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はじめまして。GVで数学・物理の講師をしております玉城です。軽く自己紹介をしておきますと、開邦高校卒業後、一浪して京都大学理学部に入学。入学後、大学生活というモラトリアムを最大限に活かして?右往左往しまくった結果、入学当初からは想像できない数学とはほとんど関係のない仕事である県庁の行政事務を目指して公務員試験を受けておりました。その傍ら、予備校業務に従事してみたところ、予備校業務が面白すぎて公務員試験の勉強を放り出し、予備校業務に専念しております。最近は、教育業は天職だとさえも思う次第です。そんな私がこれから定期的にブログを書かせていただきます。長文を書いてしまう悪癖がありますゆえ、それを踏まえた上で読んでいただけると幸いです。以下、語尾を「ですます調」から「である調」に変えて書いていきたいと思います。

 

 

いきなりだが、

 

 

我々は なぜ、学ぶのか?
そもそも、学ぶとはどういうことか?

 

 

GVに来た体験生とゆっくり話す時間があるとき、よくこの質問をする。この質問を投げかける意図は、「その生徒がこれからどのような進路を選択し、どのような学びを得ることになるにせよ、そのひとつひとつの選択の先にある学びに対して能動的かつ意識的であってほしい」というところにある。意識的であるというのは、何かを学ぶときにその意味や理由を考え、自らが問いを立て明らかにしようとしているものに対して真摯に向き合っている状態、そしてその状態に自覚的である様とでも定義しておこう。改めて、このように定義しておくのは、沖縄で大学進学を考えることのできる社会的階層の下に生まれた子供たちにおいて、大学進学が余りにも当たり前になり過ぎて、その意味を吟味しないで済む生徒が多くいるからである。実際、多くの生徒はこういう質問をすると途端に口数が少なくなるし、めんどくさい質問だと嫌がるように思われる。予備校講師として、あえて、そのめんどくさい質問をしたいのである。予備校に直接的に期待されている仕事は「生徒の成績を上げて、志望校に合格させること」であろうが、そこに1人の教育者として向かうとき、最初に提示した質問と自ら向き合わざるを得ない。我々は何故学ぶのか?そもそも学ぶとはどのような営みか?そういうことを、このブログを書くという作業を通して今一度考えてみたい。

 

 

沖縄で教育業に携わるようになって、それほどの月日は経っていないが気付いたことがある。自ら問いを立て仲間とともに探求していく空間である「大学」に向かおうというのに、ほとんどの生徒達が自らの中に問いを持っていないのである。あるいは「大学」を就職予備校だと割り切ったとしても、どのような力を培い、就職のために大学を利用するのか、をあまり考えていないように思われる。つまり、「大学進学」が十分に意識的な行為になっていないのである。大学がどのような空間で、どういうことを学生に求めるのか、どの学部に行けばどんなことが学べて、その学びは後々どのようなことに活用できて、どんな将来につながるのか、といったことを突き詰めて考えることなく、大学への道をひたすら走るように急かされていると言ってしまってもいい。とはいえ、これはあまりにも当然のことでもある。高校では、その時点で学んでいることがその後の大学での学びとどのような連関を持ってるかを学ぶ機会はほとんど無く、それがどのような仕事に活きるのかを考える機会も乏しい。そんな中で漠然と大学進学が選択されることが多々ある。学校の先生方に対して文句をつけているわけではない。私が接してきた限りでは、学校の先生方は多くの人が仕事に熱心で生徒想いの大人達だった。そのような熱心な先生方と同じ目線に立ち、いざ生徒達に向き合い、大学に向けて勉強している生徒達の背中を押そうとするときに、私は途端に動けなくなる。自信を持って生徒の背中を押すべき道筋が描けないのだ。教育者が政治家や宗教家のように先導者ではなく、生徒の目指すところに向けて歩みを共にし、可能な限りの手助けをする随伴者であることは自覚する。そうして生徒の目線の先を追おうとしたときに、生徒の方では、どこが前かを見定めることなく走り出そうとしているのだ。というよりも、前を見る暇もないままで走りだすよう煽り立てられているのだ。これでは、背中を押せない。明確な目標設定が無い生徒にとって走り出すべき前など、まだ存在していないのだ。だからこそ、なぜ学ぶのか?と改めて問わざるを得ない。その生徒にとっての学ぶ理由=走る理由であり、学んだ先に描く理想像=ゴールであると思う。ゴールに向けて、生徒を押し出す仕事である教育業に携わる以上は、何故学ぶのか? 学んだ先に何を描くのか?と生徒に問わずにいられるわけがない、というのが私の持論である。

 

 

さてさて、私が好き好んで生徒にぶつける問いである「「学ぶ」とは どのような営みか」、ということについて少し考えてみよう。ここでヒントをもらうために辞書の力を借りてみる。以下の通りである。

 

 

学ぶ《「まねぶ」と同語源》

[動バ五(四)]
1 勉強する。学問をする。「大学で心理学を―・ぶ」「同じ学校で―・んだ仲間」
2 教えを受けたり見習ったりして、知識や技芸を身につける。習得する。「よく―・びよく遊べ」
3 経験することによって知る。「苦労して人間のすばらしさを―・んだ」
4 まねをする。

がく‐もん【学問】

[名](スル)
1 学び習うこと。学校へ通ったり、先生についたり、本を読んだりして、新しい知識を学習すること。また、身につけた知識。「学問のある人」「学問する楽しさ」
2 理論に基づいて体系づけられた知識と研究方法の総称。学。
[補説]中世から近世にかけて「学文」と書くのが一般であり、また、「学門」と書くこともあった。
べん‐きょう〔‐キヤウ〕【勉強】

 

[名](スル)
1 学問や技芸などを学ぶこと。「徹夜で―する」「音楽を―する」
2 物事に精を出すこと。努力すること。
3 経験を積むこと。「今度の仕事はいい―になった」
4 商人が商品を値引きして安く売ること。「思い切って―しておきます」
「何時までもこんな事に―するでもなし」〈福沢・福翁自伝〉
上の結果を勝手に要約すると、学ぶ とは 経験することによって何か新しいことを知る営み と言っていいかもしれない。経験によって得られた具体的な事柄から得られる一般的な法則の積み重ねを理論と呼ぶならば、この理論を自身よりも深く修めた人に直接ついて教えてもらう、あるいは本などを通して教わることも他者の経験による新たな知を間接的に受け取るものであり、広義の学びと言うことができよう。

 

ここで、「学ぶ」という営みは「経験を手掛かりにして、そこから何か新しいことを知ること」と定義しておこう。ひとつ大切なことは 経験する身体が必要なことである。これで、とりあえず「学ぶ」とは、どのような営みかを定義付けた。それでは、何故我々は学ぶのか?もっと言えば、何故学ぶ必要があるのか?何故、新しいことを知る必要があるのか?そもそもより根源的な問いとして 何故我々は知りたいと欲するのか?

 

 

我々は学ぶことによって、何か新しいことを知るわけだが、ある事柄について知っているということは、その事柄が、これからどのように推移していくかについての予測が立てられるということだといえるかもしれない。我々は学ぶことによって 現在起きていることが、これからどのように変容していくかについて 予測を立てることができるようになる。学ぶということの効用は、いわば予測可能性の増大である。事象の推移について予測可能であれば、その先に起こる各々の事象において適切な行動を取ることができる。あくまでも推測だが、学ぶ→予測可能性の増大→場面場面における適切な行動の選択 という流れを身につけた「学ぶ人間」が その他の人間を含む人間集団の中で生存可能性を高め、進化の中で人間という種の集団における「学ぶ人間」の割合を増やしていった、そのうちに人類のほとんどは「学ぶ人間」となっていったのではないだろうか。我々は そもそもこの学ぶという行為を行うように遺伝的にブログラムされているのかもしれない。何故、我々は知りたいと欲するのか、あるいは何か新しいことを知ったときに ある種の快感を覚えるのか という問いに対して、そのように遺伝的にプログラムされているのではないか?という私なりのとりあえずの仮説を出しておく。

 

 

では、現在の我々は個体としての生存可能性を高めるためにどのようなことを学ぶ必要があるのか、ということまで少し考えてみよう。次回のブログでは、そのような学びに対して 教育者の側は一体どういうことをすればよいのかを考えてみたい。我々人類は現代に至るまで途方も無く長い時間をかけて学びを蓄積し、科学技術を発展させ多くの事柄に対する予測可能性を高めてきた。この予測可能性の増大により、それ以前の時代には天災だと思われていたようなことまでも ある程度予測がつくようになった。予測の範囲内に収まるということは、その時々の人々の選択の結果に責任が帰着されるようになる。 ある事柄に対して、選択をするときに その結果がある程度予測可能であるなら、そのどちらかを良いものだと認識し、主体的に選ぶ必要がでてくる。主体的に選んだ上でその結果が個にとって生存可能性を高めるのであれば、それは良い選択だと言えるだろう。ここで良い選択を行う前提となることは以下の三点である。 ①既存の技術を用いて 予測が正確に行えること ②予測される事柄についての評価ができること③その評価のもとで意思決定を行うことができること 。これらを身につけることが我々が現代において生存可能性を高めるために学ぶべきことであるように思われる。①情報収集力②情報分析力③意思決定力とでも読んでおこう。特に重要な力は③の意思決定力であろう。その理由としては、個の生存のための意思決定といえども、人間は社会集団の中に生きており、その集団とともに意思決定を行う必要もあるからだ。多くの場合、この集団は多様な価値観を持つ人々から構成されるし、自身と政治信条、宗教、国籍、セクシャリティ、など様々なものが異なる人も含む。そういった人達と 何が共通の前提として共有できて、何ができないのか、を確認した上でその集団にとって良いこととは何であるか?ということを徹底的に議論し定めていく必要がある。普遍的な価値観が存在しないように思われる以上、その社会集団の中での「良さ」を構築する必要があり、そのための徹底的な議論が必要なのである。そして、他者の意見を受け入れること、自身の思想や文化的な背景を相対化し、客観的に眺めた上で集団における正解を徹底的に作り上げる作業ができて、はじめて評価の軸が定まる。そしてその上で意思決定を行う。繰り返しになるが、こういったことをできるようにすることが必要な学びだと思われる。そして、学びの定義から自然に要請されることとして、これを具体的に経験していく必要がある。多くの情報を収集する作業、異なる背景を持つ人々と接して議論し評価の軸を定める作業、評価の軸に沿って多くの情報から導かれる良い結果を適切に選択する作業、こういったことを具体的に経験していく必要があり、これこそが現在学びの現場で要請される演習であるように思われるのだ。

 

 

以上、学びとはどのような行為で、現在想定される学びとはどういったことであるかということを私なりに大雑把にではあるが、考えてみた。次回の私のブログでは、そのような学びを前提とした場合、学びを支援する行為である教育は何をすべきなのか?ということを考えてみようと思う。その上で、ではグレイトヴォヤージュという予備校はどのような空間であると私が考えているかを説明したい。それでは、今回はここまでとしたい。長々とお付き合いいただき感謝する。