〈本文理解〉

出典は河野裕子「ひとり遊び」(『たったこれだけの家族』より)。筆者は歌人で本文中の短歌も筆者の自作である。

①②段落。熱中、夢中、脇目もふらない懸命さ、ということが好きである。下の子が三歳、ハサミを使い始めたばかりの頃のこと。晩春の夕ぐれ時、四畳半の部屋の中に新聞紙の切りくずが錯乱し、もう随分長いこと、シャキシャキとハサミを使う音ばかりがしていた。下の子は、切りくずの中に埋まって、指先だけでなく身体ごとハサミを使っていた。道具ではなくて、ハサミが身体の一部のようにも見えた。自分のたてるハサミの音のリズムといっしょに呼吸しながら、ただただ一心に紙を切っている。呼んでも振り向く様子ではなかった。熱中。胸を衝かれた。「私は黙って障子を閉めることにした」(傍線部ア)。夕飯は遅らせていい。

③~⑥段落。このようなことは、子供にとってはあたりまえのことではないだろうか。大人たちは、子供の熱中して遊ぶ姿にふと気づくことがある。そして胸を衝かれたりもする。しかし、と私は思う。私自身の子供時代に較べれば、今の子供たちは、遊びへの熱意が希薄なように思われてならない。子供時代の遊びを思い出す。(中略)。より多く思い出すのは、ひとり遊びのあれこれである。私が真に熱中して遊んだのは、ひとり遊びの時だったからである。

⑦⑧段落。おそらく子供は、ひとり遊びを通じて、「それまでの自分の周囲のみが仄かに明るいとだけしか感じられなかった得体のしれない、暗い大きな世界との、初めての出会いを果たす」(傍線部イ)のであろう。世界というのが大づかみに過ぎるなら、人間と自然に関わる諸々の事物事象との、なまみの身体まるごとの感受の仕方ということである。その時の、鮮烈な傷のような痛みを伴った印象は、生涯を通じて消えることはない。ひとり遊びとは、対象への没頭なのであろうと思う。時間を忘れ、周囲を忘れ、一枚の柿の葉をいじったり、雨あがりのなまあたたかい水たまりを裸足でかきまわしたりするのが子供は好きなのである。なぜかわからない。けれどそれらは何と深い、他に較べようもないよろこびだったことだろう。

「鬼なることのひとり鬼待つことのひとりしんしんと菜の花畑なのはなのはな」(傍線部ウ)

⑨段落。菜の花畑でかくれんぼをしたことがあった。菜の花畑は子供の鬼には余りに広すぎた。七歳の子供の探索能力を超えていた。私は鬼を待っていた。何十分も何時間も待っていた。待つことにすら熱中できた子供時代。ゆっくりゆっくり動いてゆく時間に身を浸しているという識閾にすらのぼらない充足感があったにちがいない。時代も大どかに動く時間の中に呼吸していた。大きな自然の中に、人間も生きていられたのである。菜の花畑のむこうにれんげ畑、れんげ畑のむこうに麦畑があり、それらは遠くの山すそまで広がっているはずだった。

⑩段落。子供時代が終わり、少女期が過ぎ、大人になってからも、「ずっと私はひとり遊びの世界の住人であった」(傍線部エ)。何かひとつのことに熱中し、心の力を傾けていないと、自分が不安で落ち着かなかった。こうした私の性癖は、生き方の基本姿勢をも次第に決定していったようである。考え、計算しているより先に、ひたぶるに、一心に、暴力的に対象にぶつかって行く。現在の私は、実人生よりも、歌作りの上で、はるかに強く意識的に、このことを実践している。一首の歌のために幾晚徹夜して励んだとしても、よそ目には遊びとしか見えないだろう。然り。一見役に立たないもの、無駄なもの、何でもないものの中に価値を見つけ出しそれに熱中する。ひとりあそびの本領である。

〈設問解説〉問一 「私は黙って障子を閉めることにした」(傍線部ア)のはなぜか、考えられる理由を述べよ。(60字程度)

理由説明問題。通常の「なぜか、説明せよ」ではなく、「なぜか、考えられる理由を述べよ」と問うていることに注意したい。直接的な記述から論理的な推論を加えて、妥当な理由を導け、という要求だろう。直接的には、「ひとり遊びに熱中する我が子の姿に(A)/胸を衝かれた(B)から(→障子を閉めた(G))」と理由を構成できる。Aについては、同②段落の具体的な記述から自力で抽象してもよいが、ひとり遊びを考察している⑦⑧段落に着目し、「身体ごと(⑦)/対象に没頭し(⑧)/ひとり遊びをする我が子の姿に」(A)と説明する。

そのAに「胸を衝かれた(B)」から「障子を閉めた(G)」には、まだ「論理的な飛躍」があるから、そこを「論理的な推論」によって埋めることが求められるのである。ポイントは2つ。1つは、少なくとも、筆者は我が子のひとり遊びを邪魔したくなかった、継続させたいと思った、ということ。だから「夕飯は遅らせていい」と思い、障子を閉めたのである。もう1つは、なぜ継続させたいと思ったかということである。それは、筆者自身の幼少期の記憶から、子供にとってひとり遊びはかけがえのない時間だということを知っていたからである(⑥段)。以上より、A→B→「自らの幼少期の経験と重ね」→「この貴重な時間を継続させたい」→(G)、となる。

<GV解答例>
身体まるごと対象に没頭しひとり遊びをする我が子の姿に胸を衝かれ、自らの幼少期の経験と重ね、この貴重な時間を支援したいと考えたから。(65)

<参考 S台解答例>
道具と一体となって熱中する子供の姿に、ひとり遊びがもつ貴重さを思い、大人の自分が安易に介入すべきではないと考えたから。(59)

<参考 K塾解答例>
道具と一体化して遊ぶ子供の熱中ぶりは、大人が見過ごしがちな貴重なものであり、そのひたむきな姿に個人的な共感を覚え、それを妨げてはならないと思ったから。(75)

<参考 T進解答例>
我が子が道具と一体化して身体ごと夢中になって遊んでいる姿に感動を覚え、大人の自分が声をかけて邪魔をしないで、呼ぼうとしていた食事も遅らせていいと思ったから。(78w)

問二 「それまで自分の周囲のみが仄かに明るいとだけしか感じられなかった得体のしれない、暗い大きな世界との、初めての出逢いを果たす」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

内容説明問題。ひとり遊びについて考察している⑦⑧段落を視野に入れ、比喩表現に注意しながら、要素に分けて言い換える。「それまで自分の周囲のみが仄かに明るいとだけしか感じられなかった(A)/得体のしれない、暗い大きな世界との(B)/初めての出会いを果たす(C)」。BCについては、傍線次文「人間と自然に関わる諸々の事物事象との(B)/なまみの身体まるごとの感受(C)」が言い換えとなっている。ひとり遊びがこれを可能にするのである。さらに次の文より、Cは「鮮烈な傷のような痛みを伴った印象」をもたらす。この比喩は何を意味するか。「なまみの身体まるごとの感受」であるゆえに、「鮮烈な傷のような痛み」を伴うということだろう。ここで「なまみの身体まるごと」というのは、本文では「考え、計算しているより先に(⑩)」がヒントになるが、要するに言語的な了解(オリエンテーション)がないままに、事物事象と直に交渉する、ということであろう。それは「自分の周囲のみが仄かに明るい(A)」、ある意味「自足した」世界を開くものであるから、「鮮烈な傷のような痛みを伴った印象」をもたらす、ということであろう。しかし、それは同時に「他に較べようもないよろこび(⑧)」なのでもある。以上の理解を解答に盛り込む。

<GV解答例>
ひとり遊びによって自己をとりまく未知の事象を身体ごと感受し、それまでの自足した自己を切り裂き開いていくことに無上の喜びを得ること。(65)

<参考 S台解答例>
子供は自己の領域を超えた向こう側に、未知の事物や事象の巨大な広がりが存在することを、全身で鮮烈に感受するということ。(58)

<参考 K塾解答例>
今までは自己の周囲を漠然と感じていただけだったが、諸々の事情を身体全体で痛切に感受し、それに没入することで、鮮やかな印象がもたらされるということ。(73)

<参考 T進解答例>
自分の周囲の小さな世界の向こう側にあって未知であった人間や自然に関わる事物や事象の真のあり方を、鮮烈な印象を伴いつつ、初めて身体全体で感受するということ。(77w)

問三 文中の短歌「鬼なることのひとり鬼待つことのひとりしんしんと菜の花畑なのはなのはな」(傍線部ウ)に表現された情景を、簡潔に説明せよ。(60字程度)

短歌により表現された情景を問う。「情景」とは、文字どおり「情」と「景」であり、外的・客観的な対象物を超えて心に展開する主観的な風景をさす。短歌と直後の⑨段落を行き来しながら、情景を浮かび上がらせる。短歌の構造をとると、「鬼なること」と「ひとり鬼待つこと」が並列で「ひとりしんしんと(→ひっそり静かな様)」にかかり、それが「菜の花畑なのはなのはな」にかかる。⑨段落から「景」的な部分を整理すると、「菜の花畑で/かくれんぼをする/鬼がいて/隠れる私(ほか)がいる」。そこに加わる「情」的な部分は、「子供には広すぎる空間/菜の花畑は山すそまで広がるはず/何時間も熱中して待つ/ゆっくり動く時間に身を浸す/識閾(意識)にものぼらない充足感」。この「情」の部分に短歌の「しんしんと」という要素を足し、客観的な「景」→主観的な「情」という形で(「景」が「情」の前提である)、「情」に重きを置いてまとめるとよい。

<GV解答例>
菜の花畑でかくれんぼをする子供は、鬼も待つ側も、際限のない空間と悠久の時間に自己を浸し一体化して、ひとりの充足感にあるという情景。(65)

<参考 S台解答例>
かくれんぼの鬼も隠れる子供も菜の花に埋もれてひとり充ち足り、誰も見えずにただ菜の花だけが広がっている畑の情景。(55)

<参考 K塾解答例>
広い菜の花畑で、かくれんぼの鬼はひとり夢中になって隠れている子供を探し、隠れる側は見つけられることをひとり待つ中で、時間だけがゆったりと過ぎていく情景。(76w)

<参考 T進解答例>
かくれんぼをしながら、それぞれがすべきことに一人で没頭して、ゆったりと時が流れる中で無意識な充足感を抱いている、子供たちを包み込む、広大な菜の花畑の様子。(77w)

問四 「ずっと私はひとり遊びの世界の住人であった」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

内容説明問題。内容的に独立している⑩段落(大人のひとり遊び)全域を視野に置いて、要素を具体化する。まず、「ずっと(~であった)」とは、「大人になっても(~継続している)(A)」ということだが、それは傍線後2文より、「何かひとつのことに熱中しないと/落ち着かない/性癖(B)」によるのであった。
次に、「ひとり遊びの世界の住人」を具体化する。これは、もちろん子供のそれと違い、大人の「ひとり遊び」であり、それは「歌作り(C)」の上で実践される。その姿勢は、「ひたぶるに、一心に、暴力的に対象にぶつかって行く(D)」もので、「何でもないものに価値を見つけ出しそれに熱中する(E)(=ひとり遊びの本領)」ものである。Dについては、これまで繰り返し述べられている内容で、「対象に没頭する」と簡潔に表す。Eについては新たな要素だが、これも「価値を創出する」と簡略化しDに続ける。以上、BACDEによって解答を構成する。

<GV解答例>
一事に専心しないと落ち着かぬ性癖から、大人となった今も作歌の中で、対象に没頭して価値を創出するひとり遊びを実践しているということ。(65)

<参考 S台解答例>
筆者にとって歌作りは、何でもないものに価値を見つけて熱中することで、何とか世界と対峙して生きることであったということ。(59)

<参考 K塾解答例>
小さい頃から傍目には無意味に見えるものに価値を見出し、それに一心に打ち込む性向があり、大人になっても、作歌を通してそうした生き方を貫いてきたということ。(76w)

<参考 T進解答例>
何でもないものに価値を見出して身体ごと熱中する一人遊びに幼児から勤しんだ筆者は、大人になった今でも、それを作歌において実践する生き方を貫いているということ。(78w)

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