しながら nonsense! と言った。そして日本語で歌うようにバカラシイと言うのだった。そこに居合わせた人々はたぶんごく素直な気持でその言葉を受容れていたように思う。
 
⑦段落。そうなのだ、これはバカラシイことだ。私たちの眼前にあるのは地表にぽかっと空いたひとつの穴に過ぎない。それを気むずかしい表情で眺めている私たちはおかしい。…だが私を含めて人々はケージの言葉をかならずしも否定的な意味で受けとめたのではなかった。またケージはこの沈黙の劇に註解をくわえようとしたのでもない。「周囲の空気にかれはただちょっとした振動を与えたにすぎない」(傍線部(イ))。
 
⑧段落。昨年の暮れから新年にかけて、フランスの学術グループに加わり、インドネシアを旅した。デンパサルから北西へ四十キロほど離れた小さなヴィレッジへガムランの演奏を聴きに行った夜のことだ。寺院の庭で幾組かのグループが椰子油を灯してあちこちで一斉に演奏していた。群衆は歌いながら踊りつづけた。私は独特の香料にむせながら、聴こえてくる響きのなかに身を浸した。そこでは聴くということは困難だ、音の外にあって特定のグループの演奏する音楽を択ぶことなどはできない。「聴く」ということは(もちろん)だいじなことに違いないのだが、私たちはともすると記憶や知識の範囲でその行為を意味づけようとしがちなのではないか。ほんとうは、聴くということはそうしたことを超える行為であるはずである。それは音の内に在るということで音そのものと化すことなのだろう。
 
⑨段落。フランスの音楽家たちはエキゾチックなガムランの響きに夢中だった。かれらの感受性にとってそれは途方もない未知の領域から響くものであった。そして驚きのあとに「彼らが示した反応は〈これは素晴らしい新資源だ〉ということだった」(傍線部(ウ))。私は現地のインドネシアの人々とも、またフランスの音楽家たちとも異なる反応を示す自分を見出していた。私の生活は、バリ島の人々のごとくには、その音楽と分ちがたく一致することはないだろう。かといってフランスの音楽家のようには、その異質の音源を自分たちの音楽表現の論理へ組みこむことにも熱中しえないだろう。
 
⑩段落。通訳のベルナール・ワヤンが寺院の隣の庭で影絵が演じられているというので、踊る人々をぬけて石の門をくぐった。急に天が低く感じられたのは、夜の暗さのなかで星が砂礫のように降りしきって見えたからであった。庭の一隅の、そこだけはなおいっそう夜の気配の濃い片隅で影絵は演じられていた。奇異なことに、一本の蝋燭すら点されていない。…私は、演ずる老人のまぢかに寄ってゆき、布で張られたスクリーンに眼をこらした。無論なにも見えはしない。老人の側に廻ってみると、かれは地に坐し、組まれた膝の前に置かれた多くの型のなかからひとつあるいはふたつを手にとっては呟くように説話を語りながらスクリーンへと翳していた。私は通訳のワヤンに訊ねた、老人は何のためにまた誰のために行なっているのか。ワヤンの口を経て老人は、自分自身のためにそして多くの精霊のために星の光を通して宇宙と会話しているのだと応えた。そして何かを、宇宙からこの世界へ返すのだと言ったらしいのだ。たぶん、これもまたバカラシイことかもしれない。だがその時、私は意識の彼方からやってくるものがあるのを感じた。私は何も現れはしない小さなスクリーンを眺めつづけた。「そして、やがて何かをそこに見出したように思った」(傍線部(エ))。
 
 

〈設問解説〉 問一「私のひととしての意識は少しも働きはしなかったのである」(傍線部ア)とあるが、それはなぜか、説明せよ。(60字程度)

 

理由説明問題。筆者の「ひととしての意識(A)」が働かなかった事態(B)を整理した上で、Aをそうでない意識と切り分けて把握し、理由として着地させる必要がある。実際の思考においてはBとAを関連させながら同時的に把握するわけだが、説明の都合上、Bから整理していく。
 
まず冒頭から③段落までは「大宇宙に対峙する人間の卑小さ」についての筆者の自覚を表したものである。それを承けての八年程前のキラウェアでの「事態(B)」(④)、そして、その心的体験にあたるのが傍線部を含む⑤段落である。Bは、夜のクレーターの底に現れた星のような輝きをはなつ光景を指すが、ここでは具体的な表現を抽象化して示す必要がある。⑤段落「誰の仕業であろうか/私たちの空想や思考の一切を拒むよう」と、後の記述ではあるがAとも響き合う⑧段落「私たちはともすると記憶や知識の範囲でその行為を意味づけようとしがちなのではないか」を踏まえるとよい。以上よりBを「人間の経験知や空想を凌駕する/宇宙の産物の/不意の現れを前にして」として、Aが働かなかった心的体験につなげるとする。
 
それでは「ひととしての意識(A)」とは?ここで筆者の意識そのものが失われたわけでないことは傍線部の後を見れば分かる。ポイントは傍線部前文「それはどのような形容をも排けてしまう絶対の力をもっていた」。これをAに近づけて解釈すると、Bの現前に対して筆者はそれを形容するいかなる「言葉」を持たなかった、それゆえ人間に特徴的な言語的思考の一切が麻痺した状態にあった、ということでなかろうか。一般に「信号」と区別された「言語」の使用が、他の動物と区別して人間を特徴づけるのは常識的な理解の範疇である。そして、コミュニケーションが高度化するほど、常識的理解は言葉の奥に折りたたまれる。大学受験の随想しかり。それゆえ、解答としては、その折りたたまれた常識的理解を「再」言語化する必要があるのである。以上よりBに続けて、「筆者はそれを形容するような/いかなる言葉も持ち合わせていなかったから(→ひととしての意識が働かなかった)」と解答する。
 
 
〈GV解答例〉
人間の経験知や空想を凌駕する宇宙の産物の不意の現れを前にして、筆者はそれを形容するようないかなる言葉も持ち合わせていなかったから。(65)
 
〈参考 S台解答例〉
人間は大いなる宇宙の摂理を逃れては存在しえず、圧倒的な光景を前に私の意識の働きもその絶対的な力にとらえられていたから。(59)
 
〈参考 K塾解答例〉
空想や思考を拒絶する巨大な火口を黙って見つめていたときの「私」は、大いなる宇宙にとらえられ、人間的意識を超えたものを感じているだけだったから。(71)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
眼前の巨大なクレーターは人間の意識を拒み、関与を許さぬ絶対的な力をもっており、私はその大いなるものに深く心をとらえられていたから。(65)
 
〈参考 T進解答例〉
圧倒的な自然に対峙した「私」は、意識を超越した、宇宙を貫く強大な力に意識をとられてもはや知的生物たり得ず、ただ感覚のみが機能する存在だったから。(72)
 
 

問二「周囲の空気にかれはただちょっとした振動をあたえたにすぎない」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

 

内容説明問題。「振動をあたえたにすぎない」という表現は、何か「達成されない大きな領域」が残って、「振動」をあたえたにすぎない、ということである。その主体となるのはケージの「バカラシイ」という言葉である。これは、問一の場面からの続きで、突然現れた「穴(クレーター)」の光景に言葉を失った筆者一行の中に、かのジョン・ケージもいて、彼が人々と「穴」とを一度に見やって歌うように言った言葉である。バカラシイとは、人々や状況を卑下して言った言葉ではない。その直前にケージは、筆者に向かって母語で nonsense と微笑しながら言ってもいるが、これはバカラシイと重ねて理解して良さそうだ。nonsense は直訳すると「意味がない」。これは問一でも指摘した⑧段落の「私たちはともすると記憶や知識の範囲でその行為を意味づけようとしがちなのではないか」という筆者の認識とも呼応する。つまり、「穴」=宇宙の現れを前にして、ケージは nonsense=意味がない、と言うほかなかったのである。その上で、傍線部前文「ケージはこの沈黙の劇に註解をくわえようとしたのでもない」も踏まえるならば、「達成されなかった大きな領域」とは「沈黙の劇に註解をくわえること/宇宙の現前を形容すること」であり、それをケージは nonsense=意味がない=バカラシイと形容したのである(A)。
 
一方、「振動」に相当する記述は、傍線部から二文前の「私を含めて人々はケージの言葉をかならずしも否定的な意味で受けとめたのではなかった」と前⑥段「そこに居合わせた人々はたぶんごく素直な気持でその言葉を受容れていたように思う」。つまり、筆者たちは宇宙の現れを前にそれを形容する言葉を失っていた、その麻痺した空気に「バカラシイ」は緩い張りを与えた。その場の空気に見合ったものとして、人々は「バカラシイ」という形容を受け取ったのである(B)。以上より「ケージのバカラシイという言葉は宇宙の現前を形容し難いことを形容したもので(A)/そこに居合わせた人々の共感を呼ぶ作用はあったということ(B)」と解答する。
 
 
〈GV解答例〉
ケージのバカラシイという言葉は宇宙の現前を形容し難いことを形容したもので、そこに居合わせた人々の共感を呼ぶ作用はあったということ。(65)
 
〈参考 S台解答例〉
ケージは、ただあるだけの世界に超越的なものを感じとり深刻な思いにとらわれている人々の状況を相対化してみせたということ。(59)
 
〈参考 K塾解答例〉
人々が巨大な火口の風景に圧倒され重苦しく沈黙するなかで、それを相対化するかのようなケージの軽口は、わずかに場の雰囲気をほぐしたということ。(69)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
ケージは人の意識を遥かに超えた巨大な自然とそれに対峙する人間という、その場の圧倒的な状況を言葉でわずかに表現しただけだということ。(65)
 
〈参考 T進解答例〉
ケージは意識の働きを封じる圧倒的な存在と対峙して生じた沈黙の中で、何でも記憶や知識の範囲で意味づける人間のあり方の放棄を精一杯言語化したということ。(74)
 
 

問三「かれらが示した反応は〈これは素晴らしい新資源だ〉ということだった」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

 

内容説明問題。「かれら」、すなわち筆者とインドネシアに同行したフランスの音楽家たちが、ガムランの響きに示した反応は〈これは素晴らしい新資源だ〉ということだった。フランスの音楽家たちのガムランへの向かい方は、「かれらの感受性にとってそれは途方もない未知の領域から響くもの(a)」(傍線部前文)、「その異質の音源を(a)/自分たちの音楽表現の論理へ組みこむ(b)/ことにも熱中(→皮肉)(c)」(⑨末文)というものである。これは、「その音楽と分ちがたく一致する」という現地の人たちと対照的な態度で、筆者から見てガムランを味わうのに十分な態度とは言えないのである(c)。
 
以上を踏まえ、傍線部の要素とニュアンスをもれなく言い換えると、「ガムランの響きを/未知の音楽領域として感受する(a)/西洋音楽家にとって/それは自らの音楽理論に昇華すべき(b)/魅惑的な/素材/にすぎないということ(c)」と解答できる。
 
 
〈GV解答例〉
ガムランの響きを未知の音楽領域として感受する西洋音楽家にとって、それは自らの音楽理論に昇華すべき魅惑的な素材にすぎないということ。(65)
 
〈参考 S台解答例〉
フランスの音楽家は未知の響きを対象化してとらえ、自分たちの表現の論理で意味づけて新たな創造の糧にしようとしたということ。(60)
 
〈参考 K塾解答例〉
フランスの音楽家たちは、ガムランの未知なる異国的な響きを、自分たちの音楽表現の論議に組み込めば、新しい音楽が創れると夢中になっているということ。(72)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
ガムランの響きにはフランスの音楽に存在したことのない未知の可能性が潜んでおり、それを用いて新たな音楽創造が可能になるということ。(64)
 
〈参考 T進解答例〉
フランスの音楽家達は、未知のエキゾチックなガムランの響きを、自らの表現の論理に組み込むことで新たな音楽を生み出し得る素材と意味づけたということ。(72)
 
 

問四「そして、やがて何かをそこに見出したように思った」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。

 

内容説明問題。「そこ」とは「何も現れはしない小さなスクリーン」、「何か」とは老人が「何かを、宇宙からこの世界へ返すのだと言った」、「何か」と対応するものである。以上を確認した上で、傍線部に直結する場面(⑩)を整理する。筆者は、通訳者ワヤンに導かれ、星が砂礫のように降りしきる寺院の庭の片隅で、老人によって演じられる影絵に出会う。老人は手持ちの型を一つ二つ選びながらスクリーンに翳すが、蝋燭すら点されていない夜の闇の中で、何も見えるものはない。何のために誰のためにと問う筆者に対して、老人はワヤンを通して「自分自身のためにそして多くの精霊のために星の光を通して宇宙と会話している(a)/何かを、宇宙からこの世界へ返すのだ(b)」と応えたのであった。
 
ならば、筆者が見出した「何か」とは、まずは「宇宙から星を介して老人に届いたもの(a)」、そして「老人の影絵を介して筆者が見出したもの(b)」となるだろう。空間的に把握すると、宇宙から垂直に降りてきた「何か」(a)が、今度は直角に折れ、水平に筆者に届けられた(b)、ということになる。「何か」とは「何か」としか言いようがないもの、すなわち言葉で表現できない(バカラシイ!)、しかし筆者の心の内では確実に形をとった(創作の源泉となるものだろう)、宇宙からのメッセージ(私信)のようなものである(c)。以上を、状況が正しく伝わるように整理してまとめると、「暗闇で影絵を演じる老人がスクリーンに翳す見えない影が(b)/星の光を介して届けられた(a)/宇宙からの私信のように筆者には感じられたということ(c)」と解答できる。
「カーテンを開いて/静かな木漏れ日の/やさしさに包まれたなら/きっと/目にうつる全てのことは/メッセージ」(荒井由美)
 
 
〈GV解答例〉
暗闇で影絵を演ずる老人がスクリーンに翳す見えない影が、星の光を介して届けられた宇宙からの私信のように筆者には感じられたということ。(65)
 
〈参考 S台解答例〉
目に見えるものを超えて宇宙と会話する老人の営みに、意識を超えた大いなるものと交感する自身の音楽のあり方を見たということ。(60)
 
〈参考 K塾解答例〉
影絵を演じ、星灯を頼りに宇宙と会話する老人の間近で、なにも映らぬスクリーンを眺めるうちに、意識を超えた宇宙的なものの現れを感じた気がしたと言うこと。(74)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
影絵を演じる老人が闇の中で型を通して宇宙と交信する姿を見ることで、大いなる宇宙から世界へのメッセージの様なものを感じたということ。(65)
 
〈参考 T進解答例〉
宇宙と会話する老人の見えない影を見て、いくら進化しようとも、人の意識を超えた宇宙の法則の下で営まれる、人の生の変わらぬあり方を覚知したということ。(73)