〈本文理解〉

出典は前田英樹『深さ、記号』。

①段落。知覚は、知覚自身を超えて行こうとする一種の努力である。この努力は、まったく生活上のものとして為されている。(例/目の前の壺。私はこの壺が網膜に映るものだけとは見なさず、見えない側の張りや丸みや色さえも見ようとし、実際見ていると言える)。見えるものを見るとは、もともとそうした努力なのだ。なるほど、「その努力には、いろいろな記憶や一般観念がいつもしきりと援助を送ってくれる」(傍線部ア)から、人は一体どこで見ることが終わり、どこから予測や思考が始まるのか、はっきり言うことができなくなっている。けれども、見ることが、純粋な網膜上の過程で終わり、後には純粋な知性の解釈が付け加わるのだと思うのは、行き過ぎた主知主義である。

②段落(行き過ぎた主知主義への批判)。

③段落。メルロ=ポンティの知覚の現象学は、視えることが〈意味〉に向かい続ける身体の志向性と切り離しては決して成り立たないことを実に巧みに語っていた。自分が登っている丘の向こうに見える一軒家。家の正面はわずかに見えてくる側面と見えないあちら側との連続的な係わりに正面でありうる。歩きながら、私はそういう全体を想像したり知的に構成したりするのではない。丘を見上げながら坂道を歩く私の身体の上に、家はそうした全体として否応なくその奥行きを、〈意味〉を顕してくるのである。「家を見上げることは、歩いている私の身体がこの坂道を延びていき、家の表面を包んでその内側を作り出す流体のようになることである」(傍線部イ)。流体とは、私の身体がこの家に対して持つ止めどない行動可能性にほかならない。

④段落。19世紀後半から人類史に登場してきた写真、そして映画は、見ることについて長い人類の経験に極めて深い動揺を与えた。肉も神経もなく、行動も努力もしない機械が物を見る
時、何が起こってくるのか。リュミエール兄弟によって驚くべきスナップ写真が生まれてきた時、人はそれまで決して見たことのなかった世界の切断面を見たのである。

⑤段落。写真機で撮ったあらゆる顔は、どこかしら妙なものである。顔は刻々に動き、変化している。変化は無数のニュアンスを持ち、ニュアンスのニュアンスを持ち、静止の瞬間など一切ない。私たちの日常の視覚は、そこに相対的なさまざまの静止を持ち込む。それが、生活の要求だから。写真という知覚機械が示す切断はそんなものではない。この切断は何のためでもなく為され、しかもそれは「私たちの視覚が世界に差し込む静止」(傍線部ウ)と較べれば桁外れの速さで為される。

⑥段落。写真のこの非中枢的な切断は、私たちに何を見させるだろうか。持続し、限りなく変化しているこの世界の、いわば変化のニュアンスそれ自体を引きずり出し、一点に凝結させ、見させる。私たちの肉眼は、こんな一点を見たことはない、しかし、持続におけるそのニュアンスは経験している。生活上の意識がそれを次々と闇に葬るだけだ。写真は無意識の闇にあったそのニュアンスを、ただ一点に凝結させ、実に単純な視覚の事実にしてしまう。「これは、恐ろしい事実である」(傍線部エ)。

〈設問解説〉問一 「その努力には、いろいろな記憶や一般観念がいつもしきりと援助を送ってくれる」(傍線ア)とはどういうことか、説明せよ。(60字程)

内容説明問題。傍線部のどの部分の言い換えに重点を置くか。「いろいろな記憶や一般観念が…援助を送ってくれる」の部分は、本文に言い換え要素もないし、そのままでも特に理解に困らない。ポイントは傍線始めの、「その努力」である。この説明に重きを置くために、傍線の構文を前後入れ替え、「人間は/いろいろな記憶や一般観念を手がかりに/その努力をする」とする。内容説明型の問題では、傍線内容を分かりやすく説明し直すことが求められているのだから、そのために構文を変えても構わない(構文変換/同内容)。構文を変えずに逐語的に置き換えるべきだ、などという教えは知を向上させない。読める程度の小さい字でできるだけたくさん要素を詰め込むべきだ、などという幼稚な教えと一緒に犬にでも喰わせてしまおう。

それで「その努力」だが、①段落一文目「(知覚の)知覚を超えて行こうとする…努力」である。具体的には、三、四文目の具体例より「見えない側も含めて/対象を全体として把握しようとすること」である。また、それは二文目より「生活上のものとして」行われる。「記憶/一般観念」は、自力で「経験的知識/抽象的知識」とした。

<GV解答例>
人間は、生活を円滑に送る上で、網膜に映る像に対象についての経験的・抽象的知識を加えながら、全体的知覚を貫徹しようとするということ。(65)

<参考 S台解答例>
人間の知覚が、感覚に受けた刺激を超えて対象の全体をとらえる働きには、過去の経験や既成の知識がかかわっているということ。(59)

<参考 K塾解答例>
人の知覚が見えない部分をもとらえようとする際、過去の経験や社会的通念が、常にそうした知覚を支えているということ。(56)

<参考 T進解答例>
物事を知覚するとは、その知覚自身を超越しようとすることであって、知覚する瞬間にはたえず、過去に得たイメージや、知性の解釈による補充が行われているということ。(78w)

問二 「家を見上げることは、歩いている私の身体がこの坂道を延びていき、家の表面を包んでその内側を作り出す流体のようになることである」(傍線部イ)とあるが、家を見上げるときに私の意識の中でどのようなことが起きているというのか、説明せよ。(60字程度)

内容説明問題。比喩表現を一般的表現に。もちろん、前後の内容を踏まえて置き換えるのだが、そもそも比喩は視覚的なイメージにより事象をありありと示す修辞だから、素直に再現してみるとよい。ここでは、身体が流体のように家まで延びていき、見えない側も含めて家を包んで全体として把握する、ということだ。それは、傍線前文(前半)にあるように、見える側から「全体を想像したり知的に構成したりする」のではなく、まさに身体的に把握するのである(例えば、意識以前に身体は歩き方を知っており(身体的知)、すでに歩いてしまっている(身体の主体性))。加えて、傍線前文(後半)と同③段落一文目より、「身体が対象に向かう/対象は意味を顕してくる」という内容を踏まえたい。

以上をまとめると、「目の前の家を一地点から知的に構成するのではなく/歩き見上げる行為に伴い/対象(家)は身体に意味を現しながら/身体は対象(家)を全体として把握・体験する」ということである。

<GV解答例>
歩き見上げるという行為により、一地点からの単なる知的な構成ではなく、家の全体像が身体の中に意味を現しつつ体験されているということ。(65)

<参考 S台解答例>
丘の向こうの家が、そこで生活を営む多様な可能性を帯びて自分の身体と一体化した、意味ある全体として現れてくるということ。(59)

<参考 K塾解答例>
見える部分から家全体を想像し構成するのではなく、人が住むための奥行きを持つ全体として、身体を通じてその〈意味〉が一気に把握されるということ。(70)

<参考 T進解答例>
丘の上の一枚の板のように視える存在を、そこまで移動してその内に身を置くという、身体的な行動可能性を通じて全体的な意味を顕す存在として認識するということ。(76w)

問三 「私たちの視覚が世界に挿し込む静止」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

内容説明問題。④~⑥段落は、人間の視覚とカメラの視覚の対比となっており、問三では人間の視覚を、問四ではカメラの視覚をそれぞれ問う。本問は、「人間の視覚が差し込む静止(A)」とその客体としての「世界(B)」を説明すればよい。Bについては、⑤⑥段落より「持続しながら/刻々と変化し/無数のニュアンスを展開する」とまとめた。Aについては、⑤段落、傍線直前の記述により「人間は/生活の要求から(→生活の必要に応じて)/相対的な(→恣意的に)/静止を持ち込み(→切れ目を入れ)/見る」とまとめた。

<GV解答例>
持続しながら刻々と変化し無数のニュアンスを展開する世界に対し、人間は自らの生活の必要に応じて恣意的に切れ目を入れ、見るということ。(65)

<参考 S台解答例>
日常生活で身体が対象を知覚する必要上、本来限りなく流動し続けている世界を、視覚は便宜的に静止させてとらえるということ。(59)

<参考 K塾解答例>
刻々と動き変化する世界の中で、人々が日常的な生活の必要にもとづき、その変化の中から特定の印象を切り取って、静止しているものとしてとらえること。(71)

<参考 T進解答例>
時間の経過のなかで、一切静止ぜずに変化を続ける世界に対して、我々が生活上の必要から、止まって見えるものとしている、相対的に静止している状態のこと。(73)

問四 「これは、恐ろしい事実である」(傍線部エ)とあるが、なぜこの前の文にいう「視覚の事実」が「恐ろしい事実」だと感じられるのか、説明せよ。(60字程度)

理由説明問題。写真のもたらす「恐ろしさ(G)」を説明すればよい。理由説明は、G(理由の着地点)を意識し、そこから逆算して、そこに落ち着く中心的理由を探ってみればよい。それは、傍線直前より「生活上の意識から無意識の闇へと排除したニュアンス(A)を/写真(のメカニズム)が一点に凝結させ人間に突きつけるから(→G)」ということになる。

ここでAについては、さらに傍線より遡り「こんな一点を見たことはない/しかし持続におけるニュアンスは経験している」を参照する。問三で考察したように、人間の視覚はひとつながりに展開する事象を、生活上の必要に応じ切れ目を入れ「見る」ということだった。つまり、人間はそこで展開するニュアンスを見ることはないが、知覚的経験の内にそれはあったのである。そして無意識の闇へと排除されたそれを、写真は改めて突きつけるのだ。しかも、その写真(のメカニズム)は、「肉も神経もなく/行動も努力もしない(⑤)」「非中枢的な切断(⑥)」より、無機的・無感情なものであるから、空恐ろしさが余計に増すのである。

<GV解答例>
知覚的経験の内にありながらも生活を成立させるために無意識へと除外した事象が、無感情な写真の機能により否応なく眼前に提示されるから。(65)

<参考 S台解答例>
時間を機械的に切断して見せる写真は、人間が付与した生活上の意味と無関係な、世界それ自体の変化の相を顕在化させるから。(58)

<参考K塾解答例>
身体を持たない機械がもたらす映像は、人が無意識の領域に抑圧した世界の変化の一瞬という、知覚を越えたものを、何の目的もなく見せつけるから。(68)

<参考 T進解答例>
人が経験しつつも日常の意識では捉えられずに無意識領域に送られていた変化し続ける世界の変化のニュアンスそのものを、時間を切断する写真により突きつけられたから。(78w)

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