〈本文理解〉

出典は幸田文「藤」。幸田文は小説家で随想の名手でもある。父は幸田露伴。

①②段落。住む所に多少の草木があったのは、郊外の農村だったからである。子供たちはひとりでに、木や草にに親しんでいた。そういう土地柄のうえに、私のうちではもう少しよけいに自然と親しむように、「親が世話をやいた」(傍線部ア)。私は三人のきょうだいだが、同じ種類の木を一本ずつ、これは誰のときめて植えてあった。持主は花も実も自由にしていいのだが、その代り害虫の処理をすること等々を、いいつかっていた。敷地にゆとりがあったから、こんなこともできたのだろうが、花の木実の木と、子供の好くように配慮して、関心をもたせるようにしたのだとおもう。

③④段落。父はまた、木の葉のあてっこをさせた。姉はそれが得意だった。私もいくつかは当てることができるのだが、干からびたのなどだされると、つかえてしまう。そこを横から姉が、さっと答えて、父をよろこばす。私はいい気持ではなかった。しかし、どうやっても私はかなわなかった。出来のいい姉を、父は文句なくよろこんで、次々にもっと教えようとした。姉はいつも父と連立ち、妹はいつも置去りにされ、でも仕方ないから、うしろから一人でついていく。「嫉妬の淋しさ」(傍線部イ)があった。一方はうまれつき聡い素質をもつ上に、教える人を喜ばせ、自分もたのしく和気あいあいのうちに進歩する。一方は鈍いという負目をもつ上に、教える人をなげかせ、自分も楽しまず、ねたましさを味わう。環境も親のコーチも、草木へ縁をもつ切掛けではあるが、姉への嫉妬がその切掛けをより強くしているのだから、すくなからず気がさす。

⑤段落。しかし、姉は早世した。

⑥⑦段落。出来が悪くても子は子である。父は私にも弟にも、花の話木の話をしてくれた。教材は目の前にたくさんある。(大根の花、みかんの花、…)。蓮の花は咲くとき音がするといわれているが、嘘かほんとか試してみる気はないか──そんなことを言われると私は夢中になって早起きした。私のきいた限りでは、花はポンなんていわなかった。だが、音はした。こすれるような、ずれるような、かすかな音をきいた。花びらには、ごそっぽい触感がある。開くときそれがきしんで、ざらつくのだろうか。「こういう指示は私には大へんおもしろかった」(傍線部ウ)。うす紫に色をさした大根の花には、畑の隅のしいんとしたうら淋しさがあり、虻のむらがる蜜柑の花には、元気に生き生きした気分があり、蓮の花や月見草の咲くのには、息さえひそめてうっとりした。ぴたっと身に貼りつく感動である。興奮である。子供ながら、それが鬼ごっこや縄とびのおもしろさとは、全くちがうたちのものだということがわかっていた。

⑧⑨段落。藤の花も印象ふかかった。蝶型の花がはなやかに、房になって咲けば、格別の魅力があった。子供たちが見のがすわけがない。ただこの花は取ることができにくかった。空家の軒とか、廃園の池とかの花の下を子供たちは遊び場にした。私もそこに行きたかった。けれども父親からきびしく禁止されていた。そんな場所の藤棚は、ひょつとした弾みに一度につぶれるから危険だ、という。
荒れてはいるが留守番もおいて、門をしめている園があった。藤を藤をと私がせがむので父はそこへ連れていってくれた。藤棚は大きい池に大小二つ、小さい池に一つあってその小さい池の花がひときわ勝れていた。紫が濃く、花が大きく、房も長かった。棚はもう前のほうは崩れて、そこの部分は水にふれんばかりに、低く落ちこんで咲いていた。すでに下り坂になっている盛りだったろうか。しきりに花が落ちた。ぽとぽとと音をたてて落ちるのである。そこから丸い水の輪が、ゆらゆらとひろがったり、重なって消えたりする。明るい陽がさし入っていて、水紋のゆらぎさえ照り返して、棚の花は絶えず水あかりをうけて、その美しさはない。沢山な虻が酔って夢中なように飛び交う。羽の音が高低なく一つになっていた。しばらく立っていると、花の匂いがむうっと流れてきた。だれもいなくて、陽と花と虻と水だけだった。虻の羽音と落花の音がきこえて、ほかに何の音もしなかった。ぼんやりというか、うっとりというか、父と並んで無言で佇んでいた。「飽和というのがあの状態のことか、と後に思った」(傍線部エ)のだが、別にどうということがあったわけでもなく、ただ藤の花を見ていただけなのに、どうしてああも魅入られたようになったのか、ふしぎな気がする。

〈設問解説〉問一「親が世話をやいた」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

内容説明問題。短い傍線部なので、一文にのばして考えると、子供たちが「自然と親しむ」条件として「そういう土地柄(A)」であったことに加え、「親が世話をやいた(B)」ということになる。Aについては、①段落から「郊外の農村/ひとりでに木や草に親しんだ」という要素をピックし、加えて②段落から「敷地にゆとりがあった」という要素も「条件」として加えたい。傍線部の直接の言い換えにあたるBについては、②段落の具体例後の締めにあたる「子供の好くように配慮して/関心をもたせるようにした」に着目し、「子供が知らず知らず自然に関心を持つように/親が意図して仕向けた」というニュアンスを表現する。なお、②③段落の具体例をBの説明に加えたところで、具体例の性質上、得点要素とはならないだろう。

<GV解答例>
郊外の農村の広い敷地で草木に触れる機会の多かった環境に加え、その自然に我が子らが独りでに関心を持つよう親が計らっていたということ。(65)

<参考 S台解答例>
自然への親しみがおのずから育まれるように、父親が三人の子供に各自の木々を与えたり心遣いを説くなどの配慮をしたということ。(60)

<参考 K塾解答例>
父が、子供たちに各々自分の木を与え、育てる際の心構えを説いたり、身近な例で問いを出したりして、子供たちの植物への関心や理解が深まるように図ったこと。(74w)

問二「嫉妬の淋しさ」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

内容説明問題。ごく一般的な用語である「嫉妬」や「淋しさ」の言い換えは求められていない。それを「負目」や「孤独」と置き換えたところで、何の意味もなさないことは自明だろう。ここでは「の」によって直接的につながれた「嫉妬」と「淋しさ」の関係を問うている。連体修飾格の「の」は普通「所有」を意味するから、「~嫉妬は、~淋しさを伴う」くらいに見当はつくが、まだ確定はしない。「嫉妬」「淋しさ」は、上のような設問意図の理解から、答案にはそのまま使うべきだろう。
状況を把握すると、「木の葉のあてっこ」で父が出す問いに、「聡い」姉はさっと答えて父を「喜ばせ」るが、一方「鈍い」私はなかなか答えられず父を「なげかせ」る。この三者の関係(三角関係)において「私」が感じる嫉妬の対象が「姉」だということは、本文からも繰り返し確認できる。では「淋しさ」は?

③段落の記述「(私への問いを)姉がさっと答えて父を喜ばす/私はいい気持ではなかった/にくらしく口惜しかった」から分かるように、姉への感情は同時に「父」への感情を介在させる。つまり「姉」が問いに答えて「父」を喜ばせることへの「嫉妬」は、同時にそれに答えて「父」の関心を引くことができない「私」の「淋しさ」を伴うのだ。だからこそ、④段落の末文にあるように、「姉への嫉妬」、つまり父に認められないことへの「淋しさ」がバネとなり、「私」は「草木へ縁をもつ切掛け」をより強くしたのである。

<GV解答例>
草木についての質問に答え父を喜ばせる利発な姉への嫉妬は、同時にそれに答えられない愚鈍な私が父の気を引けないという淋しさを伴うこと。(65)

<参考 S台解答例>
父の期待に応える聡明な姉に負目を抱きつつ、後を追って草木へと目を向ける出来の悪い自分にもの悲しさを覚えるということ。(58)

<参考 K塾解答例>
聡明な姉と、その才知を喜ぶ父との親密な関係からいつも置去りにされ、そうした姉がねたましいが、それをどうにもできないことに孤独を感じるということ。(72w)

問三「こういう指示は私には大へんおもしろかった」(傍線部ウ)とあるが、なぜおもしろかったのか、説明せよ。(60字程度)

理由説明問題。「こういう指示」を具体化した上で、それが「私」に「おもしろかった」となる理由を指摘する。「こういう指示」については前⑥段落から「教材は目の前にたくさんある(→花の例)/(蓮の花が咲く時に音をたてるか)試してみる気はないか」を根拠に「身近な花を題材に実地で確かめることを促す指示(A)」とした。

では、Aが「おもしろい」にどうつながるのか?根拠は、⑦の後ろの三文「ぴたっと身に貼りつく感動である/興奮である/(他の遊びのおもしろさと)全くちがう」であるが、「ぴたっと身に貼りつく」が分かりにくい。そこで、傍線部と「ぴたっと身に貼りつく感動である」との間にある具体例から「ぴたっと身に貼りつく」の含蓄を理解し、一般的な表現で言語化しなければならない。

具体例は三つあるが、前の二つは「大根の花/しいんとしたうら淋しさ」「蜜柑の花/元気に生き生きした気分」となっており、花の様子を擬人的に表現している。ここでの「うら淋しさ」や「生き生きした気分」は花の様子を介した見る者の感情ではないか。もう一つは「蓮の花や月見草の咲くのには/息さえひそめてうっとりした」となっており、ここで「私」は花の変化と呼吸を合わせ一体化している。これらの例を抽象化したのが「ぴたっと身に貼りつく感動/興奮」だが、例を参考にその含蓄を表現すると「対象と一体化した感情が涌き出てくる」くらいになる。そうした心的体験を、父の「実地で確かめることを促す指示」がもたらすから、その指示は「おもしろかった」のである。

<GV解答例>
身近な花を題材に実地で確かめることを促す指示は、他の遊びと異なる対象と一体化した感情が内から涌き出る体験をもたらすものだったから。(65)

<参考 S台解答例>
姉が早世し、父に好奇心を刺激されて草木に見入る体験には、子供の遊びとは別の、自然の営みに触れる新鮮な発見があったから。(59)

<参考 K塾解答例>
植物に関する父からの質問や教えを契機とし、植物にじかに触れることで、普段の遊びでは得られない、心身に響くような感動や興奮を味わうことができたから。(73w)

問四「飽和というのがあの状態のことか、と後に思った」(傍線部エ)とあるが、どう思ったのか、説明せよ。(60字程度)

内容説明問題。「あの状態」が「飽和」つまり完全に満たされていた状態だったと、「私」は後に思った。ここでは、「あの状態」が「飽和」と言えるようにまとめることが主眼となる。
「あの状態」の説明は、最終⑨段落「小さい池の花(藤棚)」の描写が始まるところから傍線部を含む本文末文までである。参照に必要なところなので、上の〈本文理解〉でもほぼそのまま抜き出しておいた。しかし、ほとんどが具体的な描写なので解答に使いにくい。その中で、ここでの「飽和」を端的に表す部分として「陽と花と虻と水だけ(A)」を抜き出し、「ある状態」の核にする。このAの情景(視覚要素)に補足するものとして、「花の匂い」と「虻の羽音と落花の音」がある。それを前に「私」(と父)は「ぼんやり/うっとり/魅入られ/無言で佇んで」いる。この含蓄を表現して、「A(+α)を前に/それと一体化して/見る者が感情を付けたし/形容する/余地がない」とした。

あのひとときが「飽和」だったのだと「後に」思った。設問では、傍線部自体を「どういうことか」と聞かずに「どう思ったのか」と聞いているので「後に」にこだわる必要はない。が、少し補足しておくと、当時子供だった「私」には「飽和」という概念がないはずだし、あったとしてこの時の体験(純粋経験)に「言葉」が介在する余地はなかっただろう。ただ強烈な印象が子供の「私」に刷り込まれ、それが後に「飽和」という言葉を介して了解されたのだ。なお「飽和」という言葉も、ここでは置き換えるべきではない。この問題では「あの状態」を「飽和」に近づけて説明するのであり、基準点である「飽和」を動かすと解答がブレブレになる。

<GV解答例>
眼前に展開する陽と花と虻と水だけが五感を満たし、それと一体化して見る者が感情を付けたし形容する余地がなかった一時を飽和だと思った。(65)

<参考 S台解答例>
藤の花を取り巻く明るい静まりのうちに父とともに浸る陶酔は、まさに父が伝えようとした自然との至福の時間であったと思った。(59)

<参考 K塾解答例>
盛りの藤が池に落ちる情景を前にして父と二人で佇み、その尋常ならざる美しさに陶然としていた自分は、この上なく満ち足りた状態にあったのだと思った。(71w)

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