〈本文理解〉

出典は大岡信・谷川俊太郎『詩の誕生』。両者による対話である。

大岡(①) 詩が生まれる瞬間は感じとしてわかる。個人のなかでの自覚的な詩の誕生としてはわりあい普遍的な形としてあると思うんだけれども、詩の死滅については、それぞれの詩がどこかで死んでいるはずなのに、それがわからない。詩てのは現実にいつまでも存在しているものじゃなくて、どこかに向かって消滅していくものだと思う。消滅していくところに詩の本質があり、死んでいく瞬間がすなわち詩じゃないかということがある。あるものが消えていく瞬間をどうとらえるかが、実はその次の新たな「詩の誕生」につながるのじゃないかな。「活字になった詩は永久に残ってしまうみたいな迷信」(傍線部(1))がわれわれにあるけれども、実はとっくの昔に生命を終えているのかも知れないというのは考えたほうがいいのじゃないか。そう考えたとき、本なら本のなかに詩という形で印刷されているものをもう一回生きさせる契機も、またそこから出てくるのじゃないか。

谷川(②) 詩が死ぬ死に方だけれども、それが社会のなかでの死であるのか、それともその詩を受取る個人のなかでの死であるのか、二つあるよね。個人のなかで詩が死ぬというのは、三年前にすごく感動した詩が、今読んでみたらどこに感動したのかぜんぜんわからないということがあるでしょう。

大岡(③) あるある。すごくある。

谷川(④) 僕もその経験が詩にもあるし音楽にもあるのね。それを単純に大人になったから感動しなくなったんだみたいな言い方もあるけれども、それはちょっと信用できない。そういうものとぜんぜん違う何かがあって、詩が死に、音楽が死ぬ。それがなぜなのか、とっても気になるんだけどもね。
また、もっと「微視的に見る」(傍線部(2))と、ある一つの詩を読むにしろ聞くにしろ、その詩に感動したらその詩が受取り手のなかで生まれたと考えられるけれども、その感動は生理的にどうしても長続きはしないよね。電話とか仕事とか、すぐに日常的なものにまぎれちゃう。そのときには、その詩は死んでいるとも言える。もちろんそういうふうにあまりに微視的に見ると、詩は単に人間の生理にかかわるだけのものになりかねないから、そういう考えは危ういけれども。たとえば万葉集という詩集が千数百年をずっと生きてきたというふうに意識しがちだよね。詩てのはそんなふうに確固としたものであってはいけないのじゃないかな。

大岡(⑤) たしかに個人のなかでの詩の生き死にと社会化された詩の生き死にとあると思うね。即物的な言い方をすると、一人の人間の脳髄から生まれた言葉が文字になった瞬間に詩が社会化されているんだと思う。もちろん、音声だけで詩がうたわれていた時代こそが、詩が最も幸福な形で社会化されていた時代といえるかもしれないけれども、現在のわれわれの表現手段からすると、文字にいったん書くということが基本的にあると思うね。文字になった瞬間にその詩が、少なくとも「潜在的には社会化されている」(傍線部(3))ということなんだ。

(⑥)つまり人類が文字をもった瞬間から詩の社会的な生き死にと個人のなかでの生き死にと、二つがはっきり存在するようになったんじゃないかしら。そして文明が進めば進むほど、文字=本という形で存在する詩の社会的な存在の仕方というのは無視することができなくて、「そういうものは簡単に生きたり死んだりするものじゃない」(傍線部(4))ということになる。で、そうなってくると、詩というものをある「全体」のなかでとらえるということがどうしても問題になってくる。ある文明のなかでその詩がどれだけ、人びとのなかに無意識に蓄えられてきた言語構造体のなかに、いわば雨水が土に浸透するようにジワッと浸透したか、そういうところで、ある詩の価値が測られるようなことも出てくるわけだね。

(⑦)T・S・エリオットがたしかこういうことを言っていた。──ある新しい時代に新しいものがつくられるが、それは単独に存在するのではなくて、そういうものが付け加わえられると過去に蓄積されたものの全体もジワッと変わる。その総体が伝統というものだ。だから伝統は毎日毎日変わっているのだ、とね。その意味でいうと、詩てのは死ぬことによって実は伝統を変えていくのだと言えるのかもしれないね。一篇の詩は、個人のなかで生きたり死んだりするけれども、その同じ詩が社会的性格を持っている。一篇の詩が社会的に衝撃力を持った時代から、やがて「もうちっともショックじゃない」というものになっていく。それはその詩の社会的な死だけれども、実は全体が変わったからその詩が死んだのであって、全体が変わったってことは新しい事件なんだよね。逆に言うと、死ぬことが新しさをつくっていく。そういう考え方が、ヨーロッパの文学伝統についての考え方をある意味で代表していると思う。

(⑧)学生時代は理屈としてはわかった気がしても、実感はなかった。その後、たとえば紀貫之を読むことで古今和歌集なんてのをあらためて知ったりして、古い時代のものを読み直してみると、伝統のなかでの古今集の意味などが実感としてわかってきた。つまり紀貫之がつくったものが、彼より以前の時代の伝統全体に対して、非常に新しい意味で働きかけている。貫之の仕事が付け加わったことによって、それ以前の古代の詩歌全体の構造が、わっと変わったところがあるはずだ。それを考えていくと、われわれがいまあらためて紀貫之について考えるということは、どうやらそのことを通じて全体をかきまわし、もう一回新しい一つの構造体をつくるということになるらしい。「詩が死ぬってことはとてもいいことなんじゃないか」(傍線部(5))。死んでいると認められる詩は、実は甦らす可能性のあるものとして横たわっているのだということを思うんだ。ただ、横たわっている状態があまりにきちんとした状態に見えるときは、やり方がいろいろむずかしいとは思うけれどもね。…

〈設問解説〉 問一 「活字になった詩は永久に残ってしまうみたいな迷信」(傍線部(1))とあるが、「迷信」と言うのはなぜか、説明せよ。(二行:一行25字程度)

理由説明問題。「迷信」の理由だから「信」の「迷」=誤りを指摘するのだが、その前提として「信」の要因も説明する必要がある。「活字になった詩は永久に残ってしまう」となぜ信じるのか(A)。傍線は始めの大岡の発言(①)にあるが、この後の展開により、Aについて示唆される。この対話は「詩の死滅」を話題にしているが、その死滅のあり方には「個人」と「社会」の2つのレベルがあり(谷川②)、「活字」は「社会」レベルと対応し(大岡⑤)、「個人」レベルの「死滅」を越えて詩を保存する(大岡⑥)。つまり、活字は個人の記憶を越える。よって、「永久に残ってしまうみたい」に錯覚されるのである(A)。

ただし、これは「迷」信なのである。なぜか。詩には「生命」があり、「どこかに向かって消滅していく」こと、それを「本質」とするからである(大岡①)。これが直接の理由となる。

<GV解答例>
個の記憶を超える活字は永遠に思えるが、詩には生命があり、どこかに向って消滅することを本質とするから。(50)

<参考 S台解答例>
詩は、本の形で社会的に存在していても社会的な死があり、消滅していくところに本質があると考えられるから。(51)

<参考 K塾解答例>
本になった詩は永遠をもつという俗見は、詩の本質は消滅するところにあるということを見誤っているから。(49)

問二 「微視的に見る」(傍線部(2))はどういう見方を言うのか、説明せよ。(二行:一行25字程度)

内容説明問題。「微視的に見る」(谷川④)の内容(X)を具体化するのは当然として、それと対比される「微視的でない見方」(Y)を明示する必要がある。傍線を含む文が「また」で始まることに注目するならば、その前がY、後がXに相当する。さらに、そもそもここでは「詩の死滅」(大岡①→谷川②)を話題にしていて、それは「個人」レベルと「社会」レベルに分かれるのだった(谷川②)。YおよびXは「個人における詩の死滅」の2タイプに当たる(谷川②④)。

こう整理した上で、Yは「三年前に感動した詩が、いま読んでみたらどこに感動したのかぜんぜんわからない」(②)などが根拠となる。Xは「その感動は生理的に長続きしない」(④)などが根拠となる。「微視的」という表現に着目して、Yは「相対的に長いスパン」、Xは「相対的に短いスパン」になるように、一般的な表現であらわすと、Y「人生における評価の変化」、X「生理的に記憶が続く時間」とまとめられる。以上より、「詩の個人の中での死滅について/Yではなく/Xに着目する見方」として仕上げとする。

<GV解答例>
詩の個人の中での死滅について、人生における評価の変化ではなく、生理的に記憶が続く時間に着目する見方。(50)

<参考 S台解答例>
個人が詩を受取る際、年月の経過による消滅より短期的な、生理的な感動の断続を詩の生死とする見方。(47)

<参考 K塾解答例>
長期にわたる個人的経験や社会性とは別に、日常における生理的反応だけで詩への感動を捉えようとする見方。(50)

問三 「潜在的には社会化されている」(傍線部(3))はどういうことか、説明せよ。(二行:一行25字程度)

内容説明問題。傍線一文で把握し、「文字になった瞬間にその詩は(A)/潜在的には(B)/社会化されている(C)」(大岡⑤)として、各々を言い換え説明する。前提として⑤以降では、「詩の社会的な生き死に」について、「文字」との関連で述べている。これを踏まえた上で、傍線一文から3文前「一人の人間の脳髄から生まれた言葉が文字になった瞬間に詩が(A)/社会化されている(C)」が傍線内容に近く、Aの言い換えとして利用できる。ただ「社会化」(C)についての言い換えがなく自明とされているので、語義と文脈に沿うように自力で言い当てないといけない。

傍線2文前「音声だけで詩がうたわれ」た時代が「最も幸福な形で社会化されていた時代」だという記述もふまえると、「社会化」とは「他者との関係が築かれていくこと」(C)で、なぜ「音声」の時代が幸福かというと、「音声」が他者と「直接的に」関係づけるからだろう。その点で、「文字」は「その場その時」ではない(本を読む行為を考えてみよ)。だから「潜在的」、つまり、「時間をおいて文字は書くものと読むものをつなげるかもしれない」(B)のである。以上の理解により、「…言葉が文字化されることで(A)/保存され、時を隔てて(B)/他者への表現を媒介(C)/しうる(B)」とまとめた。

<GV解答例>
一人の脳から生まれた言葉が文字化されることで保存され、時を隔てて他者への表現を媒介しうるということ。(50)

<参考 S台解答例>
個人から生まれた詩が文字になった瞬間に、その詩は社会のなかで、他者に詩と受け取られる可能性をもつということ。(54)

<参考 K塾解答例>
文字化された時、個人の内的経験としてあった詩は、人びとに相互に開かれていく可能性を持つということ。(49)

問四 「そういうものは簡単に生きたり死んだりするものじゃない」(傍線部(4))はどういうことか、説明せよ。(四行:一行25字)

内容説明問題。⑤以降(~⑧)は大岡が「詩の社会的な生き死に」について述べる。傍線の引かれる⑥の冒頭で「人類が文字をもった瞬間から、詩の社会的な生き死にと個人のなかでの生き死にと、二つが存在する」(A)とした上で、「そして」とつなげ、「文字=本という形で存在する詩の社会的な存在の仕方というのは無視することができなくて」(B)となり、「そういうものは簡単に生きたり死んだりするものじゃない」と傍線に至る。「そういうもの」とは「詩の社会的な存在の仕方」(C)である。それは「文字」(A)、さらに「本」(B)によってもたらされるもので、「個人の中での詩の死滅」(D)のように、簡単には死滅せず、その「社会的な生命を延ばす」(E)ということである。

また、傍線を承け、「で、そうなってくると、詩というものをある「全体」のなかでとらえる…ことが…問題になる」と続くことに注意したい。ここでの「全体」はCと対応し、さらに「言語構造体」(⑥)、「伝統」(⑦)と言い換えられる。以上より「詩は/Aにより時間を越え/Bにより空間的にも広がりを持つことで/社会的な構造体としての伝統に位置づけられ(C)/個人の中での死滅に関わらず(D)/社会的な生命を延ばす(E)」とまとめる。

<GV解答例>
詩は文字化されることで時間を越え、さらに書籍化されることで広く空間も覆い、社会的な構造体としての伝統の中に位置づけられて、個人の中での詩の生き死にに関わらず、その社会的な生命を延長しているということ。(100)

<参考 S台解答例>
文明が進むにつれて、現在の表現手段の基本である文字すなわち本という形で存在する詩の社会的存在の仕方は、個人的な感動の有無という微細なものとは異なり、永久に存在するものであるかのようにみなされるということ。(102)

<参考 K塾解答例>
文明が進展するなか、文字化された詩は、人びとに共有されていく過程で言語構造体全体との関わりを強めていくので、詩のそうした社会的価値は、個人的関心だけで安易に生成消滅を言うことはできないということ。(98)

問五 「詩が死ぬってことはとてもいいことなんじゃないか」(傍線部(5))のように言うのはなぜか、説明せよ。(五行:一行25字)

理由説明問題。傍線は、エリオットの言葉を承けヨーロッパの文学伝統について大岡が言及した箇所(⑦)、⑦を承けての大岡自身の経験と実感(⑧)がまとめられた後に続く。⑦⑧で詩が社会的な構造体としての伝統に位置づけらることを強調した上で(それは「文字」と「本」によってもたらされる←問四)、「詩が死ぬってことはとてもいいことなんじゃないか」と述べるのである。
それでは、社会的な構造体に位置づけられた詩が死ぬことに、どういったメリットがあるのか。まず、「死ぬことが新しさをつくっていく」(⑦)ということ(A)。これについては、始めの部分でも「それ(=詩)が消えていく瞬間をどうとらえるかが、実はその次の新たな「詩の誕生」につながるのじゃないかな」(大岡①)と予告されていた。次に、「詩てのは死ぬことによって実は伝統(=詩歌全体の構造)を変えていく」(⑦)ということ(B)。さらに、傍線の直後「死んでいると認められる詩は、実は甦らす可能性のあるものとして横たわっている」ということ(C)。

以上より、始めに詩が社会的な構造体(時代の詩歌全体/伝統)に位置づけられることを確認し、その中で一つの詩が社会的にその役割を終え死ぬということは、他の新しい詩を活かし(A)、構造体自体が活性化され伝統を更新し(B)、その中で死滅した詩自体も新たな役割を得て再生する可能性をもつ(C)、よって「詩が死ぬことはとてもいいこと」とまとめる。

<GV解答例>
文字と本の登場で詩の社会的な生命が延び、時代の詩歌全体が一つの構造体としての伝統を形づくる中、一つの詩が時代の役割を終え死滅しても、他の新しい詩が生き、構造体自体が活性化され伝統を更新し、その中で死滅した詩も新たな位置を得て再生する可能性をもつから。(125)

<参考 S台解答例>
社会的に新しい衝撃力をもった詩が、社会の変化に伴い衝撃力を失う「詩の社会的な死」という状態にある場合、それについて再考することやその後に新しい詩が続くことで、それまでの詩歌全体の伝統を揺るがし、新しい言語構造体作ることになるという点に詩の本質があるから。(127)

<参考 K塾解答例>
詩は個人的なものであるとともに社会的なものでもあり、その本質は消滅することで新たな詩を誕生させるところにあるので、ある詩がその社会的価値を失うという事態は、過去から蓄積されてきた言語の構造が新たな可能性へと開かれたことを示しているから。(118)