〈本文理解〉

出典は能楽師、有松遼一の随想『舞台のかすみが晴れるころ』

 

 

問一「その日その場所に立ち現れては消える時間芸術に携わる身にとって、本の力うらやましい」(傍線部(1))について、筆者が「うらやましい」と言うのはなぜか、わかりやすく説明せよ。(70字程度)

 
〈GV解答例〉
静的な時間の中で時空を超えて筆者が現れ読者との対話を実現する読書のあり方は、刹那的な時間の中で表現を強いられる能楽師の筆者には望めないから。(70)
 
〈参考 K塾解答例〉
一回限りの表現で消えゆく能のような時間芸術とは異なり、本は、いつでもどこでも、著者との対話を通してそこに秘められた意義深い思念を読み取ることができるから。(77)
 

問二「花をいける前にほとんどのことが終わっているのです」(傍線部(2))とはどういうことか、わかりやすく説明せよ。(100字程度)

〈GV解答例〉
いけ花においては生きている花を弱らせないように素早く花を立てることが大切なので、本番に至るまでに十分な準備と訓練、本番のイメージが完了していて、後は自然と花が収まるだけにしておく必要があるということ。(100)
 
〈参考 K塾解答例〉
命を宿した生き物としての花を労り、献花の手仕事を素早く済ませるために、依頼を受けてから、生け方について一心に思いをめぐらし、粉飾をそぎ落とした「そこに立つ花」のイメージを完成させておくということ。(98)
 
 

問三「その物差しはもはや馬鹿らしくなって放り出される」(傍線部(3))とはどういうことか、「その物差し」がどのような基準を指すのかを明らかにしつつ、わかりやすく説明せよ。(100字程度)

〈GV解答例〉
珠寶の立花における本番に至るまでの準備、訓練、心づくしに接して人生の過程が修行だという理を悟ると、人間社会の便宜として行為と成果を時間という均一の基準で量的に計るあり方が無意味に感じられるということ。(100)
 
〈参考 K塾解答例〉
時間のありようは人によって異なるばかりか、物事の成就にはさまざまな準備や訓練、心慮が尽くされているものであり、人生全体もそのような事前作業であるという道理に思い至れば、行為と成果の価値を均一な時間や金銭の多寡で計ることなど意味をなさなくなるということ。(127)
 
 

問四「見える部分というのは、わかりやすくもあり、あやまりやすい」(傍線部(4))とはどういうことか、能の稽古の例に即してわかりやすく説明せよ。(100字程度)

〈GV解答例〉
舞台は場の気韻から諸要因が出来して結晶化するものであり、その気韻を感取し表現する術を教わるのが能の稽古である以上、映像から芸を真似ることは分かり易い反面、稽古の本質から逸れ誤謬も伝わり易いということ。(100)
 
〈参考 K塾解答例〉
そのときその場の舞台の気韻から生まれ出るさまざまな要因が作用して芸が形を結ぶ能においては、そうした目に見えず感取するしかない気韻に合わせて表現する術を教わるのか稽古であり、映像を見て真似るだけでは生きた芸の内実を伴わないその場しのぎの稽古で終わってしまうということ。(133)
 
 

問五「ヒトやモノを確かに見、味わうことは、自分の評価軸を不断に点検し、対象の内部へ迫ることで達成される」(傍線部(5))とはどういうことか、本文後半の趣旨をふまえて、わかりやすく説明せよ。(100字程度)

〈GV解答例〉
人物や物事の本質を見抜くには、便宜的な数値や周縁の知識に頼ることなく、日頃から他者に曝け出し批評を受け鍛え上げた自らの鑑賞眼・審美眼だけを頼りに、自らを開いて対象の内部に迫っていくしかないということ。(100)
 
〈参考 K塾解答例〉
ヒトやモノには、目に見える成果や数値では決して推し計れない内実が宿されているものであり、皮層で陳腐な知識や見た目に頼らずに、そうしたヒトやモノの内実をしっかりと観取し味得するには、生きようを豊かにするべく日々を送るなかで、物事の本質を見極めうる鑑賞眼を絶えず鍛え上げる努力が必要であるということ。(148)