〈本文理解〉

出典は岡真理「「文化が違う」とは何を意味するか?」。著者はアラブ/イスラーム研究者。

①②段落。モロッコの社会学者ファーティマ・メルニーシーがどこかでこんなことを書いていた。西洋社会の人間はアラブ社会は宗教的だと言うが、自分がアメリカ社会で暮らしてみて驚いたのは、アメリカの社会の日常が、キリスト教の宗教的な含意によって満たされていたということだ。それを日常として生きている者にはごく当たり前のことかもしれないが、他文化の者にとっては、アメリカは実に宗教的な社会に映ったという。同じことは日本社会にとっても言えるかもしれない。「日本人は宗教心が希薄だと、日本人自身が言うのをよく聴く」(傍線一)。「それに較べてイスラームの人は宗教熱心で」という言葉があとに続くのだが、日本社会を体験したイスラーム教徒が強調するのは、日本社会がいかに宗教的であるか、ということだ。(初詣/七五三/仏壇/お盆の法事…)。私たちにとってそれは、とりたてて宗教的な行為というわけではなく、親がやってきたから自分も何となく繰り返している日常の一こま、年中行事のひとつに過ぎないとしても、それはたしかに宗教的な意味に浸潤されている行為なのだ。そして私たちは、それを当たり前の日常として生きているがゆえに、ことさら宗教的な行為とは感じなくなってしまっているのかもしれない。

③~⑤段落。だから、イスラーム社会において私たちの目から見れば、非常に宗教的な振る舞いであっても、本人たちはそれを慣れ親しんだ日常の一部として行っている場合もたくさんあるだろう。(ムスリム女性の被るスカーフ)。たしかに、そこには宗教的な根拠がある。しかし、すべての女性が熱狂的な宗教心の証としてスカーフを被っているわけではない。母も祖母も姉も、まわりの女性たちがスカーフを被っている。だから自分も被る。それは女性たちにとってまず、宗教的行為というよりも地域に根ざした生活習慣としてある。私たちも、その由来を考えることなく、永年の生活習慣として行っている多くの行為があるのではないだろうか。

⑥⑦段落。「イスラーム」という「文化」の違いは、女性たちが被るスカーフという実に目に見えやすい形で現象している。その目に見える違い、つまり「文化の違い」ということが、現代においてなお人々が厳格に宗教的に生きているイスラーム社会というイメージを生み出す。しかし、たとえば永年の生活習慣としてそれが行われているという点に注目すれば、私たちの社会も、現れ方は異なるけれども、同じような態度が見られることに気づくだろう。つまり、私たちと彼らは、実はそんなに違わない。少なくとも、同じ人間として理解できないほど違う、というわけでは決してない。そして、このとき「文化の違い」とは、私たちとの異質性を物語るような具体的な違い、「「私たち」と「彼ら」のあいだの可視化された差異について、それが同じ人間としてじゅうぶん理解可能であること」(傍線二)を示してくれるものなのだ。

⑧段落。「文化の違い」をこのようなものとして考えるならば、「文化が違う」ということは、彼我の通約不能な異質性を意味するものではなく、人がそれぞれの社会で生きている現実の細部の違いを越えて、理解しあう可能性を表すものとなる。「理解する」とは、それを「丸ごと肯定」(傍線三)こととは違う。むしろ、私たちは「理解する」からこそ、批判も含めた対話が他者とのあいだで可能になるのではないだろうか。そして、理解することなく「これが彼らの文化だ、彼らの価値観だ」と丸ごと肯定しているかぎり、抹消され、私たちの目には見えないでいる、その文化内部の多様な差異やせめぎあい、ゆらぎや葛藤も、「理解」しようとすることで立ち現れてくるだろう。

 

⑨⑩段落。他文化を自分たちとは異質だと決めつける視線、それは、自分たちもまた、形こそ違え、実は彼らと同じようなことをしているという、批判的な自己認識を欠いたものである。そして、自文化に対する批判的な自己認識を欠落させた視線が、かつて自らの「普遍性」を僭称し、他文化を「野蛮」と貶めたのではなかっただろうか。文化相対主義とはまずもって、そうした自文化中心主義的な態度に対する批判としてあることを確認しておこう。それは、自文化に対する批判的な認識を欠いて、他文化を自文化とは決定的に異なった特殊なものとして見出す「文化相対主義」とは、ぜんぜん別物である。自文化中心主義的な「文化相対主義」の主張は、「自文化」というものを、ナルシシスティックに肯定したいこの世界のありとあらゆる者たちの共犯者となって、自らの帰属する社会を、歴史を、無条件に肯定したいという自己愛に満ちた欲望を支えている。お前たちは、侵略といい、虐殺といい、奴隷性という。それはお前たちの価値観、お前たちの歴史。われわれにはわれわれの価値観、われわれの歴史があるのだ。そして、このような「文化相対主義」に基づいて主張される多文化主義は、アメリカの覇権主義を共犯者として補完するものであって、決してグローバリゼーションの対抗言説にはなり得ない。

 

⑪段落。したがって、反・自文化中心的な文化相対主義に基づいて、「文化の違い」というものを考えること。そのようなものとして、「文化」を理解することこそが、いまだ明かされない新しい普遍性へと世界を開いていくだろう。

〈設問解説〉問一 (漢字)

A含意 B奉納 C根拠 D抹消 E覇権 

問二 「日本人は宗教心が希薄だと、日本人自身が言うのをよく聴く」(傍線一)とあるが、これについての筆者の見解を述べなさい。(50字以内)

内容説明問題。「Aだという意見」に対する見解(判断)を聞いているのだから、解答の型は、判断の根拠(B)と合わせて、「BだからAだと言える」または「BだからAだと言えない」になる。同②段落「日常の一こま…年中行事に過ぎないとしても…宗教的な意味に浸潤されている行為/それを当たり前の日常として生きているがゆえに…宗教的な行為とは感じなくなってしまっている」という記述から、「日本人は当たり前の(→自明の)日常行為であっても、一概に宗教心(宗教性)が希薄だとは言えない」と導ける。
では、そう判断する根拠(B)は? それは、②③段落より、イスラーム教徒が日本人を見るように(日本人がイスラーム教徒を見るように)、「外部の他者(他文化)の視線を介在」させるからである。これを、解答の「中」に据える。

<GV解答例>
日本人には自明な日常行為であっても、他文化の視線を介在させると一概に宗教性の希薄な行為とは言えない。(50)

<参考 S台解答例>
日本人も宗教的な行為を行なっているが、当たり前の日常として生きているがゆえに意識されないだけである。(50)

 

問三 「「私たち」と「彼ら」のあいだの可視化された差異について、それが同じ人間としてじゅうぶん理解可能であること」(傍線二)とはどういうことか、説明しなさい。(50字以内)

内容説明問題。「「私たち」と「彼ら」のあいだの可視化された差異について(A)/同じ人間として(B)/理解可能であること(C)」と分けて言い換えるが、ポイントはBにある。Aについては、「ムスリム女性が被るスカーフ」のような「可視化されたされた自他の表象」、その「違い」のことである。そうした違いも、前⑥段落「たとえば生活習慣としてそれが行われているという点に注目すれば、私たちの社会も、現れ方は異なるけれども、同じような態度が見られる」とあるように、「生活習慣の違い」とみなすならば(B´)、理解可能だということである。ここで「生活習慣の違い」とみなすこと(B´)とは、「同じ人間の(習慣という)行動様式」とみなすこと(B´´)とも言える。Bの言い換えとしては、B´´の方が良いだろう。Cについては、そのままでも構わないが、⑧段「通約不能な異質性」を逆利用して、「通約可能な文化に還元できる」とした。

<GV解答例>
可視化された自他の表象の違いも、人間としての行動様式に立ち返ることで通約可能な文化に還元できること。(50)

<参考 S台解答例>  
一見通約不可能な異質性と見えるものも、それぞれの生活習慣の相違と考えれば互いに了解できるということ。(50)

 

問四 「丸ごと肯定」(傍線三)することを筆者は批判しているが、傍線三以降の内容を踏まえて、その理由を二点挙げなさい。

内容説明問題。一つ目は、容易。傍線直後の⑧段落「(丸ごと肯定ではなく)「理解する」からこそ…批判も含めた対話が可能になる…/そして(話題の継続)…その文化内部の多様な差異やせめぎあい、ゆらぎや葛藤も…「理解」しようとすることで立ち現れてくる」の二文を一文にまとめる。「(丸ごと肯定は)…多様な差異を、…対話を通して理解する機会を奪うから」とした。
二つ目は、⑨⑩段落のカタマリを踏まえて解答する。特に⑩段落の後半「それはお前たちの価値観、お前たちの歴史だ」に注目。つまり、「お前たちはお前たち」は対話のない「丸ごと肯定」の態度であり、それは「われわれはわれわれの価値観、われわれの歴史がある」という「自文化中心的な「文化相対主義」」に反転する。「そして」このような「文化相対主義」は、アメリカの覇権主義を補完するものであり、グローバリゼーションの対抗言説にならない(⑩段末文)。ここも、「そして」の前後の内容をつなぎ、一文でまとめる。「(丸ごと肯定は)自文化への批判的認識を欠いた(←⑨)「文化相対主義」に陥り、覇権主義の補完に留まるから」とした。

<GV解答例>
・一文化の内部に孕まれる多様な差異を、他者との対話を通して理解する機会を奪うから。(40)
・自文化への批判的認識を欠いた「文化相対主義」に陥り、覇権主義の補完に留まるから。(40)

<参考 S台解答例>
・他の文化内にある多様な差異やせめぎあい、ゆらぎや葛藤が見えなくなるから。(36)
・批判的な自己認識を欠いた、自己中心的な「文化相対主義」を生み出してしまうから。(39)

 

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