〈本文理解〉

出典は なだいなだ『人間、この非人間的なもの』。

 

①~⑧段落。私は、この評論集に「人間、この非人間的なもの」という、一見、矛盾にみちた表題をえらんだ。人間は人間的である、という常識に対して、人間は非人間的ではないのか、という反問を向けたのは、私のへそ曲がり的衝動だとしても、それなりの意味はある。人間的という言葉は、人間に受身的に従属している言葉であるはずだ。そして、その本来の意味では、人間が人間的でないのが不思議なくらいである。人間が変化すれば、人間的という言葉の持つ意味も無限にふくらんでいく。そこで、「人間は、どんな場合でも、人間的である」という主張がなりたつ。でも、人間的という言葉を、日頃そのように、非限定的に使っているか。人間的という言葉に、もっと輪郭のはっきりした限定的なイメージを与えているのではないか。そこから問題がおこる。(リンゴの変化に、出発点でリンゴと結びついていた「リンゴ色」は追いつかず、切り離された)。同じように、人間的という言葉は、もはや人間とは切り離されて、人間とは無縁である。人間は人間的であるとは限らない。「人間、この非人間的なもの」という主張は、矛盾にみちているようで、決して矛盾したものではないといえる。

 

⑨段落。私に人間とは何かを問いかけさせたものは、テレンチウスの、ニヒル・フマニ・ア・メ・アリエヌム・プトーという言葉だった。アデルフォス(兄弟)という芝居の中で、彼は奴隷にそういわせる。つまり「人間的なことで、私の関心をひかぬものは、なにもないと思う」というのだ。その芝居はローマ人の退廃した生活の一面をえがいた喜劇だが、その言葉には善悪を越えて、人間のやることは何でも人間的であるとし、それに無限に関心をはらい続ける姿勢が感じとられた。人間のやることに、人間的でないものは、悪もふくめて、なにもない。だから人間を知りつくすこと以外に、「自分を人間であることから解放する」(傍線ア)ものはないことを、私は教えられたのだ。その時まで私の頭の中には、どちらかといえば、人間を善悪の此岸に立たせようとしたところから出発したセンチメンタルなヒューマニズムしかなかった。私の人間は、そこで、善悪のひもで、がんじがらめにされて立っていたのだ。私はテレンチウスに一撃をくらわされた。人間は、人間的という言葉に呪縛されてはならない。人間の悪を非人間的と呼んで人間から切り離し、自分を人間的と呼んでそれとは無縁のものと見なしてはならない。そう思った。人間は、人間的という言葉の外縁を無限に拡げつつある。人間は、人間的という言葉の主人である。人間は、そのものが未完である。だから、人間的という言葉の意味の境界も閉じられていない。しかも、人間が完結した時、つまり滅亡した時、それを認識する人間も残っていないわけだから、「人間とは何か、人間的とは何か、という問に、限定的な答を与えることは不能である。私たちに可能なことは、限りなく問い続けることであり、それに答えることは、新しい問を準備するためでしかない」(傍線イ)。

 

⑩段落。人間的とよばれるものは、私たちを呪縛するためにあるのではなく、私たちが人間の認識を高めるためにだけある。私は、人間がそれまで、事物に対応する符丁にすぎぬ言葉に思想を従属させていたことを感じた。事物に対応する符丁である言葉の奥にある事物そのものを見ようとすることが、どれだけ困難であることか。私たちはとかく、言葉で事物について語ってしまい、事物に語らせることができない。人間的に人間を語ることはしても、人間に人間的なものを語らせることができない。ベルグソンは「私の著書では、悪という言葉を用いなかった」といったが、それこそが、人間とは何かを問いかける姿勢なのである。

 

⑪⑫段落。人間、この非人間的なもの、と私がいうのは、人間をして語らしめれば、私たちが人間と呼んでいたものを越えて、非人間的と呼んでいたものを語りはじめるであろうことを予告したいからにほかならない。私が、人間が非人間的だというのは、私たちの人間という考えがあまりにもせまく制限されているものだから、人間のやることは何でもその枠を飛び出さざるをえないという意味である。しかし問題は、非人間的というのは単に人間的でないという、人間的なものを消極的に否定する以上の意味を持ちはじめてしまうことだ。非人間的だとうっかりいえば、それは非難の言葉、攻撃の言葉と受けとめられ、人間の姿をありのままに見つめることを困難にさせるのである。

〈設問解説〉問一 (漢字)

衝動 輪郭 相場 退廃 符丁

 

問二 「自分を人間であることから解放する」(傍線ア)とはどういうことか。説明しなさい(30字以内)。

内容説明問題。「人間を知りつくす」(傍線直前)ことで自分を「人間」であることから解放する、ここでいう「人間」(A)とはどういうものか。筆者はテレンチウスの芝居でニヒル・フマニ・ア・メ・アリエヌム・プトーという言葉に出会うまで、「人間」(A)を「善悪のひもで、がんじがらめにされ」た存在(A+)として捉えていた(傍線2文後/「がんじがらめ」→「解放」が対応)。さらに後ろにたどると、上の言葉との出会いを契機に「人間の悪を非人間的と呼んで、人間から切り離し/自分を人間的と呼んで、それとは無縁のものと見なしてはならない」(B)と思うに至った。以上のA+とBより、「人間に(本来的に)伴う悪を否定しながら(B)/それに囚われる(→恐れる)自己(A+)/を超越すること」とまとめられる。

<GV解答例>
人間に伴う悪を否定しながら、それを恐れる自己を超越すること。(30)

<参考 S台解答例>
ヒューマニズムの幻想を超え人間の実相全てを人間的と見ること。(30)

<参考 K塾解答例>
人間を善悪で規定し悪を排除する狭い人間観から自由になること。(30)

問三 「人間とは何か、人間的では何か、という問に、限定的な答をあたえることは不能である。私たちに可能なことは、限りなく問い続けることであり、それに答えることは、新しい問を準備するためでしかない」(傍線イ)とあるが、それはなぜか、答えなさい(30字以内)。

理由説明問題。傍線が長いので、整理して何に答えるべきかを明確にする。すると、「人間と、人間的への問いは(S)/限りなく問い続けるしかない(G)」となり、このS(始点)とG(終点)の論理的飛躍をつなぐR(理由)を指摘する、ということになる。傍線直前までの形に着目すると、「R1/しかも/R2から(傍線)」となっている。R1は「人間と、(そこから派生する)人間的という言葉の意味は完結しない(=未完である)」、R2は「完結する時(=人類滅亡)には、認識する人間がいない」という内容になっている。このR1とR2を、SとGの間に挿入する形で、簡潔に(30字以内)で解答化すると、「人間と、人間的への問いは(S)/人間主体が滅ぶまで(R2)/未完であるから(R1)(→G)」となる。

<GV解答例>
人間と、人間的への問いは、人間主体が滅ぶまで未完であるから。(30)

<参考 S台解答例>
人間は絶滅するのでない限り未完であり、常に
変容し続けるから。(30)

<参考 K塾解答例>
絶えず変化する人間は自らに対する定義を常に越えてしまうから。(30)

問四 筆者は「人間、この非人間的なもの」という表現を通して何がいいたかったのか、全体をふまえて答えなさい(50字以内)。

内容説明問題(主旨)。「人間、この非人間的なもの」という表現を通して何がいいたかったのかについての直接の根拠は、⑪段落「人間、この非人間的なもの、と私がいうのは」以下の部分にあるのは明白。すなわち、「人間をして語らしめれば(A)/…人間的…を越えて、非人間的…を語りはじめるであろう(B)」が解答の筋になる。Bについては、最終⑫段落「私が、人間が非人間的だというのは」以下、「人間的という考えが…制限されているものですから…何でもその枠から飛び出さざるをえない」を根拠に、「人間は「人間的」を常に更新(=非人間的)しなければならない」(B+)として解答の締めにする。

 

そのBの条件になるAについては、⑩段落を参照し、「事物に対応する符丁である言葉/人間的」と「言葉の奥にある事物/人間」という対比をおさえ、「人間は、既成の言葉や思想(思念)にとらわれず、存在自体を問い続ける(←傍線イ)必要がある」(A+)とまとめる。「人間的という言葉の限定的なイメージにとらわれてはならない」という趣旨は、本文導入部のまとめである⑥~⑧段落の内容でもあるから、「全体をふまえて」という設問要求にも沿う。「A+→B+」という形で仕上げ解答とする。

<GV解答例>
人間は、既成の言葉や思念にとらわれず、死ぬまで存在自体を問い続け、「人間的」を更新せねばならぬこと。(50)

<参考 S台解答例>
人間性を特定の観念や視座から限定的に捉えるのではなく、常に新たに問い直していく必要があるということ。(50)

<参考 K塾解答例>
人間的・非人間的という区分による人間観を越えて、本来無限定である人間そのものへの認識を高めるべきだ。(50)