〈本文理解〉

出典は菅香子『共同体のかたち』(2017)。同年の広島大学第一問も同じ出典の別箇所からの出題であった。

①②段落。(2011年、ヴェネチア「塩の館」でのアンゼム・キーファーの《地の塩》という作品の展示。吊り下げられた鉛板には、風景を写し出した写真が貼りつけられたという。そこには、いかなる「風景」も見当たらない。写真が貼りつけられていたことさえ分からなくなっている)。

③~⑥段落。一枚一枚の板は、それぞれに刻一刻と変化していく。空気にさらされ、物質的な変化にさらされ、そのさらされることによって形成された何ものかは、展示されることによって今度は「作品」としてわたしたちの視線にさらされている。「いつから作品はこういうものになったのだろう」(傍線部(1))。こうした作品を何と呼べばいいのだろうか。それはかつての作品のように永遠を想定したものであるとは言えまい。これは「露呈=展示」そのものと言うべきではないか。「展示=エクスポジション」そのものによって、作品が作品として成り立っている。《地の塩》にかぎらず、芸術作品はいま、このような「エクスポジション」として自らを現しはじめているのではないか。

⑦⑧段落。作品を展覧会で鑑賞するというのは近代になって始まった習慣である。それまで、絵画や彫刻は権勢のある人々の館といった特定の空間に設置されて特定の役割を果たしていたり、コレクターによって個人的に所蔵されたりしていた。一般の人々に向けて作品が展示されることは、ある時代に生み出されたひとつの制度なのだ。美術館の誕生以前にも作品はつねに「見られること」を前提にして作られてきたのではあるが、「美術館という制度」(傍線部(2))ができてからは、特に、あらゆる人に対して展示されることが前提とされるようになったといえるだろう。わたしたちは「エクスポジション」を作品が展示される単なる場所と考えてしまう。だが、いま、「エクスポジション」そのものが芸術作品のあり方に根本的な意味を持つようになっているのではないだろうか。

⑨~⑫段落。これまで芸術作品は基本的に「表象」としてとらえられてきた。何らかの出来事や誰かを記憶にとどめるため、のちの時代に語り継ぐため、出来事を説明し意味を与えるため、死者を弔うためなどに用いられてきた。芸術に与えられていたのは、表象するという役割、イメージを作り出すという役割だったと言える。ところが、20世紀の半ば頃から、何かを表象するということが芸術の役割ではなくなったのではないか。何かを表象するものではなくなった芸術作品は、単に「b(展示)=エクスポジション」されるだけではなく、何ものかを「エクスポジション=a(露呈)、呈示」するものへと変わっていったと言えないだろうか。

⑬~⑮段落。そう考えさせるのは、現代哲学のひとつの傾向、とりわけマルティン・ハイデガー以降の共同体をめぐる思考の展開である。「なぜ芸術が共同体をめぐる問いと関係するのか」(傍線部(3))。それは芸術作品の根本的なあり方に関係している。作品は見られることを前提として作られる。つまり、作り手以外の誰かを前提として作られる。だから、芸術作品は共同性と根源的なつながりを持っており、根本的に共同的な何かであり、わたしたちの共同的関係の結節点なのだ。芸術のイメージはそれを見る人々に見るという経験を共有させ、人々を結びつける。表象されたイメージは共同体を支えるものとして機能したり、共同体がイメージを手がかりにひとつの実体として想定されてきたりしたのである。そうであるとすれば、イメージが表象からエクスポジションへと転換したことも、人間の共同存在としてのあり方に関係しているのではないか。

⑯段落。共同体についての考えに目を向けてみると、これが20世紀の前半から大きな課題となってきたものであることが分かる。ハイデガーは、人は、ひとりで存在するのではなく、つねに「共に」存在するということ、だから、存在は必然的に「共存在」であるということを強調して、共同性の問いを存在論にまで深めた。「共存在」は、存在の前提条件としてのあり方だ。「存在することのうちに、共同性はすでに生起している」(傍線部(4))。だから、共同体とは、作られる手前に、つねに、「共にある」というかたちで、わたしたちの個的存在を基礎づけている。

⑰段落。ジャン=リュック・ナンシーは、存在を分かち合うことに人間の根源的な共同性を見出した。人間は有限、つまり、死にゆく存在である。その死は、自分以外の誰かに受けとめられることによってしか成立しない。死という出来事は共同で成し遂げられる出来事であり、共同性の唯一の生起なのだ。「死を契機として、わたしたちの共同性が露呈される」(傍線部(5))。そして、この共同性の露呈とは、わたしたちが有限であることの露呈以外のなにものでもない。そのようにして、共同性を問う思考のなかに「エクスポジション(露呈)」のテーマが引き出されたのである。

〈設問解説〉問一 (漢字)

ア なまり イ 洗濯 ウ すきま エ 眺 オ おお(われ) カ 刻一刻 キ たた(み) ク 権勢 コ とむら(う)

問二 「いつから作品はこういうものになったのだろう」(傍線部(1))とあるが、「こういうもの」とはどのようなものか、「変化」「視線」の二語を必ず用いて簡潔に説明しなさい。

内容説明問題。「こういうもの/になった」だから、「かつて(X)」と対比して「こういうもの(Y)」を明確化する。すると、傍線の3文後より「かつての作品のように/永遠を想定したもの(X)」とあるから、Yは指定用語を使い「「変化」するもの」という線で決まる。どう「変化」するかは、③段落より「空気にさらされ物質的に変化して形成された/(さらに)展示されわたしたちの「視線」にさらされながら変化を続ける」という内容でまとめる。

<GV解答例>
外界との交渉を重ねて形成された上、展示され見る者の視線にさらされることで、さらなる変化を続けるもの。(50)

<参考 S台解答例>
何かの表象として普遍性を持つものではなく、物質そのものの不可逆性に変化していくさまが展示されることによって一般の人々の視線にさらされているもの。(72)

<参考 K塾解答例>
時の経過とともに変化し形成されてきたものが、見る者の視線にさらされることで「芸術作品」となっているもの。(52)

問三 「美術館という制度」(傍線部(2))とあるが、これはどのような制度か、簡潔に説明しなさい。

内容説明問題。⑦⑧段落より、「美術館以前(X)」と対比しながら「美術館という制度(Y)」をまとめる。X「権勢のある人々/館といった特定の空間/特定の役割」なら、Y「一般の人々/開かれた場所に展示/A」と整理できる。Aついて直接的な記述はないが、Xとの対比で「見る人が独自の鑑賞・体験をする」と導いた。また「近代になって始まった習慣」(⑦)という要素も加える。

<GV解答例>
そこを訪れた人が、展示された作品を通して独自の体験を享受できる、一般の人に常に開かれた近代的な制度。(50)

<参考 S台解答例>
特定の場や人に所属する作品を展示し、一般の人々が鑑賞できる近代の制度。(35)

<参考 K塾解答例>
公共の場を設け、そこで芸術作品を一般の市民に公開するという近代的な制度。(36)

問四 (空所補充)

a 露呈 b 展示

問五 「なぜ芸術が共同体をめぐる問いと関係するのか」(傍線部(3))とあるが、この問いに対する答えとして本文中に述べられていた内容を、50字以上60字以内にまとめなさい。

理由説明問題。「本文中に述べられていた内容」という限定があるので、本文に明示される直接的な理由の指摘に留める。具体的には、傍線のある⑭段落と⑮段落に解答を求め、⑯⑰段落の「共同体をめぐる問い」の中身についての言及は避ける。ならば、傍線次文「それは芸術作品の根本的なあり方に関係している」とあり、その「根本的なあり方」とは「見られることを前提として作られる(A)」(⑭)ということである。だから「芸術作品は…共同的関係の結節点」(B)と続き、これ(B)が「芸術と共同性(をめぐる問い)が関係する理由」となる。また⑮段落より、「イメージはそれを見る人々に見るという経験を共有させ、人々を結びつける(C)」を拾い、Bの説明として加える。以上より、「芸術作品は(S)/Aであり/Cという点で/Bだから(→共同性と関係がある(G))」と解答を構成する。

<GV解答例>
芸術作品は、見られることを前提として作られ、見る人々にイメージを共有させる点で、共同的関係の結節点になりうるものだから。(60)

<参考 S台解答例>
芸術作品は見られることによって一つのイメージとして人々に共有され、共同体を支え実体を与えるものとして機能するから。(57)

<参考 K塾解答例>
見られることを前提として作られる芸術作品は、それを見る人々に経験を共有させ、人々を結びつけるはたらきを必然的にもつから。(60)

問六 「存在することのうちに、共同性はすでに生起している」(傍線部(4))とあるが、これはどういうことか。「共同体」と「個」の関係を明確にしつつ説明しなさい。

内容説明問題。「共同体」と「個」の関係を明確にしつつ、説明する。まず傍線直前の「「共存在」は、存在の前提条件となるあり方だ」という内容を傍線の前提として加える。つまり、「人は起点において他者と共に存在する(←「共存在」)以上~」として、傍線につなぐ。それで傍線内容だが、「存在のうちに/共同性がすでに生起している」とはどういう事態か。

ポイントは、⑮段落の「イメージ」と「エクスポジション(露呈)」である。⑮段落より、共同体を支えるもの、それを実体として意識させるものは、芸術などに表象される「イメージ」であった。ただし、芸術の新たな潮流の上で、その「イメージ」は意図して「表象」されたものから、事後的に「露呈」するものになっている。それは、ハイデガー以降(それはジャン=リュック・ナンシーに引き継がれる(←⑰))の共同性の議論(⑯)ともパラレルである、というのが筆者の論点。まとめると、人は起点において他者と共に存在する(共同体の内にある)わけだから、その個体の中には共同体に共有されるイメージが刷り込まれており、それが露呈(←生起)している、ということになる。

<GV解答例>
人は起点において他者と共に存在する以上、共同体の共有するイメージが個的存在に露呈しているということ。(50)

<参考 S台解答例>
人は個として一人で存在することはできず、はじめから常に共同体と共にあるというかたちで存在するということ。(52)

<参考 K塾解答例>
個々の主体的存在が集まって共同体が作られるのではなく、共に存在しているという事態がつねにあらかじめ生じており、そのなかで個々の存在は捉え返されるのだということ。(80)

問七 「死を契機として、わたしたちの共同性が露呈される」(傍線部(5))とあるが、このことをふまえると、本文冒頭部分で取り上げられていた《地の塩》とはどのような作品として解釈できるか、説明しなさい。

内容説明問題。「解釈」が求められているわけだから、本文の記述を手がかりに論理的に妥当な推論により答えを導く必要がある。最終⑰段、傍線の内容を具体化するところから始める。人は有限であり死にゆく存在であるが、その死という出来事は誰かに受けとめられて、はじめて成立するものである。その意味で、死は有限性の露呈であると共に、共同性の露呈である。

こうした本文の記述に即した理解をふまえて、冒頭の《地の塩》を「解釈」すると、この作品もかつてそこにあった「風景」を写し出した「写真」が、外界との反応にさらされ、そして見る者にさらされ(=露呈)、ゆるやかに消失する「体験」である。まさに、こうした芸術体験を通してそこに立ち会うものは、死にゆくものを送るあり方、そこに露呈する「共同性」を想起するのではないか。「共同性」とは、そこあった写真や生きた風景を想像するように、死にゆく者の生前の姿を想い、記憶に留め、自らの生に引き継いでいくことではなかろうか。死を看取ることと《地の塩》を観ることとの相応性を見抜き、双方を行き来しながら、「共同性」「露呈」を正しく解釈することが肝要であった。

<GV解答例>
生きた風景とそれが切り取られた写真のかすかな痕跡がゆるやかに消失に向かう様を見る者に露呈することで、死にゆく者を前に、その生の姿を想像し、記憶に留め、自らの体験に引き継いでいくあり方を想起させる作品。(100)

<参考 S台解答例>
それぞれの人間存在を示す鉛の板に貼られた写真はその個別性のしるしであり、それが変化の中で見分けられなくなったときに、人間の死が他者の眼に共同性として迫り受けとめられることを示そうとした作品。(95)

<参考 K塾解答例>
空気にさらされ変質していくさまを人目にさらし、それを見る者に経験の共有をもたらす《地の塩》は、人間が死に向かう有限性を共有しているということを露呈した作品になっている。
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