〈本文理解〉

出典は伊藤亜紗『手の論理』。
 
①段落。日本語には、触覚に関する二つの動詞があります。
(1)さわる (2)ふれる
 
②段落。英語にするとどちらも「touch」ですが、それぞれ微妙にニュアンスが異なっています。
 
③段落。例えば、怪我をした場合を考えてみましょう。「傷口に「さわる」というと、なんだか痛そうな感じがします」(傍線部A)。さわってほしくなくて、思わず患部を引っ込めたくなる。
 
④段落。では、「ふれる」だとどうでしょうか。傷口に「ふれる」というと、状態をみたり、薬をつけたり、さすったり、そっと手当てをしてもらえそうなイメージを持ちます。痛いかもしれないけど、ちょっと我慢してみようかなという気になる。
 
⑤段落。…
 
⑥段落。不可解なのは、気体の場合です。部屋の中の目に見えない空気を、「さわる」ことは基本的にできません。ところが「窓をあけて空気を入れ替えると、冷たい外の空気に「ふれる」ことができる」(傍線部B)のです。
 
⑦段落。…
 
⑧段落。つまり私たちは、「さわる」と「ふれる」という二つの触覚に関する動詞を、状況に応じて、無意識に使い分けているのです。もちろん曖昧な部分もたくさんあります。「さわる」と「ふれる」の両方が使える場合もあるでしょう。けれども、そこに私たちは微妙な意味の違いを感じとっている。同じ触覚なのに、いくつかの種類があるのです。
 
⑨段落。哲学の立場からこの違いに注目したのが、坂部恵です。坂部は、その違いをこんなふうに論じています。「…ふれるという体験にある相互嵌入の契機、ふれることは直ちにふれ合うことに通じるという相互性の契機、あるいはまたふれるということが、いわば自己を超えてあふれ出て、他者のいのちにふれ合い、参入するという契機が、さわるということの場合には抜け落ちて、ここでは内ー外、自ー他、受動ー能動、一言でいってさわるるものとさわられるもよの区別がはっきりしてくるのである」(以上、引用部)。
 
⑩段落。「ふれる」が相互的であるのに対し、「さわる」は一方的である。ひとことで言えば、これが坂部の主張です。
 
⑪段落。言い換えれば、「「ふれる」は人間的な関わり、「さわる」は物的な関わり」(傍線部C)、ということになるでしょう。そこにいのちをいつくしむような人間的なかかわりがある場合には、それは「ふれる」であり、おのずと「ふれ合い」に通じていきます。逆に、物としての特徴や性質を確認したり、味わったりするときには、そこには相互性は生まれず、ただの「さわる」にとどまります。
 
⑫段落。重要なのは、相手が人間だからといって、必ずしもかかわりが人間的であるとは限らない、ということです。坂部があげている痴漢の例のように、相手の同意がないにもかかわらず、つまり相手を物として扱って、ただ自分の欲望を満足させるために一方的に行為におよぶのは、「さわる」であると言わなければなりません。傷口に「さわる」のが痛そうなのは、それが一方的で、さわられる側の心情を無視しているように感じられるからです。そこには「ふれる」のような相互性、つまり相手の痛みをおもんばかるような配慮はありません。
 
⑬段落。もっとも、人間の体を「さわる」こと、つまり物のように扱うことが、必ずしも「悪」とも限りません。たとえば医師が患者の体を触診する場合。お腹の張り具合を調べたり、しこりの状態を確認したりする場合には、「さわる」と言うほうが自然です。触診は、医師の専門的な知識を前提とした触覚です。ある意味で、医師は患者の体を科学の対象として見ている。「この態度表明が「さわる」である」(傍線部D)と考えられます。
 
⑭段落。同じように、相手が人間でないからといって、必ずしもかかわりが非人間的であるとは限りません。物であったとしても、それが一点物のうつわで、作り手に思いを馳せながら、あるいは壊れないように気をつけながら、いつくしむようにかかわるのは「ふれる」です。では「外の空気にふれる」はどうでしょう。対象が気体である場合には、ふれようとするこちらの意志だけでなく、実際に流れ込んでくるという気体の側のアプローチが必要です。この出会いの相互性が「ふれる」という言葉の使用を引き寄せていると考えられます。
 
⑮段落。人間を物のように「さわる」こともできるし、物に人間のように「ふれる」こともできる。このことが示しているのは、「ふれる」は容易に「さわる」に転じうるし、逆に「さわる」のつもりだったものが「ふれる」になることもある、ということです。
 
⑯段落。相手が人間である場合には、この違いは非常に大きな意味を持ちます。たとえば、障害や病気とともに生きる人、あるいはお年寄りの体にかかわるとき。冒頭に出した傷に「ふれる」はよいが「さわる」は痛い、という例は、より一般的な言い方をすれば「ケアとは何か」という問題に直結します。
 
⑰段落。ケアの場面で、「ふれて」ほしい時に「さわら」れたら、勝手に自分の領域に入られたような暴力性を感じるでしょう。逆に触診のように「さわる」が想定されている場面で過剰に「ふれる」が入ってきたら、その感情的な湿度のようなものに不快感を覚えるかもしれません。ケアの場合において、「ふれる」と「さわる」を混同することは、相手に大きな苦痛を与えることになりかねないのです。
 
⑱段落。あらためて気づかされるのは、私たちがいかに、接触面のほんのわずかな力加減、波打ち、リズム等のうちに、相手の自分に対する「態度」を読み取っているか、ということです。相手は自分のことをどう思っているのか。あるいはどうしようとしているのか。「さわる」「ふれる」はあくまで入り口であって、そこから「つかむ」「なでる」「ひっぱる」「もちあげる」など、さまざまな接触的動作に移行することもあるでしょう。こうしたことすべてをひっくるめて、「接触面には「人間関係」があります」(傍線部E)。
 
⑲段落。この接触面の人間関係は、ケアの場合はもちろんのこと、子育て、教育、性愛、スポーツ、看取りなど、人生の重要な局面で、私たちが出会うことになる人間関係です。そこで経験する人間関係、つまりさわり方/ふれ方は、その人の幸福感にダイレクトに影響を与えるでしょう。
 
⑳段落。「よき生き方」ならぬ「よきさわり方/ふれ方」とは何なのか。触覚の最大のポイントは、それが親密さにも、暴力にも通じているということです。人が人の体にさわる/ふれるとき、そこにはどのような緊張や信頼、あるいは交渉や譲歩が交わされているのか。つまり「触覚の倫理とは何なのか」(傍線部F)。
 
 

〈設問解説〉
問1「傷口に「さわる」というと、何だか痛そうな感じがします」(傍線部A)とあるが、それはなぜか、その理由について説明しなさい。(2行)

 
理由説明問題。九州大学の特徴として、傍線部は本文の順通りに引かれるが、解答根拠はそうとは限らないというのがある。これも傍線部は③段落だが、解答根拠は⑫段落「傷口に「さわる」のが痛そうなのは、それが一方的で、さわられる側の心情を無視しているように感じられるから」となる。加えて、「ふれる」が人間、「さわる」が物を対象とする、という原則(⑪)を踏まえる。以上より「「さわる」という言葉は/相手を物のように扱い/一方的で/相手の痛みを無視しているように感じられるから」と解答できる。
 
 
〈GV解答例〉
「さわる」という言葉は、相手を物のように扱い、一方的で、相手の痛みを無視してるように感じられるから。(50)
 
〈参考 S台解答例〉
傷口に「さわる」という触覚的動詞の使用では、体を物と扱い、相手の心情を無視する一方的な行為と感じられるから。(54)
 
〈参考 K塾解答例〉
傷口に「さわる」という表現には、さわられる側の痛みを無視した一方的なものという意味が読み取れるから。(50)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
「さわる」という言葉には、さわられる側の痛みを思いやる配慮がなく、一方的に行為におよぶようなイメージが伴うから。(56)
 
 

問2「窓をあけて空気を入れ替えると、冷たい外の空気に「ふれる」ことはできる」(傍線部B)とあるが、なぜ著者は空気に「ふれる」ことができると考えているのか、その理由について説明しなさい。(3行)

 
理由説明問題。これも問1と同様、九州大学の特徴が出た問題で、傍線部は⑥段落、解答根拠は⑭段落「対象が気体である場合には、ふれようとするこちらの意志だけでなく、実際に流れ込んでくるという気体の側のアプローチが必要です。この出会いの相互性が「ふれる」という言葉の使用を引き寄せていると考えられます」となる。加えて、「ふれる」が「人間的な関わりの(⑪)/相互性(⑩)」を特徴とする点を踏まえる。以上より「「ふれる」という言葉は/人間的な関わりの/相互性を特徴とするが/空気の場合でも人間が触れようとするだけでなく/空気が流れ込んでくるという/相互性をもつから」と解答できる。
 
 
〈GV解答例〉
「ふれる」という言葉は人間的な関わりの相互性を特徴とするが、空気の場合でも人間が触れようとするだけでなく、空気が流れ込んでくるという相互性をもつから。(75)
 
〈参考 S台解答例〉
窓をあけて換気する場合、空気にふれようとする人間の意志だけでなく、実際に空気が流れ込んで近づくところに、相互性が感じられ、「ふれる」という言葉の使用を促されるから。(82)
 
〈参考 K塾解答例〉
外気にふれる場合には、外気にふれようとする人間の意志と、窓から流れ込んでくる空気の側のアプローチとのかかわり合いという相互性が感じ取れるから。(71)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
空気は目に見えないために、それを感じ取ろうとする人間側の意志だけでなく、流れ込む気体側のアプローチも必要であり、そこに「ふれる」体験が持つ出会いの相互性が生まれるから。(84)
 
 

問3「「ふれる」は人間的なかかわり、「さわる」とは物的なかかわり」(傍線部C)とあるが、ここでいう「人間的なかかわり」と「物的なかかわり」とは、それぞれ具体的にどういうことか、説明しなさい。(4行)

 
内容説明問題(対比)。傍線部が「言い換えれば」に導かれるので、前段(⑩)に遡り「ふれる(X);人間的/相互的関係」/「さわる(Y);物的/一方的関係」であると整理できる。さらにX/Yを具体化するために、筆者が依拠する坂部恵の引用部(⑨)を参照するとよい。X/Yの対比が明確になるように、それぞれの要素を抜き出すと、X「自己を超える(x1)/他者のいのちにふれ合う(x2)」/Y「自ー他の区別(y1)/(y2)」と整理できる。このとき、(x2)に対応する(y2)の要素が埋まらないが、(y1)の延長上で「物としての性質や特徴を確認したり、味わったりする」(⑪)や「医師は患者の体を科学の対象として見ている」(⑫)などの「さわる」の具体例を踏まえて導くとよい。
以上より、「「ふれる」(前者)は相互的な関与を基本とし/自己を超えて他者に触れ(x1)/心的な交流に発展しうるものである(x2)//「さわる」(後者)は一方的な関与を基本とし/自己と対象を明確に区別した上で(y1)/対象を客観的に判断する契機となるものである(y2)」と解答できる。
 
 
〈GV解答例〉
前者は相互的な関与を基本とし、自己を超えて他者に触れ、心的な交流に発展しうるものである。他方、後者は一方的な関与を基本とし、自己と対象を明確に区別した上で、対象を客観的に判断する契機となるものである。(100)
 
〈参考 S台解答例〉
前者が、対象を人間のように生命ある存在とみなしてふれ合い、その生命を尊重する総合的なかかわりであり、後者は、対象を物とみなし、その特徴や性質を確認したり、味わったりする一方的なかかわりである。(96)
 
〈参考 K塾解答例〉
「人間的なかかわり」は、ふれあうもの同士の間にいのちをいつくしむような相互性が生じるものであるが、「物的なかかわり」は、物としての特徴や性質を一方的にさわることで確認したり、味わったりするものである。(100)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
「人間的なかかわり」とは、自他の境界を超えて相互に相手のいのちをいつくしみ思いやる関係性。「物的なかかわり」とは、自他の区別を前提として、一方的に相手の性質を確認したり、自分の欲望を満たしたり、科学の対象として扱ったりすること。(114)
 
 

問4「この態度表明が「さわる」である」(傍線部D)とあるが、それは具体的にどういうことか、説明しなさい。(3行)

 
内容説明問題。「この態度表明」とは医師による触診のあり方(の実行)を指す。よって⑬段落に即して(「具体的に」)、「医師は〜ように触診するということ」と構文を変換してまとめるとよい。まず「さわる」の基本に戻って、それは「物的/一方的関係」だということを確認する(問3)。その上で、医師の患者に対する関係も、「さわる」関係が敷衍されるというのが⑬段落である。つまり医師は「専門的な知識を前提として(a)/患者の体を科学の対象として見ている(b)」のだが、この要素に医師は「自らの人間的感情を持ち込まない(c)」(←「感情的な湿度」⑰)/「患者を感情のない物のように扱う(d)」を加えるとよい。以上より「医師は、専門的な知識を前提として(a)/自らの人間的感情を持ち込まず(c)/患者を感情のない物のように扱い(d)/科学の対象として(b)/その体に「さわ」り触診するということ」と解答できる。
 
〈GV解答例〉
医師は、専門的な知識を前提として、自らの人間的感情を持ち込まず、患者を感情のない物のように扱い、科学の対象としてその体に「さわ」り触診するということ。(75)
 
〈参考 S台解答例〉
医師は、専門的な知識を前提に患者の体を医学の対象として一方的に触診することで、症状を医学的に判断しているという態度を患者に示しているということ。(72)
 
〈参考 K塾解答例〉
医師が患者の身体を科学の対象として見るという診察態度が、医師が患者のお腹の張り具合などを調べるために、患者の体に一方的にさわることで示されるということ。(75)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
医師が患者の体を触診するとき、体を物のように「さわる」のは、感情を排除して、あくまで医学の専門家として、患者の身体を科学の対象として見ようとしていることの表れだということ。(86)
 
 

問5「接触面には「人間関係」があります」(傍線部E)とあるが、それは具体的にどういうことか、説明しなさい。(4行)

 
内容説明問題。⑱⑲段落の「具体的」な内容を参照しながら、傍線部をパラフレーズする。まず「接触面には」(A)を具体化すると「人生の重要局面に特徴的な(⑲)/「さわる」「ふれる」を起点とする(⑱)/人と人の接触面での全ての動作においては(⑱)」(A+)となる。
 
次に「「人間関係」があります」(B)について、「人間関係」のカギカッコを外し、その含みを表現する必要がある。根拠となるのは、⑱段落「接触面のほんのわずかな力加減、波打ち、リズム等のうちに(A)/相手の自分に対する「態度」を読み取っている」(b1)という箇所。これは裏を返せば、「接触面で(A)/自分の相手に対する態度が表れる」(b2)という意味でもある。要するに、接触面(A)において、主体と客体の人間関係の「程度」が表れる(B+)、ということである。以上より、先述のA+につなげて「主体の客体に対する態度が表れ(b2)/客体も主体の態度を読み取るというように(b1)/人間関係の程度が表出するということ(B+)」とし、最終解答とする。
 
 
〈GV解答例〉
人生の重要局面に特徴的な「さわる」「ふれる」を起点とする人と人の接触面での全ての動作においては、主体の客体に対する態度が表れ、客体も主体の態度を読み取るというように人間関係の程度が表出するということ。(100)
 
〈参考 S台解答例〉
ケアの場面で人間は、さまざまな接触的動作において、相手は自分のことをどう思っているのか、どうしようとしているのかという相手の自分に対する「態度」を読み取り、人生の重要な局面で経験する人間関係に出会うということ。(105)
 
〈参考 K塾解答例〉
ケアの場面で、他人にふれたりさわったりする接触面のほんのわずかな力加減、波うち、リズム等のうちに、ケアする人のケアされている自分に対する心情や態度が読み取れてしまうということ。(88)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
ケアや子育て、教育や性愛など、人生の重要な局面で人が人にさわったりふれたりするとき、人はその接触面のわずかな力加減や波打ちやリズムなどから、相手の自分に対する思いやりや意図を感じとっており、それは両者の関係性に直接影響をおよぼすということ。(120)
 
 

問6「触覚の倫理とは何なのか」(傍線部F)とあるが、筆者がこのように問うのはなぜか、その理由について説明しなさい。(5行)

 
理由説明問題(主旨)。直接理由の根拠は前⑲段落「さわり方/ふれ方は、その人の幸福感にダイレクトに影響を与える」。「倫理」という言葉を意識し、「よきさわり方/ふれ方」(20段落)という語を使い、解答の締めを「「よきさわり方/ふれ方」を追究することは、幸福感に直結すると考えられるから」(A)(→触覚の倫理を問う)と導く。
では、なぜAといえるのか(根本理由への遡及)。根拠の一つ目は、⑮段落「「ふれる」は容易に「さわる」に転じうるし、逆に「さわる」つもりだったものが「ふれる」になることもある」(R1)。二つ目は、⑰段落「(ケアの場面において)「ふれる」と「さわる」を混同することは、相手に大きな苦痛を与えることになりかねない」(+その事例)(R2)。この二つを軸に根本理由を構成し、以下のように解答をまとめる。「物のように「さわる」ことと人間のように「ふれる」ことは容易に逆転しうる上(R1)/どちらの行為も適切な場面で行われなければ相手を不快にすることもある(R2)/その意味で「よきさわり方/ふれ方」を追究することは/幸福な人間関係を追究することに直結すると考えられるから(A+)」。
 
 
〈GV解答例〉
物のように「さわる」ことと人間のように「ふれる」ことは容易に逆転しうる上、どちらの行為も適切な場面で行われなければ相手を不快にすることもある。その意味で「よきさわり方/ふれ方」を追究することは、幸福な人間関係を追究することに直結すると考えられるから。(125)
 
〈参考 S台解答例〉
人間は状況に応じて、「さわる」と「ふれる」を無意識に使い分け、その微妙な意味の違いを感じとる。触覚は親密さにも暴力にも通じており、人生の重要な局面で経験するさわり方/ふれ方が、互いの幸福感に直接影響を与えるので、「よきさわり方/ふれ方」という触覚の倫理を考える重要性を示すため。(139)
 
〈参考 K塾解答例〉
「ふれる」「さわる」は親密さにも暴力にも通じており、ケア、子育て、教育、性愛、スポーツ、看取りなど、人生の重要な局面で私たちが出会うさわり方/ふれ方は、その人の幸福感にダイレクトに影響を与える以上、「よきさわり方/ふれ方」について問う必要があるから。(125)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
触覚には、物的で一方的な「さわる」と人間的で相互的な「ふれる」があるが、触覚は親密さにも暴力にも通じる感覚であり、「さわり方/ふれ方」は幸福感に直結する重要な問題であるため、私たちはよい人間関係をつくるために、「よきさわり方/ふれ方」とは何かについて考えていかなければならないから。(140)