〈本文理解〉

出典は竹西寛子の小説「五十鈴川の鴨」。

前書き。「私」には、ある企業セミナーで知り合い、親しくなった「岸部悠二」という友人がいた。「私」のもとに、「岸部」の会社の同僚であったという「香田」と名乗る女性から、「岸部」の伝言を預かっているので直接会って伝えたいと電話がある。念のため「岸部」の会社に電話すると、半年前から国外にある同系列の別会社に移籍したことがわかった。その後「岸部」との付き合いを回想してみると、彼の家族のこと等をあまり知らされていなかったことに思い至る。(以下、場面や話題の区切りで、1️⃣から8️⃣に分けておいた)。

1️⃣ 応接室の女性は、私を見るとすぐに椅子から起ち上がり、礼儀正しいお辞儀をした。地味な羽織だったので、年齢をいくらか高くみたかもしれないが、妻と大差なさそうな気がした。女客は改めて香田と名乗り、岸部が急病で亡くなって四十九日が過ぎたことを告げると、こう続けた。

「病院で最後にお話できた時、いつか機会があったら、あなた様に、六月十九日はよい日でした。ありがとうと伝えてほしいと言われました。それだけですがと念を押すと、それだけで分かる。と、やっと聞き取れるようなお声でした」
突然告げられた事の内容に、私は咽喉元に掌を当てられたようになっていた。岸部は外地に転勤じゃなかったのか。急病とはどういう状態だったのか。彼はなぜあなたに託けたのか。それも自分の筆蹟ではなく口伝えで。矢継早に訪ねたいことはあるのに言葉にならず、私は専ら岸部の伝言に縋りつくようにしてその日を辿った。「岸部が亡くなった‥‥」。やっと言葉が出た。「六月十九日には、二人は神宮へ行きました。一昨年の夏ですが‥‥」

私は目の前の顔から次第に目を落としながらのろのろと言葉をつないだが、実際は宙に向かって呟いていた。

2️⃣ 森の奥深さも、伊勢神宮ほどの規模になると、森ではないもので迫ってくる。あの日の神宮の森もそうだった。宇治橋をみなまでは渡らず、初夏の風が運ぶ生木の匂いのなかにいて、静かな瀬音を立て続ける五十鈴川のさざ波を、欄干から身を乗り出すようにして見入っていた岸部の姿が浮かんだ。緩やかな階段上の石畳が、両岸の森の緑を映す川面に幅広く延び出している内宮の御手洗場で、石畳を洗う清流を前に、「いいなあ」と小さく呻くように言った岸部の、薄いジャケット姿が浮かんだ。葉の繁りを競い合っている近くの樹々の木洩れ日の下で、霧のかかった小暗い森の彼方からの水が、白と緋の鯉の背を見せたり隠したりしていた。まわりのほとんどが不明であるのに、そこだけは確かなものとして私は岸部の姿を追い続けた。

「岸部は、あの日のことをそう言ってくれましたか」

沈黙を破ったのは私のほうだった。たまにしか会わない相手であってみれば、突然伝えられた訃報も、物を隔ててしか届いてこないもどかしさもありながら、「記憶に確実に届いた彼の託けによって、何かに縛りつけられていく自分がいた」(傍線部(1))。

3️⃣ 四日市でのセミナー開催を知った時、神宮の境内に岸辺を誘ってみようかと思った。一緒に行くのを嫌がるような男ではないから、お前も同道しないかと妻に言ってみたが、滅多にないことですからお二人でゆっくりしていらしたらと言ってくれた。予め岸部に電話をして意向を聞いてみた。大学の研究室にいた頃、唯一神明造りの勉強に行って以来だと乗り気の返事をした。

東京に生まれて、明治神宮の境内にさえ入っていない者が、伊勢神宮に人を誘うのもおかしな話ではある。しかし私にとっての神宮の境内は、申し訳ないけれどもある時以来、一度ならずそうであったように、穢れの粘りで袋小路に追い込まれた自分が助けを求める二つとない環境であった。職業上の理由からだけではなく、光と風、土と水、それに生物との調和を考えの基本として然るべき者に、右に左に意味づけられた不調和の国土は、どのように説明されても嘆きの対象でしかない。そこで言い訳を言い訳とも気づかず重ねて、他人の批判に憂き身をやつし始める先は決まって袋小路であった。
神宮の境内は、初めも終りもない空間である。その空間がそのまま時間としても感じられるところにあえて自分を放り出す。これが原始の静寂かと無防備に身を軽くする折もあれば、生々のあまりに瑞々しい色と香に息苦しくなる時もある。空に昇る。流れの底に沈む。空が空であるのは、流れが流れであるのはと稚い図式を幾度も中空に描く。このように深々と守られた森と潤いの大地にあってこその運行の大調和が、荘重の恩恵をもってつつしみと畏怖を教える。私一個、何程のものか。その結果、右に左に意味づけられた不調和の国土で、これから先どう生きていけばよいのか、かすかではあってもその都度の曙光に蘇った。境内の大調和は、複雑精妙な変相で私を刺激した。
…丸柱が高床を支えている萱葺屋根の苔や、立ち並ぶ老杉の苔に、度々声にならない声をあげているように見えた岸部も、宇治橋や御手洗場での彼同様、あの日をよろこんでいる彼の姿だったのだと思いたかった。そう思うことで予期せぬ動揺に耐えていた。

淡い交わりだった。それだけに岸部の「ありがとう」は身にしみた。

4️⃣「海外赴任と聞きましたが、違っていましたか。今ご遺族はどちらに」。直接、岸部との間柄を相手にただすのは憚られたので遠回りした。今度は相手が私から目を伏せた。

「もうお目にかかる時もないと存じますので」。そう言ってから、半年前カイロに赴任した岸部が、着任早々の体調異変で帰国するとそのまま入院したことから話し始めた。岸部には、原因不明の発熱と病名のつかない症状が続いた。入退院が繰り返された。同じ社にいた私が早く退社していたのは、好きになった岸部がどうしても結婚に同意してくれないので、毎日近くに居ながら近づけなかった辛さのためだという。遠ざかるつもりであったのに結局近まわりに居ついて、さぞ迷惑されたと思うが、他人を通したおかげでこういう大事なお使いにも立てたと自分を慰めてもいる。湿り気のない話し方に香田という女性がいた。

5️⃣「岸部は又どうして頑なに‥‥」と言いかけてから、あまりにもくだらない問いかけをした「自分」(傍線部ア)にがっかりした。岸部さんは神経のこまやかな、やさしい、聡明なひとなのに、肝腎なところにはいつも煙幕を張ってその中から出ようとされないのが辛かった。お別れするにしても、せめて少しでも「自分」(傍線部イ)で納得できる言葉がほしかったので、今思えば愚かな質問で責めたてた。…

ある晩、岸部は、理解を求めるのは無理だと思うがと前置きして、「自分」(傍線部ウ)は広島の被爆者で、あの日に家族全員と家を同時に失ったのだと初めて話してくれた。自分が時々会社を休むのは病名のつかない症状のためで、社会人になるまでも、なってからも、お世話になった医師や病院の数は少々ではない。…臆病者、意気地なしと言われても、僕のような人生は僕一人で終わりにしたい。結婚して仕合わせな家庭をつくり、子孫に恵まれている被爆者も大勢いる。無事への夢に生きるのが人間らしい進み方だと思う。けれども自分は疾うにその勇気を失った。不安の暗さが夢の明るさを食べてしまった。我儘かもしれないが僕だけの一生で終わらせてほしい。もう二度とこの話はしたくない。…

「闇に突き落とされたような恐ろしい夜でした。近くにいながら途方もない遠さにあの人を連れ去ったものを憎みました。しかし本当の岸部さんの苦しさにはとても近づけないことも知らされました。…あの晩、自分を無くするか、それとも別姓の人になったつもりで生き抜くか、どちらにしようかと迷った時期もあるとも言われました。せめて別姓の人になったつもりで、とうかがった時、岸部さんの煙幕は、ご自分が被爆者であるのを隠せるだけ隠そうとされたのではなく、「ご自分に生き続けるための勇気を与えるための手段だったのかと思いいたりました」(傍線部(2))」

6️⃣ 岸部が口を噤み、介入をしりぞけ、私も追わなかったあのことこのことが、女客によって次々に明るみに引き出されるのに私は言葉を挟む余地もなかった。そこまで思い詰めなくても、というのは無責任な発言で、血の濃い肉親と生家を、同時に失った中学生のそれからの時間の凄さに、及びもつかぬ想像で何が言えるだろう。同じ年頃で、戦災から近郊に逃れた私は、屋根は失ったが、まだ家族がいた。…残されている幸福の賭けよりも、自分の災いが他に及ぶ、危険の防ぎへの賭けを先行させたからといって、それをあげつらう権利が誰にあろう。岸部よ、私は君との淡い交わりにこそ、君の受けた不当な衝撃の鋭い深さを、何人も立ち入れぬ君の肉親との絆の強さを思うべきなのか。

その時急に私が寒気を感じたのは、鮮明に湧き上がってきた六月十九日の、もう一つの景色のためであった。

7️⃣ 内宮の参拝を終えたあの日の二人は、宇治橋から浦田橋の方に向かって並ぶ商店の道に出て、一軒の茶店に入った。…茶店の硝子窓越しに、眼下で五十鈴川の流れが小刻みに光っているのが見えた。ふと上手から下ってくる水鳥の動きがあって、近づいたのを見ると鴨の一群れである。美事な金属緑色に白い輪の頭頸を立てた雄鴨が、太めの鶉のような雌の鴨との間に三匹の幼鳥を従えて、用ありげに浦田橋の方へ泳いで行った。二人は顔を見合わせて微笑んだ。練切りの甘みを抹茶の苦味で洗った。どちらも黙ったまま流れの方を見遣っていた。

いっときして、先刻の鴨が、列を崩さず又上ってきた。親子の鴨なのかどうかは分からない。だが一群れを目にした途端に私は親子だと思い込んでいた。
「戻ってきた」。先に口にしたのは岸部だった。私は無言で相槌を打ち、窓硝子に顔を寄せた。
「いいなあ」(波線部A)。必ずしも同意を求めていない岸部のこの「いいなあ」は、御手洗場のそれと同じだった。

「いいなあ」(波線部B)と合わせていた。茶店に誘ったのはこちらだった。鴨の親子に出会えるなど僥倖だとさえ思った。岸部もこの景色は気に入ったらしい。私は内心得意だった。しかし女客に、この得意は砕かれた。寒気が散った。僥倖が無意識の残酷にもなり得るのを、六月十九日の私はかなしいかなまだ気づいていなかった。「五十鈴川の鴨ことを、女客には言えなかった」(傍線部(3))。

8️⃣「私の役目は終わりました。もうお目にかかることもないと存じます。あなた様、どうぞお元気にお過ごし下さいませ」

去って行く女客の後ろ姿に、岸部とのあり得たかもしれない人生を思った。恐らく彼は、この女性に看取られて逝ったのであろう。一人の岸部が生きたということは、十人の岸部が、いや百人の岸部が生きているということでもある。「女客を送り出すと、私はそのまま社の外に出た。歩きたかった。歩かずにはいられない気持だった」(傍線部(4))。途中で冬の背広を脱ぎ、腕に掛けた。目的の場所もないのに、信号の待ち時間に苛立った。
 

問一「記憶に確実に届いた彼の託けによって、何か縛りつけられていく自分がいた」とある。「何か」の内容を本文中の言葉を用いて説明せよ。(二行)

心情説明問題。これを「六月十九日の〜の思い出」としたところで、一、二点を拾いにいくものでもない限り、何の意味もないだろう。ここで「私」が六月十九日を回想しているのは当たり前の筋である。そこに筆者は「何かに縛りつけられていく自分がいた」という記述(仕掛け)をあえて重ねたのだ。その「何か」とは、というのが問いである。それは明示されていない、どうとでも取れる、ならば大枠で示すしかない。甘えるな、と言いたい。ここに、現状の現代文受験指導の限界が露呈していると言えまいか。

手がかりは2つある。一つは「彼の託け」の内容(A)、もう一つはAを承けた「私」の思念の展開(B)、その両者の交点に「(私=Bを縛りつけていく)何か」は摘出されるのである。Aは、香田を介した岸部の伝言「六月十九日はよい日でした。ありがとう(と伝えてほしい)」である。六月十九日は「私」の方から岸部を誘い神宮(伊勢神宮)にお参りした日である。

このAの「よい日でした」をフックにすると、傍線部の前部(2️⃣)、五十鈴川のさざ波を欄干から見入っていた岸辺が「いいなあ」と小さく呻くように言った、という記述が引っかかる。そして、傍線部の後部(3️⃣)では岸部を神宮に誘った経緯と「私」にとっての神宮の意味が語られるが、その3️⃣の締めに「立ち並ぶ老杉の苔に、度々声にならない声をあげているように見えた岸部も、宇治橋や御手洗場での彼同様(2️⃣)、あの日をよろこんでいる彼の姿だったのだと思いたかった。そう思うことで、予期せぬ動揺に耐えていた。…それだけに岸部の「ありがとう」は身にしみた」という記述がくる。これらを踏まえるならば、「私は岸部の突然の死の知らせに動揺する→それは岸部の託け(A)と同時に伝えられた→その託けの「よい日でした」が六月十九日の岸部の呻き「いいなあ」と重なった→この連想にこだわる(=「縛りつけられていく」)ことで自身の動揺に耐えている」という心の動き(B)が浮かび上がってくる。

こうした見方の妥当性は、本文全体を見渡すことで確信される。実はこの3️⃣の場面の回想では、「私」は岸部の「いいなあ」という呻きの「真実」に触れていない。それは香田の告白(5️⃣ 6️⃣)を経て初めて、明らかになるものであった。つまり、7️⃣の茶店でのもう一つの岸田の「いいなあ」、鴨の「親子」への「いいなあ」は、原爆で家族と生家を失った岸田の心の空白を表していた、と「私」は思い至るのである。ならば、この「いいなあ」は本文を貫くテーマであり、それを別場面の2️⃣であらかじめ伏線として示し、傍線部で「託け=よい日でした=いいなあ」と重ね、その意味するところに「私」はこだわったと見なせる。こうした見方は十分に蓋然性を保障するものであり、よって小説問題の解釈として採用するに足るのである。

〈GV解答例〉

岸部の「六月十九日はよい日でした」という託けと対応する、当日、伊勢神宮で「いいなあ」と岸部が呻くように言った言葉の意味。(60)

〈参考 S台解答例〉

伊勢神宮に行ったことが、私には鮮明な思い出ではなかったが、岸部には一生忘れられない貴重な思い出としてあったという不調和。(62)

〈参考 K塾解答例〉

一昨年の六月十九日に岸部を誘って伊勢神宮に行った思い出。(28)

問二 ア〜ウの「自分」はそれぞれどの人物を指しているか。次の中から選び、記号で答えよ。

〈解〉ーc ーb ーa

問三「ご自分に生き続ける勇気を与えるための手段だったのかと思いいたりました」とある。「香田」という女性がこのように考えたのはなぜか。「香田」と「岸部」との関係をふまえて説明せよ。(二行)

理由説明問題(心情)。何が、「〜勇気を与えるための手段」だったのか。香田にとっての「岸部さんの煙幕」(A)が、である。このAとは具体的に、5️⃣(香田が語る岸部の心理)の内容から「岸部が香田に対して内面を隠すこと」である。また設問要求でもあるが、両者の関係は4️⃣(香田の岸部への気持ち)より、香田は岸部を慕い結婚を望むが、岸部がそれを拒むという関係(B)、である。AとBを合わせて、「岸部を慕い結婚を望む香田に対し/岸部が内面を隠すこと」(A+)となるが、そのA+は「ご自分が被爆者であるのを隠せるだけ隠そうとされたのではなく(C)/ご自分に生き続けるための勇気を与えるための手段だったのか…(傍線部)」というのである。A+からCへのつながりがスムーズなのも確認して、「A+→傍線部(理由の帰着点)」の論理的飛躍を埋めればよい。

その手がかりは5️⃣、岸部が香田に語ったこと「臆病者、意気地なしと言われても、僕のような人生は僕一人で終わりにしたい。…自分は疾うにその勇気を失った。不安の暗さが夢の明るさを食べてしまった。我儘かもしれないが僕だけの一生で終わらせてほしい」にある。ここから得られる香田の気づき(=読者の気づき)は、A+は真実の他者への隠蔽ではなく(C)、実は岸部自身への隠蔽(←「臆病者、意気地なし」)に由来していた、ということである。すなわち、被曝を体験した自身の境遇を直視するのを避けたいとの気持ちに由来していた、そう香田は理解した(D)、だから、A+は「ご自分に生き続ける勇気を与えるための手段だったのか」と香田は思いいたった(傍線部)のである。解答は「A+はDだから」とまとめる。

一つ補足点。香田が「煙幕は岸部が自身に生きる勇気を与える手段だ」と思いいたった直接の契機は「せめて別姓の人になったつもりで、とうかがった時」(傍線直前)であった。別姓の人になる、すなわち自己の半生の記憶を消去して違う人生を生き直すことに対置される(トレードオフ)ほど、岸部の絶望は深いことを、この時香田は直観し「煙幕」の意味を悟ったのである(A+→D→傍線部)。こう辿ることで傍線部までの香田の心理が矛盾なく理解されるであろう。

〈GV解答例〉

岸部を慕い結婚を望む香田に対し、岸部が内面を隠すのは、被爆を体験した自身の境遇を直視するのを避けるためだと気づいたから。(60)

〈参考 S台解答例〉

岸部が香田との結婚を拒んだのは、被曝を隠すためではなく、悲惨な過去と決別し、別人になったつもりで生きるためであったと考えたから。(64)

〈参考 K塾解答例〉

岸部との結婚まで考えていた香田には、彼が被爆者としての自分を認めないことでしか生きられなかったのだと思われたから。(57)

問四 A「いいなあ」とB「いいなあ」について次の問いに答えよ。

1 AとBの発言者をそれぞれ答えよ。

〈解〉Aー岸部 Bー私

2 AとBとの違いを本文中の言葉を用いて説明せよ。(三行)

心情説明問題(対比)。状況(S)を正確に把握した上で、AとBそれぞれの直後の記述を参考に、対比的にまとめればよい。まず状況としては、茶店から「私」と岸部の二人で窓から五十鈴川を見下ろしていた時、先刻川を下っていった親子と思わせる鴨の群れが、再び二人の視界に戻ってきた(S)、というものである。このSに対し、まず岸辺が、必ずしも同意を求めるわけでなく「いいなあ」(A)とつぶやいた。この独り言のような「いいなあ」は、原爆で家族を失った境遇を岸部が重ねて感慨を吐露したものだと、香田の話を聞いた「現在」において語り手(と読者)は理解できる。

これに対して「私」は「いいなあ」(B)と合わせていた。これは咄嗟の相槌であり、回想の時間の内部では当然、岸部の「いいなあ」の意味するところは理解されていない。以上から「Aは/原曝で家族を失った岸部が/親子と思わせる鴨の群れが戻ってきたのに自身を重ね/同意を求めるでもなく感慨を吐露したものだが//Bは/それと知らずに私が相槌を打ったものである」とまとめられる。

ここで注意しなければならないのは、「「いいなあ」と合わせていた」の後の記述「茶店に誘ったのはこちらだった。鴨の親子に出会えるなど僥倖だとさえ思った。岸部もこの景色は気に入ったらしい。私は内心得意だった」は解答に含めてはならないということだ。これは、Bの咄嗟の「いいなあ」から派生して現れた筆者の心理であるから、「いいなあ」と合わせていた、それと同時の心情としては認められないのである。こういった誤りはよくあるが、「後出しジャンケンの誤謬」と言うことにしている(→SK)。

〈GV解答例〉

Aは、原曝で家族を失った岸部が、親子と思わせる鴨の群れが戻ってきたのに自身を重ね、同意を求めるでもなく感慨を吐露したものだが、Bは、それと知らずに私が思わず相槌を打ったものである。(90)

〈参考 S台解答例〉

鴨の親子を見て、Aでは原爆で家族を失い、家族を持つことへの諦めと憧れの気持ちから出た独り言だが、BはAが鴨の親子に偶然出会えたことを喜んだ言葉だと思い、それに思わず反応し、同意したものである。(96)

〈参考 K塾解答例〉

鴨の親子を偶然目にして、Aは家族を失いまた家族を持つことを断念した岸部が複雑な思いで発した言葉であるが、Bはそれを単に僥倖だと思った「私」が得意げに発した言葉である。(81)

問五「五十鈴川の鴨のことを、女客には言えなかった」とある。「私」が「五十鈴川の鴨」のことを「香田」に言えなかったのはなぜか。60字以内で説明せよ。

理由説明問題(心情)。前問の「後出しジャンケンの誤謬」に嵌らなかったら素直に解答できる。波線部Bから傍線部(3)に至る間の記述「茶店に誘ったのはこちらだった。鴨の親子に出会えるなど僥倖だとさえ思った。岸部もこの景色は気に入ったらしい。私は内心得意だった。しかし女客に、この得意は砕かれた。寒気が散った。僥倖が無意識の残酷にもなり得るのを、六月十九日の私はかなしいかなまだ気づいていなかった」を踏まえるとよい。ここでの「残酷」は、回想の時間の内部で「私」が「僥倖」と思った鴨の親子との出会いは、原爆で家族を亡くした岸部にとって「残酷」だった、ということである。そのことに香田と対面した「現在」、岸部の苦悩を聞かされて「私」は初めて、思い至る。それなのに「私」は当時、岸部によいことをしたと得意になっていたのである。ここにある「私」の心情とは、岸部への申し訳なさであり、その岸部を慕った香田への恥じらいしかなかろう。「香田に言えなかった理由」なら、「五十鈴川の鴨に深い感慨を抱いた岸部の気持ちに気づかずに/茶店に誘った自分を内心誇ったことを/岸部を慕う香田に恥じたから」となる。

SとKは典型的な誤答例。前問との解答根拠の仕分けに失敗していることが誤答の遠因となっている。まず本文にある、神宮での岸部への「残酷」を「現在」の香田への「残酷」としている点が救いようもない。本文の言葉を闇雲に解答に盛り込もうとする悪しき慣習からきているのか。香田は身を狂わせる苦悩を通過して「私」の前にいる。その香田に、仮に茶店の話を付け加えたところで、今更「残酷」でも何でもない。こうした解釈は皮層すぎるし、作品に真っ向から対峙するという気概と敬意を欠いたものではなかろうか。

〈GV解答例〉

五十鈴川の鴨に深い感慨を抱いた岸部の気持ちに気づかずに、茶店に誘った自分を内心誇ったことを、岸部を慕う香田に恥じたから。(60)

〈参考 S台解答例〉

岸部が鴨の親子を見て「いいなあ」と言ったことを、心から結婚を望んでいたのに、それを拒まれた香田に告げるのは残酷だから。(59)

〈参考 K塾解答例〉

岸部が鴨の親子を見て「いいなあ」と言ったことを、岸部と家族になれなかった香田に話すのは残酷であると思われたから。(56)

問六「女客を送り出すと、私はそのまま社の外に出た。歩きたかった。歩かずにはいられない気持だった」とある。「私」が「歩かずにはいられない気持」になった理由を本文中の言葉を用いて説明せよ。(四行)

理由説明問題(心情)。難問である。手がかりとしては傍線部直前の「去って行く女客の後ろ姿に、岸部とのあり得たかもしれない人生を思った。恐らく彼は、この女性に看取られて逝ったのであろう。一人の岸部が生きたということは、十人の岸部が、いや百人の岸部が生きているということでもある」を踏まえる。もちろん、筆者には岸部を突然に失った喪失感がある。しかし一方で、その岸部が香田の中に生きているように、亡くなった者は、それと関わった者に何らかの痕跡を残してまさに生き続けている。「私」の中にも当然、岸部は色濃く影を落とし生きているのである。ここまでの理解が一つ。

ただ、この喪失感と岸部が自身の中に生きているという実感から「歩かずにいられない」にうまくつながらない。岸部へのいたたまれない思い、やるせなさを歩くことによって紛らわせようとする向きもあるかもしれない。しかし一方で、「歩くこと」を「私」に切迫してくるようなより本質的な理由が「私」の内的傾向として隠れているのではないか。傍線部直後、本文を締める「途中で冬の背広を脱ぎ、腕に掛けた。目的の場所もないのに、信号の待ち時間に苛立った」(A)という記述が示唆的である。ここには、いたたまれなさややるせなさでは表現できない、「私」から湧き上がる情念、「不調和」への苛立ちと「大調和」への希求が重ねられるているのではないか(→3️⃣)。

2️⃣ 3️⃣の場面は、香田を介した岸部の託けに促されて六月十九日の神宮参りを回想するところであるが、特に3️⃣では広いスペースを使って「私」における神宮(伊勢神宮)の意味が象徴的に述べられる。「神宮の境内は、初めも終りもない空間である。その空間がそのまま時間としても感じられるところにあえて自分を放り出す。…深々と守られた森と潤いの大地にあってこその運行の大調和が、荘重の恩恵をもってつつしみと畏怖を教える。私一個、何程のものか。その結果、右に左に意味づけられた不調和の国土で、これから先どう生きていけばよいのか、かすかではあってもその都度の曙光に蘇った。境内の大調和は、複雑精妙な変相で私を刺激した」。もちろん、神宮の空間と時間に自分を放り出すことと、社の外に出て歩くことでは神聖さにおいて比較にならないだろう。しかし「信号の待ち時間(不調和)に苛立ち/目的もなく/冬の背広を脱ぎたくなるほど激しく歩く(→調和)」(A)さまは、神宮を何度も訪れ運行の調和を感受し、「これから先どう生きていけばよいのか」の手がかりを探ろうとする「私」の構えに重なるものではないだろうか。こう理解することで、逆に3️⃣において「私」個人の神宮への思い入れが広いスペースを割いて述べられたことも納得されるのである。

以上の理解をフローチャート化すると「岸部を失った喪失感→しかし岸部は香田をはじめ関わった者の記憶に生きる→私の中にも生きている→その岸部と神宮を歩いた時のように/外気に触れ自然との調和を取り戻す→これから先どう生きていけばよいのかについての手がかりを得ようとした(→歩かずにはいられない)」となる。これを一文でまとめて仕上げとする。

〈GV解答例〉

岸部を失った喪失感を抱えながら、彼が生きたことは関わった者の記憶に残り、自身の中にも生きていると感じ、神宮を二人で歩いた時のように外気に触れ自然との調和を取り戻すことで、これからどう生きていけばよいのかについての手がかりを得ようとしたから。(120)

〈参考 S台解答例〉

岸部の突然の訃報に加え、岸部との結婚を望みながらも叶わなかった香田と、被曝体験を抱え家族を持つことを諦めて一人で生きざるを得なかった岸部の不幸な人生から、思うままに生きられない人生を生み出した原爆の残酷さを思い、やりきれない気持ちになったから。(122)

〈参考 K塾解答例〉

今まで知らなかった被爆者としての岸部の苦悩や、彼とは結婚できなかったものの最期を看取った香田の苦悩を知るにつけ、ままにならない人生にしみじみとした感慨を抱くとともにいたたまれない気持ちになったから。(99)