〈本文理解〉

出典は松井健『民藝の機微 美の生まれるところ』。著者は人類学者。前書きに「次の文章は、美術評論家で「民藝」の概念を広めた柳宗悦の思想について論じたものである」とある。
 
①段落。民藝は、普通の庶民、大衆のためにつくられ、彼らが用いるものであり、つくり手も工人とか職人とか呼ばれる普通の人たちであることは、よく知られている「定義」(注)のとおりである。そのため、民藝のつくり手は工人、職人であって、「民藝作家」という語に、違和感をもつ人がいることは予想される。「極端な場合には民藝作家というのは、語義矛盾なのではないかと論難する人たちもいる」(傍線部(1))。
 
②段落。しかし、民藝のつくり手は工人、職人であって民藝があたかも作家と関係がないように考えるのは、まったくやな柳宗悦の想定している民藝、あるいは美しいものつくりの構図に反するものである。…柳の提案を簡言すれば「正しい作家」を見出し、正しくつくられている地方の伝統的民藝を紹介して守り、新しい創造的な民藝の運動を興すことが必要だというのである。正しい作家と正しい伝統工芸との協調によって、新しい創造的な民藝が可能になるという構図が主張されているのである。…
 
③段落。そして、柳は「美しいもの」と「民藝」について、はっきりとつぎのようにいう。「民藝品だから美しいのでもなく、民藝品でないものであるから醜いのでもない。美しいものは、何ものにあれ美しいのである」。…あとにみるように、「美しいものを見つけ、つくるためには、この自由がきわめて重要なのである」(傍線部(2))。
 
④段落。柳宗悦が、自分のいう美しいものについて、きわめてわかりやすく、簡潔に書いたテクストに、「三度民藝について」がある。美しいものは、正常、無事、当たり前の素直なものであるゆえに美しいのであり、「民藝の美を見るとは、そういう「平」の美を見届ける事である」という。特定の立場への固執などのない自由さこそが民藝の美しさを支えるのである。…自我への執着からの自由が根本にあって、作為や企み、意図「はからい」、利己心などの人為的なねらいから自由になってこそものは美しくなるのである。…
 
⑤段落。では、民藝の美しいものを理想とするつくり手は、どうすればよいのであろうか。柳宗悦はこの問題についてはくり返し思索を重ねた。…美しいものをつくるという究極の目標に達することを、登山にたとえるならば、道は大きく二つに分かれる。ひとつは、自分の力量、技、感覚(いわゆる目と手)をたよりにして、けわしい道を直登するもので、これが作家の道である。自力道であり、難行道である。…もうひとつの道は、すでにある伝統のなかに身をおいて、そこから美しいものを追おうとするものである。これは工人、職人の道であって、自分の力よりも伝統の力に身を任せるという意味で、他力道であり、易行道であるとされる。…「いずれも、それぞれに難しいが、山頂に到れば、二つの道は出会うのである」(傍線部(3))。
 
⑥段落。目標としての、美しいものをつくるという山頂へは、二つの道が別々にあっても、同じ頂上に到るということは、柳が理想とした美しいものが、作家にとっても工人にとっても共通の性質を持っていることが明らかに前提とされているのである。…美しいものが、個々人の我執や利己心から離れて自由であることが必要であるならば、ではどのようにして美しいものをつくる目標は達成されるのだろうか。…
 
⑦段落。伝統的な工芸つくりの世界に身をおいて、そこで仕事を覚え、徐々に難しい作業をこなし、そこできわめられた仕事をする工人や職人においては、自分の我執や好み、利己心を発揮する場がほとんどないといってよい。…とはいえ、つくり手のかくれた持ち味のようなものが、徐々にあらわれ、同じ伝統工芸のなかにも、個人差があらわれ、優劣がはっきりとしてくる。これはつくり手の我執や好み、利己心などではない。その工芸のなかで修行し、技を身につけていく過程のあと、形をあらわしてくるつくり手の個性である。これは、そのつくり手の深いところにあって、それが長いものつくりの修練の年月のなかで熟成して発揮されることになるのであって、いわゆる我執や好みや利己心などといった表面的で「小さな」個性ではない。「濱田庄司らはこれを「大きな」個性と呼んでいる」(傍線部(4))。
 
⑧段落。これは作家についても同じで、自分の小さな個性のままに、新奇性や他のつくり手と違うものを目指したり、芸術性やオリジナリティを発揮しようとすることは、避けるべきだと見なされている。むしろ、古作の民藝など、すでにある美しいものをよく見て学ぶことが推奨される。…作家は、こうして独力で自分の眼から美しいものの精華を受容するのである。そのためには、作家は自分の眼で美しいものを発見しえなくてはならない。…しかも、その美しいものを漠然と受容するだけではなく、それを自分の創作に役立てなくてはならない。
 
⑨段落。まず、作家はこのように美しいものを自ら発見して、それを学び、自分のものつくりに役立てることを求められる。しかし、それは模倣ではなく、創作でなくてはならない。…その作業は一体どのようなものなのか。…
 
⑩段落。民芸藝というと、古作の民藝品をまねて、くり返しつくることだと考えるのは誤りである。工人や職人と呼ばれる人たちにおいても、ものつくりは日々新しい状況に対応しつつ、すこしでもよいもの、美しいものをつくろうとする研鑽のくり返しである。…作家が民藝作家であるためには、伝統的な工芸や民藝の優品、古作のなかでも柳宗悦が賛美したような美しいものから学び、自分の力で、模倣ではなく、わざとらしくない、自然に生まれでたような、それでいて間違いなく自分のものになっている作品をつくらなくてはならない。人が、わざとらしくない、自然で作為のないものをつくることができるのだろうか。
 
⑪段落。…濱田庄司は、つくり手として、的確かつ具体的な民藝のものつくりの要諦をつぎのように言い切る。「自分自身をただ民藝に引き渡すだけのことは決してしてはなりません。民藝を咀嚼し、飲み込まなければならない──食べ、食べ尽くし、腹の中へ納めなければならない」。そして、腹に納めてから、また、自分らしい実作に活かすのだというのである。
 
⑫段落。「この濱田の言葉は、独特の「食べる」比喩を用いてさらりと民藝における創造の核心を述べている」(傍線部(5))が、これを実践することはけっして易しいことではない。まず美しいものを見出し、それを自分の仕事に活かすことを前提にして、自分のものにしなくてはならない。つくり手の眼力と、自分の仕事について十分に内省了解できているかが問われよう。…そして、それをしっかりと自分のものにしたあと、自分の手から、自分のものとしてつくり出すことが求められる。模作やコピーであってはならない、あくまでよくこなれて自分のものになっていることが求められる。…
 
⑬段落。さらに、一番困難なのは、つくられたものが、ごく自然に生まれたように、作為やはからいを感じさせなくすることである。…濱田庄司は、これについても的確な指摘を行っている。濱田がよく口にする「巧匠跡を留めず」という語句は、このことを示している。よく消化して手からつくり出された品物は、もはやどこから学んだものかはわからず、まさにつくり手その人の作品でしかないようになっていなくてはならないのである。しかも、そこには、作為やはからいさえ感じられなくなっているのが理想なのである。
 
注「定義」‥‥筆者は他の箇所で、民藝の「定義」と広くみなされているものは「数多くつくられ、実用的で伝統的なものであり、地方の素材によって無名の工人によってつくられた無署名の品物であり、多くは協同、分業によってつくられていて、けっして美しいことを求めてむくられたものではない、云々」であると述べている。
 
 

問一「極端な場合には民藝作家というのは、語義矛盾なのではないかと論難する人たちもいる」(傍線部(1))とあるが、「民藝作家」と言う言葉を「語義矛盾」とするのはなぜか、わかりやすく説明せよ。

理由説明問題。「民藝」と「作家」との語義上の矛盾を端的に示せばよい。注意すべきは、「論難する人たち」にとっての「作家(性)」とはおよそ常識的な理解に基づくと思われるが、筆者はそれに修正(「小さな」個性ー「大きな」個性→問四)を加えている。ここでは、その修正に踏み込まない範囲での、常識的な(と考えられる)語義のレベルで解答する。
 
「民藝」については、傍線部のある①段落冒頭文「民藝は…大衆のためにつくられ、彼らが用いるものであり、つくり手も…普通の人たちであることは、よく知られている「定義」(注)にあるとおりである」を根拠にするとよい。これに対して「作家」は捉えづらいが、全体を見渡し、「正しい作家と正しい伝統工芸との協調によって、新しい創造的な民藝が可能になる(②)」「自分の力量、技、感覚をたよりにして、けわしい道を直登するもので、これが作家の道である(⑤)」を参照する。解答は「匿名性ー記名性(個人/個性/創造)」という対比の軸で以下のようにまとめた。
 
 
〈GV解答例〉
作り手も使用者も匿名の一般人を想定する民藝に対し、作家は独力で個性的な創造を生む個人を想定するから。(50)
 
〈参考 S台解答例〉
民芸は無名の工人による伝統工芸であるが、作家は個人的に特定の作品を創作する者だから。(42)
 
〈参考 K塾解答例〉
無名の職工によってつくられた人々の日常生活のなかでも実用品として使われる「民藝」と、芸術作品を創作する「作家」とは相容れないから。(65)
 
 

問二「美しいものを見つけ、つくるためには、この自由がきわめて重要なのである」(傍線部(2))について、筆者がこのように言う理由をわかりやすく説明せよ。

理由説明問題。「この自由」を特定し、それが「美しいものを見つけ、つくる」という目的(G)に、どのように寄与するか、説明すればよい。それで「この」の指す内容だが、前部は柳からの引用になっており、特定が困難である。そこで視点を変えて、傍線部が「あとにみるように」に導かれていることに着目し、次④段落から「特定の立場への固執などのない自由さこそが(a)/民藝の美しさを支える」「自我への執着からの自由が根本にあって(b)…人為的なねらいからの自由になってこそ(c)/ものは美しくなる」をピックする。以上のabcによって「この自由」を「特定の立場や自我への執着、人為的なねらいからの自由」(S)と具体化できたが、それがGに対して、どう寄与するかについては、まだ要素が足りない。
 
そこで全体を見渡し、⑧段落冒頭「これは作家についても同じで…新奇性や他のつくり手と違うことを目指したり、芸術性やオリジナリティを発揮しようとすることは、避けるべきだ(=S)と見なされている」以下の記述に着目する。すなわち、作家も工人や職人と同じく、古作の民藝などすでにある美しいものをよく見て学ぶことで「自分の眼から美しいものの精華を受容するのである(d)。…しかも、その美しいものを漠然と受容するだけでなく、それを自分の創作に役立てなくてはならない(→「大きな」個性の実現)(e)」を参照するとよい。
 
以上より、「Sこそが/美しいもの精華の受容を可能にし(d)/それを土台にして真の美の創造は実現するものだから(e)」
 
 
〈GV解答例〉
特定の立場や自我への執着、人為的ねらいからの自由こそが、美しいものの精華の受容を可能にし、それを土台にして真の美の創造は実現するものだから。(70)
 
〈参考 S台解答例〉
自我への執着からの解放を根本に、美を見出し人為的なねらいからの解放によって自然な作品を創作できるから。(51)
 
〈参考 K塾解答例〉
つくり手自身が、特定の立場や自我などへの固執から解き放たれ、自由になってこそ、作為的でない素直で自然な美しいものを発見し、創造することができるから。(74)
 
 

問三「いずれも、それぞれに難しいが、山頂に到れば、二つの道は出会うのである」(傍線部(3))とはどういうことか、「二つの道」の内容を明らかにして、わかりやすく説明せよ。

内容説明問題。「いずれも」(A/B)を困難な過程として指摘し、それらが出会う「山頂」(C)を明確にし、そのCという目標に到達する過程としてABが共通である(←「出会う」)ことを示せばよい。⑤段落が根拠となる。そこで、Aは「自分の力量、技、感覚(いわゆる目と手)をたよりにして、けわしい道を直登するもので、これが作家の道である」、Bは「すでにある伝統のなかに身をおいて、そこから美しいものを追おうとするものである。これは工人、職人の道であって」を参照する。Cは⑤段落冒頭「民藝の美しいものを理想とするつくり手は、どうすればよいのであろうか」を参照、これに対する2つの答えがAとBである。
以上より、「民藝における美の創造は(C)/自分の技量や感覚を頼りに創造を試みる作家の道からも(A)/伝統の中に身を置き美しいものの追究を試みる工人の道からも(B)/達成されうる共通の目標だということ」とまとめる。
 
 
〈GV解答例〉
民藝における美の創造は、自分の技量や感覚を頼りに美しいものの創造を試みる作家の道からも、伝統の中に身を置き美しいものの追求を試みる工人の道からも達成されうる共通の目標だということ。(90)
 
〈参考 S台解答例〉
作家は自力で美を創作する点で、工人は協働的に伝統工芸を受容する点で厳しいが、共に美の創造という究極の目標に達するということ。(62)
 
〈参考 K塾解答例〉
美の創造の方途には、自分の技量や感覚をたよりにする自力の道と、伝統に身を委ねて美を追求する他力の道があるが、制作が適った際には、いずれも自然の美しいものをつくり上げるという目標を達成したことになる点で同じであるということ。(111)
 
 

問四「濱田庄司らはこれを「大きな」個性と呼んでいる」(傍線部(4))について、「「大きな」個性」とはどのようなものか、わかりやすく説明せよ。

 
内容説明問題。「小さな」個性(B)と対比しながら、「大きな」個性(A)を説明するとよい。⑦段落が根拠となる。そこで、Bは「我執や好みや利己心などといった表面的で「小さな」個性」、Aは「(伝統)工芸のなかで修行し、技を身につけていく過程のあと(A1)/形をあらわしてくるつくり手の個性である(A2)/これは、そのつくり手の深いところにあって、それが長いものつくりの修練の年月のなかで熟成して発揮されることになる(A3)」を参照する。
 
以上より、「作り手の我執や好み、利己心のような表面的なものではなく(B)/伝統工芸の中での修練を通して(A1)/作り手の深層で熟成され(A3)/作品の上に自然とあらわれる個性(A3)」とまとめる。
 
 
〈GV解答例〉
作り手の我執や好み、利己心のような表面的なものではなく、伝統工芸の中での修練を通して作り手の深層で熟成され、作品の上に自然とあらわれる個性。(70)
 
〈参考 S台解答例〉
伝統工芸のなかで修行し、昔の優品を目標に精進する過程で、熟成して工芸品に発揮されるつくり手の固有性。(50)
 
〈参考 K塾解答例〉
協働的な伝統の世界に身を置く職工が昔の優品を目標にした長年にわたる修行を積むなかで熟成され、個人の我執や嗜好に囚われないつくり手の持ち味として工芸品の出来映えに表れる個性。(86)
 
 

問五「この濱田の言葉は、独特の「食べる」比喩を用いてさらりと民藝における創造の核心を述べている」(傍線部(5))とあるが、「民藝における創造の核心」とはどういうことか、比喩を解釈しながらわかりやすく説明せよ。

内容説明問題。「食べる」比喩(B)と重ねながら、「民藝における創造の核心」(A)を説明するとよい。Bは⑪段落「民藝を咀嚼し、飲み込まなければならない──食べ、食べ尽くし、腹の中へ納めなければならない(B1)/そして、腹に納めてから、また、自分らしい実作に活かすのだというのである(B2)」、Aは⑫⑬段落「まず美しいものを見出し、それを自分の仕事に活かすことを前提にして、自分のものにしなくてはならない(A1)/そして、それをしっかりと自分のものにしたあと、自分の手から、自分のものとしてつくり出すことが求められる(A2)/さらに、一番困難なのは、つくられたものが、ごく自然に生まれたように、作為やはからいを感じさせなくすることである(A3)」を参照する。さらに、比喩を「解釈」して、B2の箇所を「(咀嚼したものを)エネルギー=活力として出力する」と置き換える。
 
以上より、「食べ物を咀嚼して十分に消化した上で(B1)/活力として出力するように(B2)/美しいものを発見しそれに学びながら十分に自分の技術として昇華した上で(A1)/他から学んだ跡も自らの作為も感じさせず(A3)/その人の作品でしかないものを創造すること(A2)」とまとめる。
 
 
〈GV解答例〉
食べ物を咀嚼して十分に消化した上で、それを活力として出力するように、美しいものを発見しそれに学びながら十分に自分の技術として昇華した上で、他から学んだ跡も自らの作為も感じさせず、その人の作品でしかないものを創造すること。(110)
 
〈参考 S台解答例〉
作家が自分の学ぶべき美しいものを伝統工芸に見出し、自分の仕事に活かすことを前提に、学びつつ模倣ではなく、個性的ではありながらも自然で作為のない作品を創造すること。(81)
 
〈参考 K塾解答例〉
古作の優品から美しさを学び、その美しさを自分の仕事に活かすべく、自らの眼力や技量について内省を重ねながら、模倣に堕さぬよう手本から学んだものを十二分に消化し、ついには手本の跡形もとどめず、つくり手自身のものとしてしかいえない自然で活き活きとした作品を創造すること。(132)