〈本文理解〉

出典は上田薫『人が人に教えるとは』。

①段落。一病息災とは、一病ゆえにかえって健康に心を用い、無事を保ちうるということである。だからそれは、いくらか弱気の、しかし賢明で慎重な処世法だということができる。そこには、無理をしない安全志向こそ、平凡な人間の歩むべき道だという教訓がにじんでいる。

②段落。けれども一度も落伍したことのないいわば勢いに乗る人間には、そのようにいじいじしたまどろっこしい生きかたは、容易に我慢できぬものであろう。いや道徳も科学も、「そういうあいまいさ」(傍線部A)を排して、はっきりつじつまの合う徹底した立場を貫こうとしているのである。いわば無病息災、完全な平安をかちとってこそ、文句のない勝利をわがものにすることができるのである。

③段落。無病息災は強健な身体と健康保持への完璧な努力によって生まれる。それゆえに、無病息災を確信し自負する者は、おのずからにして誇りにみち、やがては傲慢に傾く。すなわち病をもつことを恥じ嫌悪する心情を強める。有病の者をあわれみ軽侮する傾向をいちじるしくする。かれらの住む世界、住むべき世界は、本来完全であり絶対であり、またいえばまさに「当為そのものの在所」(傍線部B)なのである。

④段落。しかし、ほんとうにかくのごとき無病息災は、この世に存在しうるのであろうか。…つきつめていえば、無病息災は程度の問題にすぎないのである。

⑤段落。しかし世の中には現に真実が存在し、正解が成り立っている。普遍性は決して虚妄ではない。無病息災はややあいまいな概念のようであるが、真理の発見や真実に即した行動と同じように、いやそれ以上に、「それは人間のある具体的なありかたを示しえている」(傍線部C)のではないか。まずなによりも人びとは、それを実現しうるものとして意識し、求めている。その働きを無視することは許されない。

⑥段落。けれども無視することができぬからこそ、無病息災の立場は有害であるというのが、わたくしの主張なのである。本質的には、すでに言ったようにそれは病ある人たちを憐れみ軽んじ、指弾することさえしかねないからである。その不当な優越感は、謙虚に現実に即することをおろそかにして、むぞうさに “はず” とか “べし” とかにあぐらをかいてしまう。旅人をベッドの長さに合わせて伸ばしたり切り捨てたりして殺したというプロクルステスの寝床そっくりの概括信仰がそこにはある。しかもその実は「大義名分の陰に隠れて、ひたすら形式へと逃げてばかりいる」(傍線部D)。だからそれは論理ではなく、もはや情緒的な病、絶対病というべきものにほかならないのである。

⑦段落。一病息災は無病息災に対するものである。一病の一は現実の一を意味するとともに、無に対する有としていくつかの病を、つぎつぎに、あるいは同時にもつことをも含んでいる。したがって一病息災の一は、現実に一を示しつつもその底において、多あるいは複数を意味すると解すべきなのである。たしかに一つの持病あることは息災にも寄与しうるが、現実にはむしろいくつもある可能性が大きいであろう。ゆえにここで重大であるのは、無病ではなく有病であること、もっといえば、人間は決して無病ではありえないということなのである。さらに加えて、有病であるにもかかわらず、いや「有病なればこそ、真に息災でありうる」(傍線部E)ということなのである。

⑧段落。一病あるゆえにわが身のありかたによく心を用いるということは根本において人間に対して柔軟に深く理解できるということにほかならぬ。それは無病息災というごとき抽象に固執せず、病を手がかりとして人生を奥行きあるものにするという具体的な生きかたを実現しうるということである。すなわち、無病でありうるとする抽象的観念的な独断的把握に落ちこむことなく、したがって無理に背のびをし、他をおとしめたりすることをしない、現実的弾力的な、いわば相対的な見かたができるということである。人間はそういう姿勢を身につけたとき、その人としてきわめてよきコンディションを生み出すことができる。

⑨段落。かくて一病息災の立場に立つということは、ことがらに淡々と正対して無理をすることなく、広い視野のもとに奥深く追究してやむことがないということである。そこにあるのは不完全を前提とした論理であり、その意味において一は実はつまずきを表わすものということができよう。つまずいたことがあるために、人間はわが人生を深さのあるものにすることができる。無病息災の人間には、しょせん無縁のものというべき人生である。

⑩段落。無病息災は、つるつるしたとらえどころのない抽象である。それに対して一病息災は、具体的なでこぼこをもち核をもった多面の統一だということができる。それはまさしく生きた個性的バランスをもち、個が具体的に自己を維持し発展させていく姿である。「そこでは人間としてたえざる自己革新が求められる」(傍線部F)が、一病の一はまさにその革新のための貴重な拠点となるものだといってよい。

⑪段落。無病息災は自足することによって、人間を抽象のなかに閉じこめた。徳目主義の道徳の世界がその典型である。そこでは、生きた人間における可能性が具体的に問われることなく、神のごとき宗教家、完璧を自負する教師、自信にみちあふれたコーチ、かれらは相手に対してそれぞれわが描く完全無欠を要求してはばからない。人間を思うままにすることの断念こそ、おたがい人として生きることへのもっとも謙虚な姿勢であることなど、その人たちの脳裏には微塵もよぎることがないのであろう。

⑫段落。子どもたちは今学校で、それこそ病的なほどに誤ることをおそれている。誤りをおかしては、それを個性的にしっかり味わい乗り越えていくことだけが、真の前進であるのに。きまりが細かく、テストを頻繁にされることによって、「子どもはいつのまにか無病息災のとりでの囚人とされてしまう」(傍線部G)。そうなれば、あとはただ足駄をはき竹馬にのることによって、競争に勝つほかないのである。誤ることのない者は、しょせん生きた人間ではない。望ましい誤りかたこそが、成長の糧なのである。伸びてゆく人間にとって、正解はつねにいくつもある。それを一つしかないときめつけ割りきることこそ、救いがたく病める思想なのである。

〈設問解説〉問一 「そういうあいまいさ」(傍線部A)とあるが、何のどういう点が「あいまい」であるのか、説明せよ。(三行:一行25字程度)

内容説明問題。「そういう/あいまいさ」(A)は、前文の「そのように/いじいじしたまどろっこしい生き方」を承ける。その「生き方」とは「一病息災」の生き方である。「一病息災」の、どういう点が「あいまい」なのか。傍線の後ろのつながりを見ると、「Aを排して/…つじつまの合う徹底した立場を貫こう」とあるから、「一病息災」は「つじつまの合わない/不徹底」という意味で「あいまい」だとなる。これを踏まえて、前①段に戻りまとめる。「一病あるゆえにかえって健康に心を用い、無事を保ちうる」という意味の「無病息災」は、「弱気でありながら/慎重で賢明な処世法である」という両義的で一貫性に欠ける点で、「あいまい」なのである。

<GV解答例>
一病あるゆえにかえって健康に心を用い、無事を保ちうることを意味する「一病息災」の、弱々しくも慎重で賢明な処世法であるといった両義的で一貫性に欠ける点。(75)

<参考 S台解答例>
一病あるためにかえって健康に用心し無事を保ちうるという一病息災の考え方の、はっきりつじつまの合う徹底した立場を貫かず、不完全であることを問題視しないという点。(79)

<参考 K塾解答例>
一病あるゆえにかえって健康に心を用い、無事を保ちうるという一病息災の教訓の、矛盾のない立場を徹底する人から見て感じられる、歯切れが悪く煮え切らない点。(75)

問二 「当為そのものの在所」(傍線部B)とはどういうことか、説明せよ。(三行:一行25字程度)

内容説明問題。名詞の固まりであるBだけでは説明を展開しにくいので、Bを含む一文に視野を広げると、「かれら(→無病息災を確信し自負する者(Z))の住むべき世界」(X)は、「本来完全…絶対」(Y)であり、またBである、と把握できる。ここには「X=Y=B」という関係があるので、BにXとYの要素も加えて、Bの説明とすればよい。そこで、「XはYであり、Bである」という構文を変換して、「Zは/YでBな世界に/住んでいる」とし、あとは「YでBな世界」(P)を具体化する。
ここでPは「完全絶対で(Y)/「為すべきこと」のみで構成される世界(B)」(P1)となり、「あらゆる弱さや不徹底さを排除した世界」(P2)(←②内容)でもある。また、④段冒頭「かくのごとき無病息災は、この世に存在しうるのだろうか(→いや存在しない)」を踏まえ、Pは「(実際は存在しない)抽象的に構成された世界」(P3)となる。以上より、「Zは/P2→P1→P3の世界に/存在するしかない(※実際はありえないというニュアンス)」とまとめる。

<GV解答例>
無病息災を確信し自負する者は、あらゆる弱さや不徹底を排除した、「なすべきこと」のみにより構成される完全絶対で抽象的な世界に存在するしかないということ。(75)

<参考 S台解答例>
無病息災を確信し自負する者にとって、強健な身体をもち健康を保持する自身の生き方こそが、有病の者をも含むすべての人間にとっての規範的な生き方であるということ。(78)

<参考 K塾解答例>
無病息災を確信する人の住む、いかなる落度とも無縁に文句なしの勝利をわがものにすることのできる、完全で絶対である、現実を超えた理念的な世界のこと。(72)

問三 「それは人間のある具体的なありかたを示しえている」(傍線部C)とあるが、どのような「ありかたを示しえている」のか、説明せよ。(三行:一行25字程度)

内容説明問題。傍線部(⑤段)前後は構成が入り組んでいるので整理する。前④段冒頭で「しかし、ほんとうにかくのごとき無病息災は、この世に存在しうるのだろうか」と、無病息災の現実性に一度は疑義を呈した上で、⑤段落では「それは人間のある具体的なありかたを示しえている(のではないか)」(C)とする。そして、それを再び⑥段冒頭で「けれども無視することができぬからこそ、無病息災の立場は有害である」とするのである。これより傍線は、いったん本論から外れて「無病息災」のポジティブな面を説明する部分だと把握できる。

それでは、そのポジティブな面とは、無病息災という「概念(=言語的な構成物)」が示しえている、どのようなありかたか。まず、傍線直後「なによりも人びとは、それ(=無病息災)を実現しうるものとして意識し、求めている」を押さえる。つまり、「無病息災」は人間の「理想的な生のありかた」を示しえているのである。これを解答の核にして、②③段落から「無病息災は強健な身体と健康保持への完璧な努力によって生まれる」「誇りにみち/完全な平安/落ち度とも無縁」というポジ要素を拾い、解答に繰りこむ。

<GV解答例>
無病息災という概念が示しえている、強健な身体と健康保持への完璧な努力によって実現されうる、誇りにみちて完全無欠な、人間世界の理想としての生のありかた。(75)

<参考 S台解答例>
真理の発見や真実に即した行動にまして、無病息災というややあいまいな概念が、人間が強健な身体をもち、健康を保持し、完全な平安をかちとらねばならないというありかたを示しえている。(87)

<参考 K塾解答例>
無病息災はそもそも程度の問題に過ぎず、人々ごとに相対的にしか判定し得ないものなのだが、それを実現しうるものとして意識し、絶えず追い求めるありかた。(73)

問四 「大義名分の陰に隠れて、ひたすら形式へと逃げてばかりいる」(傍線部D)とあるが、具体的にはどういうことか、説明せよ。(四行:一行25字程度)

内容説明問題。傍線(⑥段)の中でも「大義名分」(X)と「形式」(Y)について説明する。Xについては、無病息災が依拠する「大義=公理的原則」にあたるものを本文から探し、「世の中には現に真実が存在し、正解が成り立っている」(⑤段)がそれに相当する。次にYについては、⑥段「謙虚に現実に即することをおろそかにして、むぞうさに “はず” とか “べし” とかにあぐらをかいてしまう」が相当する。さらに「形式へと逃げ」ることで「病ある人たちを憐れみ軽んじ、指弾することさえしかねない」(⑥)という弊害を見過ごしてしまうという要素も加えておきたい。

<GV解答例>
世界には普遍的な真実があり正解が成り立つという名目のもと、無病息災という立場は、概念的な当為に留まり謙虚に現実に即することを避け、その結果、弱者を見下し指弾する現実上の弊害を見過ごしているということ。(100)

<参考 S台解答例>
無病息災を確信し自負する者は、無病でありうるという、自身の行動の拠り所となる理屈を自明視し、それを口実として、謙虚に現実に即することをおろそかにし、抽象的観念的な把握の仕方に逃避し安住しているということ。(102)

<参考 K塾解答例>
無病息災の立場の人は、科学的真理や社会正義や世の常識を盾にした不当な優越感に基づき、謙虚に現実に即することをおろそかにして、無造作に「はず」とか「べし」とかという現実には存在しえない理念に自足すること。(100)

問五 「有病なればこそ、真に息災でありうる」(傍線部E)とあるが、それはなぜか、その理由について説明せよ。(五行:一行25字程度)

理由説明問題。傍線(⑦段)にある「有病/息災」のパラドックスの理由を説明する(「有病」はXであるため/かえって(逆に)/Yであるから(→「息災(=健康)」))。Yについては、⑧段落より「一病あるゆえに/わが身のありかたによく心を用いるということは(Y1)/…人間に対して柔軟に深く理解できるということにほかならぬ(Y2)」「病を手がかりとして/人生を奥行きあるものにする(Y1)」「現実的弾力的な、相対的な見かたができる(Y2)」「不健康であるどころか/その人としてきわめてよきコンディションを生み出す(Y3)」を根拠とする。そして、(Y1(自己)→Y2(他者)→Y3(総合))として、「息災」の理由とする。

「有病」からYにブリッジするXが難しいが、⑨段落の「不完全を前提とした論理であり」を利用し、「有病、すなわち自己を不完全な存在と認識するため、逆にY」とつなげる。さらに、有病の認識により、「無病でありうるとする抽象的観念的な独断的把握に落ちこむことなく…無理に背のびをし、他をおとしめたりすることをしない」(⑧)ということも、間接的な「息災」の要因として始めに加えておく。

<GV解答例>
無病でありうるという観念的な独断的把握にとらわれて、無理をしたり他者を貶めることなく、病有る、不完全な存在であると認識するため、逆に、わが身のあり方に心を用いて人生を奥行きあるものし、周囲にも弾力的に接することで、より良い自己の状態に到達できるから。(125)

<参考 S台解答例>
何らかの病がある人間は、自己のあり方によく用心し、人間を柔軟に深く理解する、現実的相対的な見方ができるようになり、それによって人生を奥行あるものにするという具体的な生き方が実現され、自己管理する力が活発に作用し、自己としてきわめてよい状態を生み出すことができるから。(133)

<参考 K塾解答例>
身に受けた病を手がかりに、抽象的観念的な独断的把握に陥ることなく、他者を貶めず柔軟に自他を深く理解し、ことがらに淡々と正対して無理をすることなく広い視野のもとに奥深く追求していくうちに働き出すセルフコントロールの力が、当人の人生に奥行きをもたらすから。(126)

問六 「そこでは人間としてたえざる自己革新が求められる」(傍線部F)とあるが、それはなぜか、その理由について説明せよ。(五行:一行25字程度)

理由説明問題。理由説明としているところが難しい。というのは、ここでは人間の生き方としての「自己革新」の説明が求められているのではなく、それが必要な理由が問われているのだが、「革新」の目的であるはずの「外部」が明示的に記述されていないからだ。つまり、傍線(⑩段)初めの「そこ」は「それは…個が具体的に自己を維持し発展させていく姿」を承け、さらに「それ」は「(つるつるしたとらえどころのない抽象である無病息災に対して)一病息災は、具体的なでこぼこをもち核をもった多面の統一だ」(X)を承けるが、これらは「自己」の説明には使えても、その目的の説明には使いにくいのだ。

ただ、前⑨段落の「つまずき」についての記述、また③⑧段落などで繰り返し述べられる完全絶対の無病息災とその世界は抽象的な構成物だという内容を参照すれば、先のXは現実についても当てはまり、むしろそうした現実に対応して「でこぼこ」で有病な自己が形成されると考えられるのではないか。こうした観点から、「現実は/平坦で誤りのない抽象的な構成ではなく/多くの困難を含んだ多面的な装いを示す」(⑩)→「不完全な存在である人間は/病を得てつまずくことで人生を深みのあるものにする」(⑨)→「それが現実の困難の中で/自己を維持し発展させていくために必要である」(⑩)→よって「たえざる自己革新が求められる」として、解答にした。

<GV解答例>
現実は、平坦で誤りのない抽象的な構成ではなく、多くの困難も含んで多面的な装いをしており、その中で不完全な人間は、自己を維持し発展させていくために、一病つまり「つまずき」を得ながらも、それを拠点として、自己の可能性を開くことで乗り越える必要があるから。(125)

<参考 S台解答例>
個が具体的に自己を維持し発展させるには、自足することによって抽象的観念的な独断的把握に固執するのではなく、不完全や失敗があることを踏まえ、現実的なことがらに正対し、他者への理解を含む深く広い視野のもとに奥深く追求し続ける必要があるから。(118)

<参考 K塾解答例>
自足することによって人間を抽象の中に閉じ込めてしまう無病息災とは異なり、自らの不完全性を前提とする、生きた人間における具体的な可能性に出会う一病息災の立場に立つと、生きた個性的なバランスをもち、個人が具体的に自己を維持し発展させる姿勢が求められるから。(126)

問七 「子どもはいつのまにか無病息災のとりでの囚人とされてしまう」(傍線部G)とあるが、具体的にはどういうことか、説明せよ。(五行:一行25字程度)

内容説明問題。「無病息災/有病息災」についての考察を、教育の現状批判に応用する⑪⑫段落が解答範囲となる。「(子どもたちは)されてしまう」という文末表現に着目するならば、「教師がXする(=とりでに閉じ込める)ことで/子どもたちはY(=囚人)になる」という構文構成にすればよい。Xの根拠は、「わが描く完全無欠を要求してはばからない」(⑪)、「きまりが細かく、テストを頻繁にされることによって」(⑫傍線直前)となる。Yの根拠は、「病的なほどに誤ることをおそれている」「誤りをおかしては、それを個性的にしっかり味わい乗り越えていくことだけが、真の前進(→成長の糧)」「足駄をはき竹馬にのることによって、競争に勝つほかない」(すべて⑫)となる。このうち「足駄をはき竹馬にのる」は比喩表現なので、「自分を偽る」と言い換え、以上を先の構文に繰りこんで仕上げる。

<GV解答例>
学校の場で教師は各自が思い描く完全無欠なあり方を子どもたちに要求し、細かい決まりやテストを頻繁に課すことで、子どもたちは本来個性的に成長していくための糧になる誤りを極度に恐れ、教師の求める完全な正解を得る競争に巻き込まれ、自分を偽っているということ。(125)

<参考 S台解答例>
子どもは、正解が一つしかないと決めつけ割りきられ、誤りを恐れることにより、誤りをおかしてはそれを個性的に味わい乗り越えることで真に成長する機会を失い、知らぬ間に完全無欠を求める思想にとらわれ、大人の思うがままにされてしまうということ。(117)

<参考 K塾解答例>
完璧を自負する教師、自信に満ち溢れた指導者たちのいる抽象的な徳目主義に支配された今の学校の中で、正解が一つしかないテストを頻繁に受けさせられることで、子どもたちは病的なほどに誤ることをおそれるようになり、本来の人間のあり方から離れていくということ。(124)