〈本文理解〉

出典は宮野真生子『出逢いのあわい──九鬼周造における存在論理学と邂逅の倫理』
 

問一「自らの生が「無の深淵」に晒されていること」(傍線部(a))について、どういうことか、説明しなさい。(四行)

〈GV解答例〉
日常は一見安定した他者との関係性の中に自分であることを規定しているようで、実は、その自分は他の誰かと交換可能でありながら偶然その関係性の中にあるにすぎず、その日常も脆く崩れやすいものであるということ。(100)
 
〈参考 S台解答例〉
予期せぬ偶然の出来事と遭遇した際、安定しているかに思われた、他者との間柄に規定される日常は、脆く崩れ、間柄によって築いてきた自らの生の意味づけが届かないところで、生のありようが変わって、自己の人生の偶然的な事実性が露呈してしまうということ。(120)
 
〈参考 K塾解答例〉
人は他者との関係のうちに形成される役割を自らの存在価値とすることで安息しているが、そうした日常の生は偶然の事態の発生によって容易に奪われ崩れ去り、自らの存在の無意味さを突き付けられてしまうものだということ。(103)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
人は、日常的には社会的役割や他者との関係の中で安定した生活を築いている。しかし、日常を根底から覆すような偶然事に遭遇したとき、日常の関係性が全く意味だということ、さらに自己が交換可能な存在であることをまざまざと思い知らされるということ。(118)
 
〈参考 T進解答例〉
日常は間柄の「である」の定型的な規定の上に築かれているが、災害や事故などの予期せぬ偶然の出来事に遭遇すると、日常は崩れ去り、「である」という規定は役に立たず、「である」の下に隠れていた、「がある」の偶然的な事実性が露出することで、間柄に基づく生の意味づけが届かない所で生のありようが変わってしまうこと。(151)
 

問二「有りー難い」(傍線部(ア))という語は、一般的な感謝の表現としての「有り難い」とどう異なるのか、本文の趣旨をふまえて説明しなさい。(四行)

〈GV解答例〉
「有り難い」は他者が自らに対して向ける好意の稀さとそれに伴う感謝を表す語だが、「有りー難い」は自己の存在が他でも有りえたという自覚を必然性に反転させ、しかし他ではない私が有るとする意味を表す語である。(100)
 
〈参考 S台解答例〉
偶然事に直面し、自己の交換可能性に気づくことで日常の仮構性を知った人間が、再び日常に戻ったときに気づくことができる、偶然的な存在である人が他者との間柄を築き、日常という安定が成立していることのかけがえのなさや唯一性という意味で、一般的な感謝の表現とは異なる。(129)
 
〈参考 K塾解答例〉
一般には、安定した日常の中で偶然よきことに恵まれた喜びを表すが、本文では、偶然の事態が自己の存在価値の乏しさを顕わにしても、そんな人間たちが築く関係に立ち戻ることで得られる唯一無二のありようを示している。(102)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
「有りー難い」は、偶然事に遭遇して自分もまた偶然の交換可能な存在でしかないと気づいた人が、再び日常に戻ったときに、そのかけがえのなさや他者との関係の中で築いてきた自己の唯一性を知ることであるという点で、感謝の意を述べる「有り難い」とは異なる。(121)
 
〈参考 T進解答例〉
「有り難い」は、他者から主体に向けて示された行為、あるいは配慮に対する、客体への感謝、つまりプラスの意味を表明するのに対して、「有りー難い」は、たとえば「私」の交換可能性に触れながらも、「この私がある」ことの唯一性にたどり着くというような、主体、客体を問わない、事実の希少性への中性的な言及を意味する。(151)
 

問三「だが、それもまた「がある」ことの事実的な偶然性を掴むことではないのか」(傍線部(b))について、このように言えるのはなぜか、説明しなさい。(四行)

〈GV解答例〉
偶然事の露出により不安になりながら日常に戻り私があることの唯一性を感受する当事者と同様、当事者を前に戸惑う非当事者も、両者の関係性を規定する厳然たる偶然性の自覚を介して日常に宿る唯一性に達しうるから。(100)
 
〈参考 S台解答例〉
偶然事の当事者が、自己の交換可能性、偶然性を悟るのと同様、そのような当事者を前にして、非当事者がもつやましさは、一つの間柄を共有している両者の間にある、彼我の落差に気づき、自分の立ち位置が偶然に決まった不当なものではないのかと感じることによって生じるから。(128)
 
〈参考 K塾解答例〉
人も人の関わりも、本来必然的な確かさをもたないため、互いに関わり合う者たちの誰が否定的な事態に見舞われるかはあくまで偶然である以上、それに遭遇しなかった者が自らを咎めるような思いを抱くことは避けられないから。(104)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
災難に遭遇した当事者に対し、災難を免れて安定した日常を享受できる人々は、偶然に非当事者であったということに一種の後ろめたさを感じるしかない。しかし、そう感じる自分もまた、他者とは交換不可能な唯一の存在だという事実にも気づくことができるということ。(123)
 
〈参考 T進解答例〉
特にネガティブな偶然事に遭遇し、「がある」の交換可能性に曝されながら、日常の「有りー難さ」に戻ろうとする人と同じなのだが、そうした病や災害に会っていない非当事者は、当事者に対しある種の「やましさ」を感じるが、それは当事者との立場の落差に、「がある」ことの偶然性の刻印を眼前に確認することでもあるから。(150)
 

問四「だが、それこそが、他者への理解を安易に表明することなく、真摯に他者と向き合うということではないのか」(傍線部(c))について、なぜ安易に他者への理解を表明するべきでないのか、本文の趣旨をふまえて説明しなさい。(四行)

〈GV解答例〉
他者との関係性は所与ではなく、偶然的でそれゆえ唯一的な存在である人々が積み上げてきた、不安定でかけがえのないものである以上、他者への接近は互いの偶然性を前提とした持続的で全人的な努力を必要とするから。(100)
 
〈参考 S台解答例〉
安易に他者への理解を表明することは、非当事者が偶然事に苦しむ当事者と一つの間柄を共有しつつ、互いが事実的偶然性で隔てられていることを知り、無力感と解消不可能なやましさをもち、戸惑うばかりでありながらも、自己存在の事実的偶然性に気づき、逃げ場なしの状態で他者と関わるという、倫理の具体的な形を放棄することになるから。(157)
 
〈参考 K塾解答例〉
互いの関係について合理的な説明ができない関係でありながら、相手に生じた悲劇的な事態を受け止めきれず途方に暮れるにしても、その過酷さに耐えて相手と関わり合うことが、人にとって本来的なあり方であるから。(99)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
災難の中で苦しむ他者と、非当事者である自己のの間には超えられない落差があるのに、安易な同情や理解を伝えるのは無責任で表面的な対応にすぎず、むしろその落差に戸惑いや無力感を抱えながらも、かけがえのない存在として他者と向き合うことこそが、あるべき人間どうしの関わり方であるから。(137)
 
〈参考 T進解答例〉
目の前の他者が病に冒されているのに、自分が健康なのは偶然である。しかも両者は一つの間柄を共有する。「である」間柄を、「がある」の事実的な偶然性が貫いている。この彼我の落差に気づく時、非当事者は無力感と「やましさ」を感じるが、逃げ場なしの状態で他者と関わる所に、共感ではなく、倫理の発現をみるべきだから。(151)