〈本文理解〉

出典は佐竹昭広「意味変化について」。京大は東大と比較すると解答欄に余裕がある。また随筆や小説を出題し、評論においても文学的なテーマ・表現が好まれる。語彙のストックがものを言う。今回は著名な国文学者の評論から。

①②段落。生きた人間を「からだ」と「こころ」で対立させる二元論的把握は、言語記号の成り立ちという問題に関してアナロジカルに適用することができる。言語記号は、一定の音声形式と意味とから成り立っている。人間の「からだ」が「こころ」の器であるなら、音声形式もまた意味の器にほかならない。

③段落。語の成り立ちを「身」との対比において把握する観点から、とりわけ注目される問題は、「語」の意味に対応する概念として、「身」の方に「こころ」という言葉が見出されることである。わが国で「意味」という漢語がいつごろから使用されたかは判然としないが、「こころ」という和語が「意味」を含意していた。この事実は、語を人間のアナロジーで捉える観点から導かれた、「意味」と「こころ」の対応関係にいみじくも合致している。

④段落。一般に意味論は、意味を客観的認識の対象として、当の言語主体から切り離しすぎたうらみがある。いま、語の意味を「こころ」という和語によって認識しなおしてみるとき、語の意味と言語主体の心的活動は、確実に一本のキイ・ワードで架橋されることになる(傍線部(1))であろう。

⑤段落。事物は、それを名づける言葉が見出されない限り、存在しないに等しい。言語主体は、なにか明晰なかたちで認識したいものがあるとき、現在の自分の「こころ」に過不足なく適合する言葉をさがし求める。自分の「こころ」が表現できない苦しみ。語の多寡など程度の差である。人間の世界は言葉によって縦横に細分化されているものの、語の配分は決してわれわれの経験世界に密着した精密度で行われているわけではない。「もっとも客観的に見える自然界ですら、実際は、なんら客観的に分割されていないというのが、言葉の世界である」(傍線部(2))。(スペクトルの例)。言語が構造であること、構造とは分節的統一であること。思考活動は、この目盛りの切り方、言語の構造性に応じて営まれる。無限の連続である外界を、いくつかの類概念に区切り、そこに名称を配置する。曖昧で不確かで変動しやすい人間の知覚が新しい形をとり始める。客観的世界ははじめて整理せられ、一定の秩序と形態を与えられる。すべて名称による以外には、自己を客観化し明確化するすべはない。(例『赤と黒』より)。言葉によってカオスがコスモスに転化することは事実だとしても、そのとき名づけられたものは、他のあらゆる属性を切り捨てられ、「無垢の純潔性を失ってしまう」(傍線部(3))。

⑥段落。言語は、話者にとって、経験を意味のある範疇に分析するための習慣的な様式を準備するものである。言語が押しつける恣意的な分類法、その上に立つ限られた言葉で、無限の連続性を帯びている内的外的世界を名づけること、それは外部世界から一つの決定を強制することではないか。もしあなたが、或る人の行為や心理を一つの言葉で名づけるならば、その人は、名づけられた言葉を手がかりに改めて自分をかえりみるだろう。

⑦段落。(仏映画「泣きぬれた天使」の例)。「愛」とか「嫉妬」とか「憎悪」とかいう言葉が現れると「その言葉とともに愛や嫉妬や憎悪が結晶してくる」(傍線部(4))。もやもやした感情を「愛」でとらえるか、「嫉妬」でとらえるか、「憎悪」でとらえるか、結びつき次第で彼の運命は大きく違ってくるだろう。「愛」をそだてるかもしれない。「嫉妬」に懊悩するかもしれない。「憎悪」のあまり女を殺す大罪に至るかもしれない。


⑧段落。人間の「こころ」と言葉の「こころ」との間には、相互に働きかける二つの力がある。一つは、言葉の「こころ」が人間の「こころ」に作用する力であったが、もう一つは、人間の「こころ」が言葉の「こころ」に作用してそれを変えてゆく力である。われわれは、自分の「こころ」を適切な言葉によって表現できないという不幸を宿命的に負わされている。その穴埋めに新語を創造し、古語を復活し、外国語を借用したりする。

⑨段落。新しい「こころ」は、それを関連づけることのできそうな「こころ」を持った言葉を見つけて、その中に押しこまれる。それが人々から強力に支持されつづければ、古い「こころ」を押しのけて、新規にその主人ともなりうる。言葉の「こころ」を変えうる力は、人間の「こころ」であって、言葉の「こころ」が人間から独立して勝手に変わるのではない。言葉の意味変化が人間の「こころ」の変化を前提とする以上、人間の「こころ」の側から言葉の「こころ」が追究されなければならない。「意味論は、人間の「こころ」と言葉の「こころ」の相互関係を究明する「こころ」の学とならない限り、人間の学としての「意味」を持ちえないといっても過言ではない」(傍線部(5))。

〈設問解説〉問一「語の意味と言語主体の心的活動は、確実に一本のキイ・ワードで架橋されることになる」(傍線部(1))とはどういうことか、説明せよ。(三行:一行25字程度)

内容説明問題。「キイ・ワード」は「こころ」となるので、「語の意味」と「言語主体の心的活動」は「こころ」により「架橋」される、と把握できる。「架橋」という表現に気をつけて、「語の意味」と「言語主体の心的活動」は「離れていた」となるはず。そこで、傍線前文「意味論は、意味を客観的認識の対象として、当の言語主体から切り離しすぎた」に着目すると、「意味論において分離される傾向の強い語の意味と言語主体だが/「こころ」という語を介することで/両者は「架橋」される」というベースができる。傍線(1)のある④段落は3文からなり、傍線の前後が「意味論」を主題化しているので、傍線部の説明でも「意味論」に言及するのは必然であろう。

では、両者がどのように「架橋」されるのか。当然、この後の展開で詳しく述べられるのだが、ここで設問として求められる以上、概略を示す必要がある。本文は※によって3つのパートに区切られるが、第一パート(④段落)と第三パートが対応し、ともに「こころ」と「意味論」を主題化している。そこで、第三パート(⑧段落)の第一文「人間の「こころ」と言葉の「こころ」との間には、相互にはたらきかける二つの力がある」に着目する。「言葉の「こころ」」とは「言葉の意味」のことなので、傍線部の後半は「(分離した両者を)言語主体の心的活動の相関として語の意味を捉え直せる」と説明できる。

<GV解答例>
意味論において分離される傾向の強い語の意味と言語主体だが、「こころ」という語を介することで、主体の心的活動の相関として語の意味を捉え直すことができるということ。(80)

<参考 S台解答例>
言語記号の音声形式と意味とに人間の体と心の二元論的把握を適用して類推すれば、「こころ」という和語が、語の意味と人間の心的活動との関係性を強く示唆するということ。(80)

<参考 K塾解答例>
語の「意味」が、かつて「こころ」という和語で表されていたという事実は、言葉の意味が人の心の動きと結びついて成り立つことを認識させてくれるということ。(74)

問二「もっとも客観的に見える自然界ですら、実際は、なんら客観的に分割されていないというのが、言葉の世界である」(傍線部(2))とはどういうことか、説明せよ。(四行:一行25字程度)

内容説明問題。「もっとも客観的に見える自然界ですら(A)/…客観的に分割されていない(B)/というのが、言葉の世界である」に分けて言い換える。Bについて、否定表現は肯定表現に変換するのが定石(ないある変換)。ここでは、直後のスペクトルの例(言語によって色彩の切り方がまちまちであるという指摘)を参考に、用語としては「言語が押しつける恣意的な分類法」(⑥段)、「(言語の)構造とは分節的統一」(⑤段)から拝借する。それで後半を「恣意性に基づいて分節したものが言葉の世界である」とする。
Aについては「すら」(=極端な事例を挙げ他を類推させる)に着目する。つまり、「自然」は人間の「経験世界」(←傍線前文)の中で、人為的な世界(社会、文化など)に比べて「主観的要素が介在しにくい」という点で「もっとも客観的に見える」ということだろう。そこでAについては「主観的要素が介在しにくい自然現象も含めて全ての経験世界を」と言い換える。
さらに「全ての経験世界が言葉により恣意的に分節される」前提として、⑤段階一文目から傍線前文までを踏まえて「無限の連続する外界/それを認識するための/言葉は有限である」を加える。つまり、無限の世界と一対一に対応する言葉は原理上存在しえないため、世界を認識する必要から言葉はそれを恣意的に区切るしかないのである。

<GV解答例>
無限の連続態である外界に対してそれを認識する手がかりになる言葉が有限性を免れない以上、主観的要素が介在しにくい自然現象も含めて全ての経験世界を、恣意性に基づき分節したものが言葉の世界であるということ。(100)

<参考 S台解答例>
人間の知覚を決定する言語の世界では、人間の内的世界だけではなく、一見明晰な外的世界についてさえ、人間の経験世界に密着した精密度ではなく、各言語固有の構造において恣意的に分節され、語が配分されているということ。(104)

<参考 K塾解答例>
自然現象は誰にとっても同一のはずだが、それを言語化する際には、無限に多様な事象に、特定の言語構造に応じた恣意的な秩序と形態が与えられるので、いかなる言語も自然現象に対する普遍性を持ちえないということ。(100)

問三「無垢の純潔性を失ってしまう」(傍線部(3))とはどういうことか、説明せよ。(二行:一行25字程度)

内容説明問題。傍線自体は、「無垢/純潔性」という比喩的表現を、文脈に即した形で、一般的表現に直すことがポイント。傍線は一文の帰結部なので、一文に戻して考える。「言葉によってカオスがコスモスに転化するとしても/名づけられたものは他のあらゆる属性を切り捨てられ/無垢の純潔性を失ってしまう」。簡略化して「言葉による名づけは/カオスをコスモスに転化するのに引き換え(A)/他のあらゆる属性を切り捨て無垢の純潔性を奪う(B)」(ポジネガ転換)。
Aについては、⑤段落後半部「名称によって新しい形/整理せられ/一定の秩序と形態を与えられる/客観化し明確化する」をピックしまとめる。Bについては「無垢」(=汚れのなさ)/「純潔性」(=清らかさ)の語義を踏まえた上で、「他のあらゆる属性を切り捨て」と併せて、「あるがままの真実性を奪う」とした。

<GV解答例>
言葉による名づけは事象を秩序づけ明確化することと引き換えに、そのあるがままの真実性を奪うということ。(50)

<参考 S台解答例>
世界の事物は、名称によって一定の秩序と形態を与えられると、無限の連続性を帯びた原初の状態を失うということ。(53)

<参考 K塾解答例>
曖昧で捉えがたい感情を言語化すると、あるがままの豊かで流動的な心のありようが硬直してしまうということ。(51)

設問(四)「精神分析家の仕事も実は分裂に彩られている」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

<GV解答例>
漠然とした連続態としての感情が言葉により範疇化されることで、それと即応した習慣的な規範に則り、人は事態を省察し一定の枠内での行為を選ぶように促されるということ。(80)

<参考 S台解答例>
言語以前の無意識状態では個人の感情は漠然としているが、一定の言葉で名づけられると、判然とした性格をもつ感情として言語主体に意識されるようになるということ。(77)

 <参考 K塾解答例>
漠然たる感情が、できあいの言葉をあてがわれることで、その言葉のもつ特定の意味の枠組の中で把握され、行為や心もその枠組に沿ったものに導かれるということ。(74)

問五「意味論は、人間の「こころ」と言葉の「こころ」の相互関係を究明する「こころ」の学とならない限り、人間の学としての「意味」を持ちえないといっても過言ではない」(傍線部(5))とあるが、筆者がこのように考えるのはなぜか、説明せよ。(五行:一行25字程度)

理由説明問題。傍線自体に「人間の「こころ」と言葉の「こころ」の相互関係を究明する「こころ」の学とならない限り」とあり、これが傍線部の主節「意味論は、人間の学としての「意味」を持ちえない」の理由になる。ここから敷衍できるポイントは2つ。一つは「人間の「こころ」と言葉の「こころ」(=意味)との相互関係」を具体化すること。もう一つは、第一パート④段落の「意味論」と関連づけること。
まず相互関係については、⑥⑦段落で「言葉の意味→人間の「こころ」」(A)、⑧⑨段落で「人間の「こころ」→言葉の意味」(B)がそれぞれ述べらる。Aについては問四で言及したので簡潔に「人間は言葉の意味に従い行為を選ぶ」とする。Bが解答の中心になるが、該当箇所から「心的現象を有限な言葉で表現できないもどかしさ/新しい言葉を見つける/古い言葉を押しのけて、その主人ともなりうる/言葉の意味世界の変化」という内容を抽出しまとめる。
以上のような相互性を無視した、語の意味を言語主体から切り離した意味論(←④段)は、言葉についての理解を妨げるだけでなく、もう一方の「人間」についての究明においても不十分なものとなろう。よって「人間の学として「意味」を持ちえない」のである。

<GV解答例>
人間は言葉の意味に従い行為を選ぶ側面がある一方、有限な言葉で十全に表現できない自らの心象世界を新たな言葉に託す過程を重ねて言葉の意味世界を変容させていくものなので、その相互性を見過ごし言語主体である人間から分離した意味論では人間存在の解明に及ぶはずもないから。(130)

<参考 S台解答例>
人間の思考活動は言語の構造性に応じて営まれ、他方、言語主体である人間は固有の意味を表しうる言葉を求めて言葉の意味変化をもたらす。したがって、意味論は、人間の思考活動と言葉の意味との相互関係を究明しない限り、言葉の意味を追究しえない無意味な学問となるから。(127)

 <参考 K塾解答例>
意味論は、言語主体から切り離された言葉の意味だけを客観的な対象としてきたが、言葉が人の認識や感情を規定する面はあるものの、むしろ言葉の意味は時代の中でそれを用いる人の感情によって変わりゆくものであり、言葉と人の心の関係こそが問われねばならないから。(124)

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