〈本文理解〉

西郷信綱『古事記注釈』。

①段落。「「古事記伝」は不壊の書だが、それに追随すればすむというのではない」(傍線部(1))。私たちはもはや、宣長が古事記を読んだようにそれを読まぬ。(具体/宣長の読み)。宣長には、天皇を中心とする国家というものが、一つの動かしがたい規範的観念であった。私たちには、私たちの文脈において古事記を読み直すことができるし、またそれが必要である。そこでもう一度、〈読む〉とは何かという問題にたちもどって考えてみよう。

②段落。(人生の経過に伴う読みの変化について)。

③段落。まず、はっきりしておきたいのは、作品を読むとは作品と出会うこと(encounter)であり、出会いとしてのそれは、深い意味での一つの歴史的経験に他ならないという点である。経験はたえず期待を裏切り、あらかじめ用意された方法や理論をのりこえたり、そこからこぼれ落ちたりする。経験は弁証法の母であり、そこには否定的創造性というべきはたらきがある。作品をくり返し経験することによって、以前の読みが訂正され読みが深まるのも、かくしてそこで何ものかが否定されつつ創造されてくるからである。専門家が或る作品を研究する時も、事情は同じである。というより、「出会いであるところのものをもっぱら知識や観察の問題であるかのように思いなす」(傍線部(2))点に、専門家の陥りがちなワナがあり、学問の硬直化が起こってくるのも、このことに端を発すると見ていい。研究とはむしろ間断なき出会いのことではなかろうか。…真に大事なのは、いま何といかに出会っているかという自覚であると思う。

④段落。時代とともに、あるいは世代とともに作品が解釈し直され、読みや評価が変わってくるのは当然である。しかしその変化を、無媒介に超個人的なものとするわけにはゆかない。時代による読みの変化と個人における読みの変化とは、互いに包みあっている。個人における、前にいったような縦の変化を横断面として眺めてみると、他人との共時的な関係があらわれてくる。すなわち、「過去から今日にかけての私の、あるいはあなたの読みの変化は、共時における私と、あるいはあなたと他人との読みの違いの通時態でありうる」(傍線部(3))。ある意味で自己はつねに他人のはじまりである。赤い糸のごときものが何ほどか貫いているにしても、今の私にとって二十歳のときの私が私でありながら他者であるのは、共時における私と他者との関係に、図形としてはほぼ等しいといえるだろう。この二つの次元は、互いに交叉する。しかもそれは、たえず時間的に動いており、各個人はこの弁証法的な運動の支点である。

⑤段落。こうした過程が曖昧に入りくみ、微妙にからまりあいながら、読みの時代的変化を生み出してゆく。それは時代に挿入されて生きる個人間の諸関係の網の目が織りあげる模様でもある。…かりに或る作品がずっと読みつがれてきているにせよ、その読まれかたは決して一様ではない。つまり永遠と見まがうばかり、それは歴史的に生成発展しているわけだ。それというのも、「作品を読むということが、一つの歴史的経験である」(波線部)からに他ならない。私たちはたんに自分の外側に歴史をもつと考えがちだが、しかし自分の経験そのものが歴史的でないならば、歴史をもつということも不可能なはずである。


⑥段落。これはむろん、作品を勝手放題読んでいいという意ではない。深読みというものがある。これは本文に書いてないことを主観的に読みこむやりかたをいう。しかし一般に、本文で何がいわれており何がいわれていないかのけじめは、必ずしも顕在的でなく、微妙にもつれあっている。おそらくこの深読みは、絵画や音楽の場合より、文学の場合が起きやすい。文学の媒体であることばは、人間の生活にまみれているからである。逆にいえば、ことばは色や音よりいっそう多義的である。行間を読むという諺があるが、それの暗示するように、何かを「読む」とはたんに字面を目で追うことではなく、行間に放射されているものを読みとろうとすることであるはずで、その点、「読むことには深読みの危険が常に待ち伏せしている」(傍線部(4))といえる。だがにもかかわらず、いわれていることは、いわれていないことの条件においてのみ理解されることに変りない。

(余談) 自己言及的な出題ではなかろうか。「いわれていることは、いわれていないことの条件においてのみ理解される」。表現や形式性に基づく客観的な読解は、もちろん内容を把握する第一条件である。その上で、「行間に放射されているもの」を主体的に読み取り、その理解を解答として示すことが大学の求めている次元である。「深読み」の危険を冒した先にしか、文章の深意は現れて来ないのである。

〈設問解説〉 問一 「「古事記伝」は不壊の書だが、それに追随すればすむというのではない」(傍線部(1))について、「それに追随すればすむというのではない」と筆者が言うのはなぜか、説明せよ。(三行:一行25字程度)

 

理由説明問題。「それ(=「古事記伝」)に追随すればすむ(A)/というのではない」の理由への問いに対する答えの形式は、「Aにとどまらず/Bすることで/C(+)だから」(ないある変換)となる。ここでBにあたるのは、①段落のまとめの部分「(宣長には…)/私たちには/私たちの文脈において古事記を読み直すことができるし/またそれが必要である」を根拠に、「自らの文脈で古事記を読み直すこと」(B)となる。
では、BによりもたらされるC(+)はというと、①段末文の問題提起「〈読む〉とは何か」についての答えの部分、③段落より「作品と出会うこと/歴史的経験」(C)である。「歴史的経験」については、問五で問われるので深入りせずに、「出会い」については、「いま/何と/いかに」(③段末文)という現在における経験である。
ここで①段落に戻ると、宣長においては、「天皇を中心とする国家というものが、一つの動かしがたい規範的観念」であった。それに規定された「古事記伝」に追随するだけでは、いかにそれが不壊の書であろうが、古事記という作品と「いま」において「出会う」ことはできない。「古事記伝」を参考にするのはもちろんとして、それに頼りきらず(A)、「自らの文脈で」読み直すことが(B)、「いま」に活きる読書経験をもたらすのだ。よって「それに追随すればすむというのではない」ということになる。

<GV解答例>
「古事記伝」が宣長の時代の規範に支えられた記述である以上、それに頼りきらず自らの文脈において古事記を読み直すことが、今に活きる読書経験をもたらすから。(75)

<参考 S台解答例>
「古事記伝」は古事記の伝統的な理解であり、その価値は失われることはないが、現代の読者は宣長とは異なる視点で、現代的な文脈において、古事記を読み直す必要があるから。(81)

<参考 K塾解答例>
宣長の「古事記伝」は不朽の古典だとしても、それは宣長が生きた時代とそこでの宣長固有の問題意識を反映したものであり、現代人の古事記理解と異なるのは当然だから。(78)

 

問二 「出会いであるところのものをもっぱら知識や観察の問題であるかのように思いなす」(傍線部(2))はどういうことか、説明せよ。(三行:一行25字程度)

内容説明問題。傍線部を記号化して示すと「Aを/もっぱらBに思いなす」(A↔️B)となるが、さらに「もっぱら」を踏まえるならば、「Aを/Bに/限定(特化)しようとする」と言い換えられる。その上で、主題であるA(=出会い)については十分の記述があるが、その対立項であるB(=知識や観察の問題)については直接の言い換えはない。この場合、自力で分かりやすく還元するのだが、もちろん本文を手がかりにする。
まず、Bの態度は、専門家(学者)が作品(文献)を研究する場合にとる態度である。それ自体が間違っているのではないが(むしろ一般的な態度といえよう)、それに限定することで「学問の硬直化」をもたらすのである。次に、情報の多いAとの対比で考える。Aについては傍線の前より「作品との出会い/経験→否定的創造/弁証法→読みの深化」と整理できる。Aが「主体的・動的」な態度であるのに対し、「知識や観察の問題」としてのBは「客観的・静的」な研究者(科学者)の態度といえよう。
以上の考察より、Aが「作品と主体的に関わり/知を更新しながら(←弁証法)/読みを深化させる/読書の本来的なあり方」なのに対し、Bは「対象としての文献から(←観察)/客観的な知識を得る/研究者(科学者)としての態度」と導くことができる。傍線の主語(専門家)は自明なので特に補う必要はない。

<GV解答例>
作品と主体的に向き合う経験の中で知を更新しながら読みを深化させる読書のあり方を、対象としての文献から客観的な知識を得ることだけに特化しようとすること。(75)

<参考 S台解答例>
専門家が、作品を読むことは、作品を媒介とする自己の否定的創造を意味する経験と考えず、既知の方法や理論を作品に一方的に当てはめることであると認識するということ。(79)

<参考 K塾解答例>
予期とその否定の繰り返しから生じる深い読みの創造であるべき作品読解の経験を、専門家は既存の学問の枠内で固定化し客観的に捉えうるかにみなしてしまうこと。(75)

問三 「過去から今日にかけての私の、あるいはあなたの読みの変化は、共時における私と、あるいはあなたと他人との読みの違いの通時態でありうる」(傍線部(3))とはどういうことか、説明せよ。(四行:一行25字程度)

内容説明問題。一文が込み合っているので、簡単に言い直すと、「各個人の通時的な読みの変化は/自己と他者の共時的な読みの違いに対応する」。さらに、「名詞」(変化/違い)を「(主語-)動詞化」して言い直す(「魔法」をかける笑)と、「自己と他者の読みが共時的に相違するように/(A)/各個人の読みは通時的に変化する(B)」。
その上で、傍線の前文(「すなわち」の前)と、傍線の2文後が傍線の言い換えであることに着目して、AとB(類比関係)を具体的に説明する。特に、2文後に「赤い糸のごときものが何ほどか貫いているにしても」とあるように、Bについては通時的に同一性を保ちながらも、作品に対する読みや評価は変化することに注意する。これはAについても同様で、時代・世代における共時的な同一性を保ちながらも(←④段1文目)、作品に対する読みや評価は自己と他者で違うのである。以上の内容をまとめる。

<GV解答例>
同時代や同世代において自己と他者の作品に対する読みや評価は共時的な傾向を持ちながらも相違するように、各個人の成長の過程においても同じ人格としての通時的な傾向を持ちながら読みや評価は変容するということ。(100)

<参考 S台解答例>
自己あるいは他者において、同一の個人でありながら過去と現在とで作品の読みが変化するのは、同時代における自己と他者とで作品の読みが異なっているという関係を、時代や世代によって捉えることとはほぼ等しいということ。(104)

<参考 K塾解答例>
時代の推移や人生経験のありようによって異なっていく個々人の作品の読みの変化は、それと類比的に捉えうる、同時代における自他の読みの違いと微妙に関係しながら進行していく時間的過程だとみなしうるということ。(100)

問四 「読むことには深読みの危険が常に待ち伏せしている」(傍線部(4))のように筆者が言うのはなぜか、説明せよ。(四行:一行25字程度)

理由説明問題。※ で区切られ、他から相対的に独立した最終⑥段落を解答根拠にする。傍線の前に「その点」とあるので、直接理由の根拠はそれが承ける「「読む」とは…行間に放射されているものを読みとろうとすることであるはず」(A)となる。Aは比喩的な表現なので、「行間を読む」(Aの前部)、「いわれていることは、いわれていないことの条件においてのみ理解される」(⑥段末文)を参考にして、「(「読む」ことは)ことば同士の対応関係という明示されない情報により意味を推論することを必要とするから」(R)(→「深読み」の危険)と直接理由をまとめた。
さらに、ここから根本理由に遡及し、「文学の媒体であることばは、人間の生活にまみれている/ことばは色や音よりいっそう多義的(→一意に定義できない)」を拾い、「文学の媒体であることばは生活の中で使用されることから意味の広がりをもつ」とまとめた。しかし、「一義的な解釈が求められる読みの場(学術研究)において」は、「行間を読む」ような推論を強いられる(R)、よって「深読み」の危険を避けられないのである。

<GV解答例>
文学の媒体であることばは生活の中で使用されることから意味の広がりをもつが、一義的な解釈が求められる読みの場においては、ことば同士の対応関係という明示されない情報により意味を推論する必要に迫られるから。(100)

<参考 S台解答例>
読むことは本来、書かれていないことを読みとろうとすることであり、ことばという媒体が人間生活で使われている分、他の媒体より多義的であるため、書かれていないことを主観的に謝って読みこんでしまう可能性が高くなるから。(105)

<参考 K塾解答例>
作品には明示されている内容とそれを支える背後の文脈とが分かちがたく絡まり合っているが、それを弁えないまま、人生の多義的な経験に身勝手に引きつけて作品を読もうとしすぎると、単なる主観的読解に陥ってしまいがちだから。(106)

問五 「作品を読むということが、一つの歴史的経験である」(波線部)いついて、本文全体を踏まえて説明せよ。(五行:一行25字程度)

内容説明問題(主旨)。「作品を読む=歴史的経験」について「本文全体を踏まえて」説明する。まず波線部(⑤段)の前後の文が参考になる。すなわち「それというのも」で承ける前文、「それ(=作品の読まれかた)は歴史的に生成発展している」(A)と、後文「私たちはたんに自分の外側に歴史をもつと考えがちだが/自分の経験そのものが歴史的でないならば/歴史をもつということも不可能である」(B)。
Bは、つまり、「私たち」(自己)は歴史に内在しその影響下にある、ということであり、その大きな歴史と小さな時間(人生)の中で(通時性)、同時代・同世代の他者(共時性)に影響を受けながら、自己の読みは変容するのであった(④段・問三)。それは、Aより「読まれる作品」の方も同じであり、個々人によって構成される時代ごとの読み(共時性)の影響を受けながら(←⑤段1・2文目)、歴史的(通時性)に生成発展していくのである(D)。
さらに、もう一箇所「歴史的経験」に直接言及した③段落に着目する。その1文目「作品を読むとは作品と出会うことであり/それは深い意味での一つの歴史的経験に他ならない」とあるように、「作品を読む/歴史的経験」というのは、一個人と一作品との「出会い」の集積ということになる。その「出会い」は歴史の「いま」において果たされるのである(E)(←⑤段末文)。以上より解答の骨格は、「Cである自己は/Dである作品と/ある時代状況の下で出会い(E)/~(F)」。
後は、Fのところに「出会い」で果たされる「経験」の内実を繰り込めばよい。まず、読む側の自己の「主体性」(③段・問二)と「積極的な意味の汲み取り」(⑥段・問五)からくる経験の固有性。折り返し、読まれる作品も、読みの経験の一回性において、「新たな生命を得る」(←⑤段1・2文目)、これで十全な説明となる。

<GV解答例>
同時代や同世代の読みに影響を受けながら自らの読みを変容させてきた自己は、同じく歴史の上で時代の読みに影響を受け生成発展してきた作品に、ある時代状況の下で出会い、主体的に意味を汲み取ろうとする中で固有の経験を得、作品にも新たな生命を吹き込むということ。(125)

<参考 S台解答例>
時代による読みの変化は、無媒介に超個人的なものではなく、個人における読みの変化と包摂しあっており、ある作品が読み継がれながら、その読まれ方が歴史的に生成発展していくのも、個人が作品を読むこと自体が、作品を媒体に自己を否定的に創造していく歴史的な経験であるからである。(133)

<参考 K塾解答例>
作品読解とは、個々人が自己の生きる時代やそこでの他者との関わりの中で、自己の経験を踏まえ作品と動的に向き合うかたちでなされるものである以上、恣意的読解や硬直した客観的読解に終始するのではなく、歴史において弁証法的に生成発展する経験としてあるべきだということ。(129)