〈本文理解〉

出典は岡井隆「韻と律」。
 
①段落。短歌を五七五七七と呼ぶ場合に、見逃してはならない点が一つあります。というのは、この音数律が日本語ーーとくに「日常語から自然に、ずるずると引き出され、定着したなどというものではない」(傍線部(1))ということです。それは、「自然」どころか、「不自然に」存在します。定型とは、つねに、超日常的な不自然な規約にほかなりません。
 
②段落。五七の音数律には、あるいは日本語の日常態からの自然な推移・定着があるかも知れません。また…。しかし、五拍がまず最初に来て、次に七拍が接続し、さらに五拍、そして七拍、最後に七拍で締めくくるという、この五と七の特殊な連結法ーー組み合わせは、必然でしょうか。
③段落。…
 
④段落。この特殊なかたち、組み合わせは、おそらく、日常語あるいは散文の持っている乱雑で即興的で無方向な、またそれだけに生き生きと多彩で変化するリズムからは、到底、抽出しがたい。たとえ、日本語の散文のリズムが、結局は、七五音数律のヴァリエーションに還元できるとしても、短歌の五拍七拍のこの特殊な組み合わせ方は、不自然と呼ぶよりほかないのではないでしょうか。
 
⑤段落。定型詩の概念は、もともと、その詩型が、以上の意味で自然に反し、人工の約束という側面を持つことによってのみ成立するものではあるまいか、とわたしは思います。
 
⑥段落。「古代日本語を背景にした時には、短歌詩型は、今よりもはるかに自然で、作りやすかったであろう」(傍線部(2))などと羨ましげに言う声を時々聞くことがあります。…
 
⑦段落。だが、一体、詩は散文に解消されうる位置にみずから晏如たりうるものですか。詩ほど、散文を超えて、それに対立しようとするものではない。定型詩型は、つねに、その型へと、あらゆる内容を還元せねばならぬ、集約せねばならぬという意味では、日常語の自然なリズムと闘い、それを断ち切り、また強引に接続するというエネルギッシュな作業を、詩人に要求するものではありませんか。定型は、その意味では、かたちの上から、外から、非日常的な詩の世界を支えるバネ仕掛のワクとも言えましょう。
 
⑧段落。古代においても、中世にあっても、短歌は、現代と変わらぬ、むつかしさを抱えていたとみるべきではないでしょうか。日常語の世界から、一つ飛躍したところに短歌の世界はある。しかし、それは、日常語の世界に単に反してあるのではなく、そこに基礎を置いて、そこの世界のささやきがおのずから叫びにまで高まり煮つまるかたちをとって、非日常的世界へと昇華するのではないでしょうか。
 
⑨段落。短歌が、各時代の文章語の文法的なあるいは語彙の上での遺産を、いまなお使っているのは、単純な理由ではないと考えます。…
 
⑩段落。歌人は、古語に不必要に執着して来たように言われます。…しかし、見方をかえれば、一般の歌人は、案外、現代口語の世界にのみ安住して来たのではありませんか。ある表現内容を、この厳密な定型の約束のもとに表明するために、古今東西に語を求める態度は、はたして歌人のすべてにゆきわたっていたでしょうか。「民族のエミグラチオはいにしへも国のさかひをついに越えにき」(斎藤茂吉)。…この歌における茂吉は、「彼の全教養をあげて、うたうべき思想内容と短歌定型律とに忠実たらんと努めている」(傍線部(3))ように見えます。この態度の前には、すでに通俗の口語文語の区別は消えているのです。
 

問一「日常語から自然に、するすると引き出され、定着したなどというものではない」(傍線部(1))のように筆者が考える根拠はなにか、説明せよ。(三行)

理由説明問題。「筆者が考える根拠はなにか」だから、名詞あるいは「〜こと」という形式で答える。傍線部の主語は「短歌の五七五七七の音数律」(S)。これが「日常語から自然に…定着したなどというものではない」(G)と考える根拠は「(Sは)超自然的で不自然な規約」であること(R)、となる(ないある変換)。さらに、空白行で隔てられている第一意味段落の末文(④末文)「短歌の五拍七拍の組み合わせ方は/不自然と呼ぶよりほかない」に着目し、Sを「短歌の五拍七拍の組み合わせ(→連結法(②))」と置換した上で、その説明を④段落より加える。またRを、第一意味段落を承けた⑤段冒頭の用語を使い「人工的な規約」と置換する。以上より「Sは/日常語や散文の持つ/乱雑で即興的で無方向な/それゆえ生き生きと多彩で変化するリズム/からは抽出し難い/Rに見えること(→G)」と解答することができる。
 
 
〈GV解答例〉
短歌の五拍七拍の連結法は、日常語や散文の持つ乱雑で即興的で無方向な、それゆえ生き生きと多彩で変化するリズムからは抽出し難い、人工的な規約に見えること。(75)
 
 
〈参考 S台解答例〉
短歌の五拍七拍の特殊な連結法は、無秩序かつ即興的で多彩に躍動するリズムを持つ日常語や散文から自然に抽出されたものではなく、人工の規約にほかならないから。(76)
 
 
〈参考 K塾解答例〉
五拍と七拍の特殊な連結からなる短歌の音数律は、乱雑で即興的であるゆえに生彩と変化に富んだ日常語の自然なありように反する人工的な定型にほかならないこと。(75)
 
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
多彩に変化するリズムから成り立つ日常語が、たとえ七五音数律に還元できたとしても、そこから何の意図もなく七五音の定型的な組み合わせが発生することはないこと。(77)

問二「古代日本語を背景にした時には、短歌詩型は、今よりもはるかに自然で、作りやすかったろう」(傍線部(2))の考えに筆者が反対するのはなぜか、説明せよ。(三行)

 
理由説明問題。解答根拠は傍線部の意見(⑥)について筆者が反論を加える⑦⑧段落(ここまでが第二意味段落となる)にあるのは明白。特に「定型詩型は、つねに、その型へと、あらゆる内容を還元せねばならぬ…という意味で、日常語の自然なリズムと闘い、それを断ち切り、また強引に接続するというエネルギッシュな作業を、詩人に要求するもの(⑦)」「古代においても、中世にあっても、短歌は、現代と変わらぬ、むつかしさを抱えていたと見るべき(⑧)」「それ(短歌)は、日常語の世界に単に反してあるのではなく、そこに基礎を置いて…(⑧)」を参照し、傍線部の反論となるよう、以下のようにまとめる。「(短歌詩型も含む)定型詩は/古代以来常に/あらゆる内容をその型に還元するため/日常語を基礎にしつつ/その自然なリズムを断ち切り、強引に接続する作業を/詩人に課すものだから」。
 
 
〈GV解答例〉
定型詩は、古代以来常に、あらゆる内容をその型に還元するため、日常語を基礎にしつつその自然なリズムを断ち切り、強引に接続する作業を詩人に課すものだから。(75)
 
 
〈参考 S台解答例〉
古代においても、定型詩は、日常語とは異質で、その自然なリズムに抗いながらもそこに基礎を置き、表現内容を型に還元集約し、非日常的な世界に昇華させるものであるから。(80)
 
 
〈参考 K塾解答例〉
日頃の思いを非日常的な次元にまで昇華し、それを日常語の自然なリズムとの相克のなかで定型へと凝縮して表現する短歌の困難さは、古代も現代も変わりないから。(75)
 
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
あらゆる内容を定型に収めなければならない短歌には、いつの時代にも、日常語の自然なリズムを断ち切って非日常の世界を創る困難があると筆者は考えているから。(75)

問三「彼の全教養をあげて、うたうべき思想内容と短歌定型律とに忠実たらんと努めている」(傍線部(3))はどういうことか、説明せよ。(三行)

 
内容説明問題。傍線部は、最終⑩段落「見方をかえれば」以下、「現代口語の世界のみに安住」し「ある表現内容を/この厳密な定型の約束のもとに表明するために/古今東西に語を求める態度」を欠くと思われる一般の歌人に対する例外として、茂吉の歌を挙げ、それを評価している箇所に当たる。「うたうべき思想内容(A)」と「短歌定型律(B)」を対比的に説明し、他「彼の全教養をあげて(C)」「〜に忠実たらんと努めている(D)」を具体化する必要がある。第三意味段落(⑨⑩)だけでは要素に欠けるが、傍線部が本文の締めに位置することに着目し、特に問一問二で考察してきた内容を解答に反映させればよい。「茂吉は/彼の日常より生まれた詩想を(A)/五七五七七の人工的な定型に(B)/過不足なく繰り込むため(D)/古今東西にわたる全教養を動員して(C)/一首の歌を詠んでいるということ(D)」。
 
 
〈GV解答例〉
茂吉は、彼の日常より生まれた詩想を、五七五七七の人工的な定型に過不足なく繰り込むため、古今東西にわたる全教養を動員して一首の歌を詠んでいるということ。(75)
 
 
〈参考 S台解答例〉
茂吉は、分野を横断した教養を結集し、通俗的な口語文語の区別を超えて古今東西に語を求め、表現すべき内容を厳密な定型に則り自覚的に表明しようとしているということ。(79)
 
 
〈参考 K塾解答例〉
斎藤茂吉は、短歌の韻律と親和し自らの詩想に適う言葉を古今東西の語に探り当て、定型に凝縮して表現すべく尽力することで作歌の本質的態度を貫いたということ。(75)
 
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
短歌の定型という制約の中で韻律の効果を高めて、移民の悲しみを表現するために、茂吉は自らの知識を総動員して、古今東西の語から言葉を選んだということ。(73)