〈本文理解〉

出典は永井均『〈私〉の存在の比類なさ』。

①段落。「他者」をめぐる以下の考察は、徹頭徹尾デカルト的観点からなされる。しかし、デカルト的観点とは何か。ここであらかじめ、一つの誤解を正しておきたい。それは、方法的懐疑の結果デカルトが発見した「私」の存在を「近代的自我」なるものの発見に重ね合わせてしまう見解である。これはまったく間違っている。…そして、もしかりにこの文脈で「近代」ということについて語ることに意味があるとすれば、デカルト的「私」は、明らかに近代を「超える」ものであるといわなければならない。近代的であることは、いっさいの唯一性を否定し、すべてを同等なるものの複数性において語ろうとする志向をもつことであるのに対して、ここでデカルト的であるとは、本質的に隣人をもちえない唯一なるものとしてのこの私の存在にどこまでも固執することを意味するからである。近代とは、ひとことで言えば、「等質空間の捏造」(傍線部A)の時代であり、デカルト的であることは、まさにその等質性こそを疑うことなのである。

②③段落。自分と他人は違う。自分のことはよくわかるが、他人のことはよくわからない。いま自分が何を考え、何を感じているか、それは手に取るようによくわかる。しかし、いま他人が何を考え、何を感じているか、これは手に取るようにはわからない。自他の非対称性は、誰もが知っている事実である。「他者の問題」のもとにあるのはこの事実であってそれ以外ではありえない。しかし、この事実をどのようにとらえるかによって、「他者の問題」は多様な相貌をみせる。それはまた、他者の他者性をどこに見いだすか、ということでもある。

④段落。まず、他人が何を考えているかわからない、という点を取り上げてみよう。今、路上でたまたま見かけた友人が、何かを必死に考えている様子である。…彼が何を考えているのか、どうすればわかるだろうか。彼に聞いてみればいい。だが、聞いてみるしかない。彼の答えが「暗算をしていた」であれば、疑問は氷解するだろう。なお残るわからなさは、なぜ彼は暗算などをしていたのか、という点だけであろう。「なぜそんなことをしているんだい?」と聞いてみる。もし彼の答えが「路上で暗算をすると心が晴れる」だったとすれば、「今度のわからなさは最初のそれとは異質である」(傍線部B)。そして、そのわからなさがどこまで問答を続けても晴れないとき、そこに「他者の問題」がある仕方で登場してくることになる。このような場合に問題となる他者の他者性を、かりに「理由の他者性」と呼ぶことにしよう。

⑤段落。理由の他者性について論じるべきことがらは多い。それは結局のところ人間の行為全般におよぶからである。およそ人間が自らおこなう行為のすべては…その人の考えることによって導かれており、人の考えることは…理由の連鎖によって成り立っているからである。ところが、ある人にとってもっともな理由は他の人にとっては納得のいかない理由である。納得のいかない理由によってなされた行為は不可解な行為であり、そのような行為をおこなう人物は不可解な人物である。要するに、ここで問題になっているのは人間の従う規範なのであって、異なる規範に従う者が、すなわち他者なのである。「したがって、すべての人間があらゆる点で同一の規範に従うとすれば、この意味での他者は存在しないことになる」(傍線部C)。

⑥段落。次に、他人が何を感じているかわからない、という点について考えてみよう。今、路上で見知らぬ老女がつまづいて倒れ、膝がしらを擦りむいて痛そうにしている。彼女が何を感じているのかは一見して明らかだが、断言できないので、彼女に聞いてみる。彼女が「痛い」と答えたならば、この上はいかなる疑問も残らない。彼女は痛みを感じていたのである。

⑦段落。ここで重要なことは、なぜ彼女は痛みを感じていたのか、という疑問は残りえない、という点である。…なぜその痛みが起こったのか決定できるのは、彼女を外から観察する医者であって、彼女自身ではない。痛みは、彼女に起こる出来事であって、彼女がおこなう行為ではないからである。起こる出来事にとって、問題なのは原因であって理由ではない。「それゆえ、「理由の他者性」はここでは問題になりえない」(傍線部D)のである。

⑧段落。それならば、ここで問題となりうるのはいかなる他者性であろうか。それは彼女が感じているものそのものの他者性である。これを「感覚の他者性」と呼ぶことにしよう。感覚の他者性という「問題」は、おそらく哲学者によって作られた問題である。哲学者は、大略次のように説明する。われわれは誰も他人の感覚を感じることができない。「痛み」とはそもそも「私の痛み」を意味する言葉なのであって、「他人の痛み」が何を意味しているのかは、誰にもわからないのである。それにもかかわらず、通常われわれはその種の言葉を問題なく使っている。それはどうしてなのか。

⑨段落。つまり、ここでは、本来問題を感じて然るべきところで誰も問題を感じていない、ということが問題なのである。一見したところでは、この「感覚の他者性」という問題は、思考や意図や期待を含めたすべての心理現象について妥当する問題であるかのように見える。誰も他人の思考や意図や期待を体験したことはないからである。しかし、「そうではない」(傍線部E)。思考や意図や期待には、理由の他者性はあっても感覚の他者性はないのだ。なぜならば、ある人が感覚しているとき体験していることは感覚の本質をなすのに対し、思考(意図・期待)しているときに体験していることは、思考(意図・期待)の本質とは無関係だからである。…

⑩段落。感覚の他者性をめぐる問題のうちで最も興味深いのは「ロボットの疑惑」に関するものである。誰も他人に起こる心的現象を経験したことはないのだから、他人と人間にそっくりに出来たロボットの間には区別が成り立たないことになる。「感覚の他者性を前提する限り、他人の痛みとはすなわち他人の痛みの振る舞いのことでしかありえず」(傍線部F)、そうである以上その他人と同じように振る舞うロボットは、他人と同じ意味で「痛みを感じている」ことになる。逆にもし、ロボットが痛みを感じるはずはない、というのであれば、他人もまた痛みを感じるはずはない、ということになる。ということはつまり、古くからの友人の一人が、精巧に出来たロボットであることがわかったとしても、そこには何の違いも認められない、ということである。奇妙なことではないだろうか。

〈設問解説〉問一 「等質空間の捏造」(傍線部A)を分かりやすく説明せよ。(二行:一行25字程度)

内容説明問題。「等質空間の(X)/捏造(Y)」。Aの根拠になるのは、傍線前文「近代的であることは、いっさいの唯一性を否定し、すべてを同等なるものの複数性において語ろうとする志向をもつ」である。Yについては直接的な根拠はないので、語義に基づき言い換える。また、動詞的名詞であるから動詞化して、「近代は/自然に反して/(Xを)志向してきたこと」とする。ここに組み込む形で、Xを「いっさいの唯一性を否定し/すべて同等の成員により構成される場」として仕上げとする。

<GV解答例>
近代は、自然に反して、いっさいの唯一性を否定し、全て同等の成員により構成される場を志向してきたこと。(50)

<参考 S台解答例>
空間は本来同等ではないのに、いっさいの唯一性を否定し、すべてを同等なるものの複数性として虚構化してしまうこと。(55)

<参考 K塾解答例>
本来世界は唯一性が支配的であるはずなのに、そのすべてを同等なるものの複数性において語ろうとすること。(50)

問二 「今度のわからなさは最初のそれとは異質である」(傍線部B)とあるが、両者のわからなさはどういう意味で異質なのか、説明せよ。(六行:一行25字程度)

内容説明問題(対比)。主に④段落を根拠に、「今度のわからなさ」(X)を「最初のそれ」(Y)と対比しながら整理する。まず、Yは「他人が何を考えているのか」(Y1)という「対象への疑問」(Y2)であるのに対し、Xは「Yの問いへの他人の応答から派生する/他人がなぜその行為をしていたのか」(X1)という「理由への疑問」(X2)である。次に、Yが「他人に聞くことで解消するもの」(Y3)であるのに対し、Xは「どこまで問答を続けても晴れない場合があるもの」(X3)である。では、どういう場合に疑問が「晴れる」のか。⑤段落「異なる規範に従う者が、すなわち他者なのである」を逆利用して、「規範が重なった場合に」疑問が解消する。つまり「自他の行為規範が重ならない場合、解消されない」(X3+)のである。

以上より、「Yは(Y1→Y2→Y3)。Xは(X1→X2→X3+)」とまとめる。

<GV解答例>
「最初のわからなさ」は、他人が何を考えているかわからないという対象への疑問であり、他人に聞くことで疑問は解消する。「今度のわからなさ」は、先の問いに対する他人の応答から派生するもので、思考対象となる行為がなぜなされたかわからないという理由への疑問であり、自他の行為規範が重ならない場合、解消されない。(150)

<参考 S台解答例>
「最初のわからなさ」とは、他人が何を考えているのか、微に入り細をうがって外から観察して見ても、言い当てることは絶対に不可能であるという点であるが、「今度のわからなさ」とは、なぜそのそうなことを他人が考えていたのか、その答えを聞いても理由が納得できないという点である。両者は内容と思考の理由という点で異なる。(153)

<参考 K塾解答例>
「最初のわからなさ」は、路上でたまたま見かけた友人が必死で考えていることについて、外から観察しても理解不可能だが、当人に聞けば解決するというわからなさである。一方「今度のわからなさ」は、その友人が路上で暗算する理由を聞いても、それが自分には納得できないものであったというわからなさである。(144)

問三 「したがって、すべての人間があらゆる点で同一の規範に従うとすれば、この意味で他者は存在しないことになる」(傍線部C)とあるが、なぜ、そう言えるのか、説明せよ。(四行:一行25字程度)

理由説明問題。傍線は「同一の規範に従うとすれば/この意味での他者は存在しない」だから、その理由は、傍線前文の内容も踏まえ、「規範の違いにこそ/他者性が根拠づけられるから」(R)という形になる(ないある変換)。あとは、傍線が⑤段落の末文にあり、「したがって」で始まることに着目して、⑤段落の要点をまとめ、Rにつなげればよい。

以上より⑤段落の因果を整理すると、「行為は本質的に考えることにより導かれる」→「考えることは本質的に理由の連鎖により成り立つ」→「理由の他者性は人間行為の全般におよぶ」→「規範が異なると行為の理由が納得できない(=行為の理由が納得できるのは規範を共有しているからだ)」→Rとなる。以上を縮約するとよい。

<GV解答例>
本質的に、行為は思考に拠り、思考は理由の連鎖に拠る以上、理由の他者性は人間の行為全般におよぶが、行為の理由が納得できるのは規範を共有しているからであり、規範の違いにこそ他者の存在が根拠づけられるから。(100)

<参考 S台解答例>
人間が行う行為のすべては、理由の連鎖によって成り立っており、その理由は他人には納得いかないものである。このように異なる規範に従う者が他者であるので、同一の規範に従うならその人間は他者ではなくなるから。(100)

<参考 K塾解答例>
人間が自ら行う行為のすべては、その人の考えることによって導かれており、その考えることは理由の連鎖によって成り立っているが、その理由がすべて同一となった場合、異なる規範に従うという他者はいなくなるから。(100)

問四 「それゆえ、「理由の他者性」はここでは問題になりえない」とあるが、なぜ、そう言えるのか。「理由の他者性」の意味に基づいて説明せよ。(四行:一行25字程度)

理由説明問題。「ここ」とは、⑦段落初め「なぜ彼女(→他人)は痛みを感じていたのか」(X)という疑問のことであり、ここでは「理由の他者性」は問題になりえない理由を問うている。「理由の他者性」とは「他人の行為の理由は、本人以外わかりえない」(Y)(④)ということである。傍線は「それゆえ」で始まるので、前の3文を参照すると、「痛みは出来事であり/その原因を特定できるのは本人ではなく医者(→第三者)である」と把握できる。つまり、「Xは/Yとは異なり/第三者により客観的に導かれる出来事の原因であるので/理由の違いを根拠に自他を分離できない」、ゆえに理由の違いにより自他が分離される「理由の他者性」は問題になりえない、となる。

<GV解答例>
他人がなぜ感じているかは、他人の行為理由がその当事者により主観的にしか導けないのと異なり、その当事者以外の第三者により客観的に導かれる出来事の原因であるので、理由の違いを根拠に自他を分離しえないから。(100)

<参考 S台解答例>
理由の他者性とは、その人の行為の理由が他人には納得できないことであるが、他人が何を感じているのかわからない場合、その人が感じているものは出来事であって、行為ではない。したがって、出来事にとって、問題なのは原因であって理由ではないから。(117)

<参考 K塾解答例>
「理由の他者性」とは自分とは異なる理由に他人が従っていることであるが、痛みという現象は当人の行為ではなく当人の身体に起こる出来事であり、その出来事に対して問題となっているのは理由ではなく原因であるから。(101)

問五 「そうではない」(傍線部E)とあるが、具体的にはどういうことか。本文中の語句を使って説明せよ。(三行:一行25字程度)

内容説明問題。「そうではない」(X)という表現は、一度「そうである」(Y)と肯定したことを否定するという判断である。ならば、あわせて判断の根拠(R)を示す必要がある(Y→R→X)。Yは「しかし」で始まる傍線一文の前文より、「感覚の他者性は/感覚以外の心理現象(思考や意図や期待など)に妥当する」ということだが、実際は「そうではない→感覚のみの問題である」(X)(ないある変換)のである。その根拠は、傍線の2文後より「感覚は体験を本質とするのに対し/他の心理現象は体験を本質としない」(R)からである。つまり、感覚については「体験する/体験しない」で自他を切り分ける(=感覚の他者性)が、他の心理現象は「体験する/体験しない」は自他を切り分けない、よって「感覚の他者性」は感覚のみの問題なのである。

<GV解答例>
感覚の他者性は他の心理現象にも妥当するようだが、感覚の体験が感覚の本質であるのと違い他の心理の体験はその本質ではないので、感覚のみの問題だということ。(75)

<参考 S台解答例>
思考や意図や期待には、他人の感覚を感じることができないという感覚の他者性の問題があるように見えるが、理由の他者性はあっても、感覚の他者性はないということ。(77)

<参考 K塾解答例>
他者が感じているものを自分が感じられない「感覚の他者性」という問題は、思考や意図や期待を含めたすべての心理現象について妥当する問題ではないということ。(75)

問六 「感覚の他者性を前提にする限り、他人の痛みとはすなわち他人の痛みの振る舞いのことでしかありえず」(傍線部F)とあるが、なぜ、そう言えるのか、分かりやすく説明せよ。(五行:一行25字程度)

理由説明問題。前提となる「感覚の他者性」とは、「感覚はその体験を本質とし(⑨)/誰も他人の感覚を体験できない(⑧)/よって他人の感覚は当事者以外の誰にもわからない(⑧)」(X)ということである。そして、Xから他人の痛みと思われるものについても体験不能なので、「その痛みそのものとは言えないから」(R)とつなげば、一応の答えはできる。しかし、これでは傍線の「他人の痛みすなわち他人の痛みの振る舞い」という含意が説明できていない。それで、これについての言い換え表現を傍線前後や同⑩段落(「ロボットの疑惑」)に探しても、見当たらないのである。それでも作問者がここを問うているのなら、筆者の言わんとしていることを自力で言語化するしかない。

ここでのロボットの題材を借りて説明しよう。ロボットは人間が痛みを感じた時の振る舞いをそっくり再現してみせる。もし、そこに「振る舞い」に相当する痛みがないというならば、他人だって痛みを感じていないのである。だって他人の痛みは体験できないし、分かりっこないのだから。「痛みを感じていない」がばからしいならば、「他人の痛みは「痛み」と思われる振る舞いからの類推でしかない」(Y)。そこに他人とロボットの間の区別はないのである。先のXとRの間にYを挟んで解答とする。

<GV解答例>
感覚の他者性とは、感覚はその体験を本質とし誰も他人の感覚を体験できない以上、その人の感覚は当事者以外の他人には絶対的にわかりえないということであり、故に他人の痛みについても「痛み」と思われる振る舞いからの類推でしかなく、その痛みそのものではないから。(125)

<参考 S台解答例>
誰も他人に起こる心的現象を経験したことがないのだから、誰も他人の感覚を感じることができないという感覚の他者性を前提とすれば、他人の痛みという心的なものを感じることができないので、他人の痛みは振る舞いという外見的なものとしてしかとらえることができなくなるから。(129)

<参考 K塾解答例>
他人に起こる心的現象を誰も経験したことがないことに基づく「感覚の他者性」という哲学者が作り出した問題に囚われている限り、他人の痛みそのものを自分が経験することはできず、自分から理解できるのは他人の振る舞いという外部から観察できることでしかないから。(124)