要約問題は、形式に則った客観的な読み取りと、そこから得られる内容と本文の構造に即した表現力を問うものです。その点で、現代文における学力がストレートに試されているといえます。よって、一橋大学の受験生でなくとも、100字~200字程度の要約をして的確な添削指導を受けることは、学力養成の良い機会となるでしょう。

要約作成の基本的手順は、以下の通りです。
(1)本文の表現に着目して重要箇所を抽出する(ミクロ読み)。
(2)本文をいくつかの意味ブロックに分けて、その論理構成を考察する(マクロ読み)。
(3)本文の論理構成に基づき、要約文の論理構成の骨格を決める(例えば、本文が2つのパートに分かれていれば、要約文も原則2文で構成するとよい)。
(4)骨格からもれた付加要素を、構文を崩さない程度に盛り込んで仕上げとする。

出典は椹木野衣「感性は感動しない」。条件なしで200字以内の要約が求められている。

(1)①~⑩段落。(岡本太郎の引用を承け)しばしば僕らは「感性をみがく」と口にするが、どうしてだろう(a)。日本人は修行が好きだが、芸術に修行は必要だろうか(b)。芸術に必要なのは圧倒的に感性である(c)。僕が言いたいのは「芸術は教育可能か」という問題である(→NO)(d)。
⑪~22段落。すぐれた美術作品とは、観る人の心を動かすものにほかならない(e)。観る側にとっても、知識や技術があるからといって本当に心が動かされるとは限らないし、むしろそれが邪魔になり感性が絵に届かない(f)。世間的にはネガティブだとされる感情も、その人の心の奥底のなにかを解放するきっかけになるかもしれないから、芸術はそれを排除すべきではない(g)。
23~28段落。どんな絵に心を揺さぶられるかは、その人にしかわからない/芸術における感性とは、あくまで観る側の自由である(h)。感性の根拠は、作品や作者ではなく「その人がその人である」ということだ(i)。個が全責任を負って観ることができるのが芸術だ(j)。安易にその権利を作り手に渡してはならない(k)。そうならないためには、感性などみがことうしないことだ(l)。
29~36段落。芸術作品にはその「分際」いうものがあり、あなたの生き様に何も及ぼさないならば、その作品は粗大ゴミ同然だ(m)。そうした作品は、心を動かさず、感性を呼び覚ます力がない(n)。反対に、技術に裏付けられない素描の線に心を動かされる時、線が優れているのではなく、感性を通じて自分の心のなかを覗き込んでいるだけなのだ(o)。ときに芸術作品は心の蓋を容赦なく開けてしまう(p)。(ゴツゴツとした感触、軋轢、自分が壊れそう)こうした生の手触りを感じるとき、僕らは、自分の中で感性が音を立てて蠢いているのを初めて知る(q)。

(2)エッセイ風の柔らかい文章(冗長にもとれる)で、論理構成が見えにくいが、話題が変わるところで分け、見出しをつける。
①~⑩段落(意味段落Ⅰ);感性はみがけない/芸術は修行や教育に向かない。
⑪~22段落(意味段落Ⅱ);すぐれた美術作品とは、観る人の心を動かすものである。
23~28段落(意味段落Ⅲ);感性の根拠はその人そのものである/観る人は全責任を負って芸術を観る。
29~36段落(意味段落Ⅳ);(すぐれた)芸術作品は、観る人の心の蓋を開け感性を呼び覚ます。

(3)上の意味段落のうち、(Ⅲ)の「感性」についての説明を(Ⅰ)に繰り込み(A)、(Ⅱ)の内容を(Ⅳ)に繰り込む(C)。その間に(Ⅲ)の「観る人の姿勢」を配して(B)、次のように要約文の構成を決める。
A「芸術に必要なのは圧倒的に感性であるが(c)/感性は修行や教育でみがくことができない(a)(b)(d)(l)/その人に固有のものである(i)」。
B「人は/全責任を負った個として(j)/生の感触で(q)/自由に芸術作品を観る(h)」。
C「その時/観る人の心の蓋を開け(p)/その中を覗かせ(o)/感性を呼び覚まし(n)/その人の生き様に影響を及ぼすのが(m)/すぐれた芸術作品なのである(e)」。

(4)残りは(f)(g)(k)。(f)は(q)の前に、(k)は(j)の前に配しBを次のように補強する。
B「人は/知識や技術に頼らず(f)/生の感触で(q)/感性を作り手に委ねず(k)/全責任を負った個として(j)/自由に芸術作品を観る(h)」。
(g)は(o)の前に配しCを次のように補強する。
C「その時/観る人の心の蓋を開け(p)/ネガティブなものも含めて(g)/その中を覗かせ(o)/感性を呼び覚まし(n)/その人の生き様に影響を及ぼすのが(m)/すぐれた芸術作品である(e)」。

※《留意点》
本文の冒頭と末尾(「感性とは、どこまでも事後的にしか知れないものだからだ」)が「感性」について言及しているからといって、「感性」を主語にその性質を叙述するという方針をとると、文が硬直し書き込める情報も限られてしまう。
この文章は「感性一般」について述べているのではなくて「芸術体験における感性」(感性→芸術/芸術→感性)について述べていることに気を留めよう。その時、(観る人の)「感性」についてはひとまず単独で規定できるが(A)、「芸術」については観る人と切り離して規定するのは困難であろう。ならば「感性」についての規定を前提として、そこから「芸術体験」のあり方(感性→芸術)、その中で感性が呼び覚まされる(芸術→感性)、という述べ方にした方が良い。その方が本文の叙述にも沿う。

<GV解答例>
芸術に必要なのは圧倒的に感性であるが、それは修行や教育によってみがかれるものではなく、個々人に備わった固有のものである。人は、所与の知識や技術に頼ることなく生の感触で、また作り手に感性を委ねることなく全責任を負った個として自由に作品を観る。その時、観る人の心の蓋を開け、ネガティブなものも含めてその中を覗かせ感性を呼び覚ますことで、その生き様に影響を及ぼすようなものこそ、すぐれた芸術作品なのである。(200字)

<参考 S台解答例>
芸術において感性が重要なのは確かだが、感性の根拠を作品や作者の側においてしまうと、それに感動するために、知識や技術に精通し自らの感性をみがく努力をしなければならないと考える倒錯に陥ってしまう。真に必要な芸術的感性は、観る人のなかに潜在するものであり、作品とぶつかる軋轢の中からその都度わき起こってくるものである。その意味で感性とは、予めみがくことのできないものであり、事後的にしかわからぬものである。(200字)

<参考 T進解答例>
芸術に真に必要なのは感性であり、それはあくまでも観る側の心の自由にあるもので、決して磨いて高められるようなものではなく、「自分が自分であること」以外に根拠はない。また、事後的にしか知れぬものであるがゆえに、真に優れた芸術作品に邂逅して内部で軋轢を生じ、自己崩壊の苦痛に耐えて初めてわかるものである。このように、芸術は個が全責任を負って観るものであり、安易に感動を求めてはならず、その教育も困難である。(200字)