〈本文理解〉

出典は岡野八代『フェミニズムの政治学』。前書きに「次の文章は、「契約モデル」ではなく「傷つきやすさを避けるモデル」を用いて責任を論じるロバート・グリグディンの議論を紹介するものです」とある。
 
 
①段落。グディンの責任論の出発点は、わたしたちは、身近な家族、友人に始まり、ビジネス上の契約相手、あるいは、ある価値観や領域を共有し合う同胞に対して、「特別の責任」を負っているという道徳的な直感をもっている、という事実である。かれは、その直感を生じさせている実際の関係性を注視することで、〈わたしたちはなぜ互いに責任を果たし合うのか〉といった、さまざまな関係性に共通する責任の意味を示し、わたしたちが社会を構成するのは、そのようにして示された責任をよりよく果たしあえる共同体を築くためである、と論じる。
 
②段落。ここで、かれが義務と責任を区別していることに注意したい。義務とは、ある行為を命じる意志を重視し、その結果については問わない義務論的な倫理であり、責任とはある結果を生じさせる帰結主義的な倫理である。…グディンによれば、義務は義務を負う者に直接ある行為をするように命じるが、責任は、責任を負う者に常に行為を命じるものではなく、むしろ、ある特定の成果がもたらされることを引き受けるように命じる。「たとえば責任の場合は、教師と学生によりよい教育効果をもたらすために、ある特定の講義については専門の講師を雇い入れることによって、自らが直接的な行為をなさなくても果たしたことになる」(傍線部(a))。また、義務は、疑問を果たすか否かの二元論的な倫理であるが、責任は程度の問題であり、多数の者たちと分有可能で、かつ責任者に多くの裁量があることを特徴とする。
 
③段落。さて、議論のなかでかれが批判の標的とするのは、伝統的な契約論、すなわち、わたしたちがある特定の他者や関係性に対して「特別の責任」を負うべき理由は、自発的に取り交わした契約がもたらす結果に対しては義務を負わなければならないからだ、という考えである。かれは、この契約論的な責任論に対して、ヴァルネラビリティ・モデル、すなわち「傷つきやすさを避けるモデル」を提起する。
 
④段落。グディンによれば、わたしたちが特定の他者や関係性に「特別な責任」を負うべきなのは、他者とともにおかれたある関係性のなかで、ある特定の他者が、わたしたちの行為や選択に左右される、すなわち傷つきやすい立場に置かれるからである。また、この場合の関係性は、自発的に取り結んだ関係性だけでなく、偶然に否応なくおかれた状態における他者との関係性をも含んでいる点に注意しておきたい。
 
⑤段落。かれの責任論は、つぎの二点を強調する。第一に、家族関係に代表されるような「特別の責任」は、より公的な場における責任と比べてなんら特別な責任倫理を表しているわけではない。家族における責任が特殊な責任のように思われてきたのは、責任が個人の自発的行為から生じる、という「契約モデルに囚われている」(傍線部(b))からである。そうではなく、ヴァルネラブルという用語そのものが示しているように、常に責任は関係性のなかでこそ生じていると考えなければならない。したがって、責任は通常考えられているほどに、責任を負う者によって一方的に担われるものではないであろう。文脈に応じた実践を積むなかで、当事者は互いに呼びかけと応答の仕方を学びあいながら、それぞれの立場が流動的でありながらも固定され、だからこそ取替えのきかない「特別の責任」が関係性のなかで立ち現れてくるのである。
 
⑥段落。関係性のなかから生じ、関係性のなかでその重みも変化する、といった関係的な責任理解からすれば、ビジネス契約における当事者の責任と、子どもに対する親の責任とが、一つの責任論の中に包摂される。すなわち、両者の違いは、その関係性の違いから発する当事者間の相互依存の在り方とその程度にある。一方の当事者の行為に左右される、傷つきやすい相手が被るであろう危害を生じさせない責任という意味においては、同じ内容の責任を負っているのである。
 
⑦段落。第二に、「そうだとすれば「特別な責任」はやはり、親密な関係性がなければ果たし得ないのではないかという点」(傍線部(c))について、グディンはつぎのように論じる。契約モデルは、ある結果を生む行為を最初にした者が、行為の帰結についても責任を負うべきだとする因果論的な責任モデルをとる。他方、「傷つきやすさを避けるモデル」は、ある行為が他者に及ぼす結果の重さを勘案する帰結主義をとる。なぜならば、このモデルが重視するのは、傷つきやすい立場に置かれたものが被る危険性のある「危害」をいかにして避けるか、という意味における責任だからである。…
 
⑧段落。すなわち「傷つきやすさを避けるモデル」は、初発の行為はどうであれ、最終的にその責任がもっともよく果たせる者が果たすのが合理的だと考える。たとえば、因果論的なモデルでは、母親や父親は子をもつという決意を最初にしたのだから、その行為の帰結としての子の養育に責任があるとされるが、「傷つきやすさを避けるモデル」からすれば、どのような経緯があったにせよ、もし母親や父親が最終的にその子の養育の責任が果たせるのであれば、彼女たちが「特別の責任」を果たすのが合理的だとする。だが逆に、子を養育する責任を、もし母親や父親が最終的に果たせない場合は、なんらかの形で、子に対する危害を避けるための責任を果たし得る者が果たす方がよい、と考える。
 
⑨段落。たとえば、グディンは、別の著作で福祉に依存しなければならない母親たちを社会的コストとして批判する者たちに問いかける。「いったん子どもたちがこの世界に生まれてくれば、いったい誰が、その子どもたちを飢えさせることは道徳的に許されると真剣に論じるだろうか。他者に対する教訓として、こうした母親たちが飢えることは道徳的に適っていると、誰が本気で論じるだろうか」。
 
⑩段落。かれは、飢えという深刻な危害を最終的に避けることができるのに、その対策をとらない者──この場合は、政府──の責任を問うのだ。もちろんそれは、母親の何らかの落ち度から生じてくるような責任を免除することと同じではない。子に対する母親の責任と政府の責任は、矛盾するどころか両立し得るし、相互に補完しあうこともあるだろう。ここに、責任の第一の特徴である、「「分有可能性」の実践的な価値」(傍線部(d))がある。
 
 

問一「例えば責任の場合は、教師が学生によりよい教育効果をもたらすために、ある特定の講義については専門の講師を雇い入れることによって、自らが直接的な行為をなさなくても果たしたことになる」(傍線部(a))とあるが、この例において、なぜ教師は責任を果たしたと言えるのか、責任の意味を明らかにしながら、説明しなさい。(4行)

 
理由説明問題。傍線部の直接的な説明なら、それと並列の関係にある、直後の「また」に続く記述は解答に含めないが、本問では「責任の意味を明らかにしながら」という条件が入るので、「また」の後の「責任」の説明も踏まえて解答する。傍線部を含む②段落では「責任」を「義務」との比較で説明している。そこで、「義務」が「ある行為を命じる意志を重視し、その結果については問わない(a)」倫理(カント)であるのに対し、「責任」は「ある結果を生じさせる帰結主義的な倫理/ある特定の成果がもたらされることを引き受けるように命じる(b)」と説明される。ここから傍線部のケースを考えると、ある特定の講義については専門の講師に講義を託すことが、学生によりよい教育効果をもたらすという観点から、望ましい「成果」がもたらされる(c)、よって「責任を果たしたと言える」という論理が成り立つ。
 
これに「また」の後、責任は「多数の者たちとの分有可能(d)」だということを補足的に加える。傍線部のケースならdの要素が、講師間の協働を可能にするのである(e)。以上、「主体の行為に対する意志を重視する義務と異なり(a)/責任は行為の成否に関わり(b)/他者との分有が可能なので(d)/自らの専門としない分野の講義については、その専門家に託すことがより良い成果を生むと考えられるから(ce)」と解答する。
 
 
〈GV解答例〉
主体の行為に対する意志を重視する義務と異なり、責任は行為の結果の成否に関わり他者との分有が可能なので、自らの専門としない分野の講義については、その専門家に託すことがより良い成果を生むと考えられるから。(100)
 
〈参考 阪大解答例〉
義務とは異なり責任は、ある結果を生じさせることに重きを置き、責任を負う者にある特定の成果がもたらされることを引き受けるように命じる。例においては、専門の講師に講義を依頼することによって、教師自身が講義を持たなくても学生によりよい教育効果をもたらすようにふるまったことになり、責任を果たしたことになるから。(152)
 
〈参考 S台解答例〉
グディンよれば、責任とは、直接的行為を命じる義務とは異なり、責任者の行為がつねに必要なわけではなく、特定の効果がもたらされることを引き受けるよう命じるものなので、教師が専門の講師に講義を委託しても、学生によりよい教育効果がもたらされるから。(120)
 
〈参考 K塾解答例〉
教師が直接に学生を教えるという義務には反するが、特定の結果が生じるように請け負う責任の倫理からみれば、専門の知識や技能を有する講師に任せよりよい教育達成を得ようとする方が学生に対する責任を果たすことになるから。(105)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
責任は義務とは異なり、ある結果を生じさせる帰結重視の倫理である。その意味において、教師が直接自分で教えなくても、専門の講師に講義を任せることで間接的に学生によりよい教育効果をもたらされれば、教師の責任は果たされているから。(111)
 
〈参考 T進解答例〉
責任とは、義務が義務を負う者に直接ある行為をするように命じるのに対して、ある特定の成果がもたらされることを引き受けるように命じるものであるが、教師が、ある特定の講義を自らの義務として行うのではなく、専門の講師を雇い入れることで、その講師と共に学生によりよい教育効果をもたらしうるから。(142)
 
 

問二「契約モデルに囚われている」(傍線部(b))とあるが、このモデルに囚われていると、なぜ家族における責任が特殊な責任のように思われるのか、説明しなさい。(4行)

〈GV解答例〉
契約モデルに従うと、一般的な責任は自発的に取り交わした契約の結果発生するということになるが、家族に対する責任は契約関係に先立つ本来的な務めだと見なされるため、一般的な責任とは区別されることになるから。(100)
 
〈参考 S台解答例〉
契約モデルでは、責任は個人の自発的行為から生じるとされるので、偶然に否応なくおかれた状態での他者関係のなかで生じる、公的な場における責任とは異なり、自発的に結んだ関係性である家族関係においては、責任を負う者が一方的に責任を担わなくてはならないから。(124)
 
〈参考 K塾解答例〉
自発的に結ばれた契約は結果に対する責任を生むという考えに従えば、契約を交わした双方に責任があるビジネス契約とは異なり、子をもつと決めた親に自発性が認められる家族では、親は子に対し一方的な責任を負うと言えるから。(105)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
責任は個人の自発的行為から生じるとする契約モデルに固執して考えると、家族における責任は、子をもつことを決意した親の自発的行為による一方的な倫理となり、その代替不可能性は公的な契約関係とは異なる特殊なものだということになるから。(113)
 

問三「そうだとすれば「特別な責任」はやはり、親密な関係性がなければ果たし得ないのではないかという点」(傍線部(c))について、グディンはどのように考えているのか、「そうだとすれば」の「そう」を内容を示しながら、説明しなさい。(4行)

 
内容説明問題。傍線部は⑦段落の冒頭にあり、「そうだとすれば」の「そう」は直前ではなく前⑥段落の内容を承けるのだが、特にどの部分をどこまで承けるかは一考を要する。本問の場合、「そうだとすれば」という条件節が「〜果たし得ないのではないか」に係ることを確認し、その帰結を導く内容を⑥段落から抽出することになる。「〜」も含めて帰結の部分は、ざっくり「特別な責任には親密な関係が必須(A)」ということである。もちろん、先回りして言えばグディンはAの立場を採らないわけだが(後述)、ここでいったん反論を想定し、それに検討を加えているのが⑦段落である。
 
そこで「そう」の指す内容だが、当然Aを補強するような方向になるはずだ。こう見当をつけて⑥段落を見渡すと、その冒頭で「関係性のなかから生じ、関係性のなかでその重みも変化する、といった関係的な責任理解(a)」と述べ、これを前提に「子どもに対する親の責任(→特別な責任)」は、程度において違いはあるが、一般的な責任論の中に包摂される、という点を強調している。ここから、aすなわち「他者への責任は関係性から生じ、その中で責任の重みも変化する」→「親密な関係性が特別な責任を必要とする(A)」という筋道が見えてくる。よってaが「そう」の指す内容。ただ、前にも述べたようにグディンはそうした立場を採らないのである。それを根拠立てて説明するのが⑦⑧段落。
 
まず「契約モデル=因果論的な責任モデル(X)」に基づくと、「親密な関係性」が「特別な責任」を生じさせたのだから、当然その責任の所在は「親密な関係性」にある者となる(a→A)。しかし、グディンの「傷つきやすさを避けるモデル(Y)」においては、「傷つきやすい立場に立場に置かれた者が被る危険性のある「危害」をいかにして避けるか(b)」が重要であり、「最終的にその責任がもっともよく果たせる者が果たすのが合理的だ(c)」と見なすのである。よって「親密な関係性」の中から「特別な責任」が「生じ」たとしても、その責任の帰属する先は「特別な関係性」にある者(→子どもにとっての親)でなくてもよいのである(B)。以上より、「他者への責任が関係性から生じ、その中で責任の重みも変化するとしても(a)/傷つきやすい存在の被る危険性を避けられる者が責任を負うことが合理的であるから(bc)/親密な関係性に「特別な責任」を帰属させる必然性はない(B)」と解答できる。
 
 
〈GV解答例〉
他者への責任が関係性から生じ、その中で責任の重みも変化するとしても、傷つきやすい存在の被る危険性を避けられる者が責任を負うことが合理的であるから、親密な関係性に「特別な責任」を帰属させる必然性はない。(100)
 
〈参考 阪大解答例〉
責任が関係性から生じ、関係性に応じて、その重みが変化するのであれば、責任を果たすには親密な関係性が必要であると思われるかもしれないが、危害を避けるという結果がもたらされることを重視するグディンは、この結果をもたらすこともできる者が責任を負えばよく、責任を果たすうえで必ずしも親密な関係性が必要なわけではないと考えている。(160)
 
〈参考 S台解答例〉
傷つきやすい相手に危害を生じさせない責任が、関係性から生じ、その重みも関係性で変化すると理解しても、危害を避けるという結果がもたらされることが重要なので、責任は最終的に最もよく果たせる者が果たすのが合理的であり、必ずしも責任を果たす上で親密な関係性が必要なわけではないと考えている。(141)
 
〈参考 K塾解答例〉
自発にせよ偶然にせよ、相互の依存の程度によって異なる関係性から責任が生ずるのであり、傷つきやすい立場に置かれた者への危害という結果を避けるために、原因を問わず、それを回避しうる者に責任を求めるのが合理的である。(105)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
傷つきやすい相手の「特別の責任」とビジネス契約の責任の違いが相互依存の程度だとすれば、前者には親密な関係が不可欠だと考えられがちだが、危害から守るという結果こそが重要なのであり、その責任を果たせる者が果たすことが合理的であると考えている。(119)
 
〈参考 T進解答例〉
「特別の責任」が、一方の当事者の合意に左右される、傷つきやすい相手に危害を生じさせないという普遍的意味を持つのならば、傷つきやすい立場におかれている者が被る「危害」をいかにして避けるかという意味における責任となるので、例えば子に対する責任を母親や父親が必ず負わなければならないという条件が除去されるように、親密性は不可欠の条件ではない、と考えている。(175)
 
 

問四「「分有可能性」の実践的な価値」(傍線部(d))とあるが、「傷つきやすさを避けるモデル」による責任論では、なぜ責任を分かちもつことが可能になるのか、またそのことによって実際にどのような価値が生じるのか、本文中で言及される具体例を用いて説明しなさい。(4行)

 
理由説明+論理的推論。直接の解答範囲は⑨⑩段落(傍線部は⑩段落末文=本文末文にある)。理由については、問一や問三で検討した内容と同じく、「当モデルは傷つきやすい存在の危害を避けるという結果に関わる(a)→その目的が果たせれば責任は分有されてよい(b)」と構成できる。これを「困窮する母子→母親と政府の責任の分有→社会福祉政策(c)」という具体例と重ねて説明するとよい。
 
問題は「責任を分かちもつこと(=分有)」が可能になることで実際にどのような「価値」が生じるのか、というもう一つの問いである。この価値の内容については本文に直接言及した箇所はないので、「責任の分有」が実現することから生じる、社会的に共有されうる妥当性の高い価値を、論理的に推論して端的に示す必要がある。価値とは物事の重要性に関わり、「〜は望ましい/〜であるべきだ」という形で表現されるものである。⑨⑩段落は具体例に即し、政府による社会政策の必要性という文脈で「責任の分有」について述べている箇所であるが、その現実化は少なからず社会に「責任の分有は望ましい/分有すべきだ(d)」という価値を根付かせるだろう(理念の現実化を通した社会的浸透)。これは同時に、責任を果たす上で帰属関係や契約に固執しなくてよい(e)、ということでもある。
 
以上、「〜のように/〜から/責任の分有が可能になり(理由)/その結果/〜価値が生じる(価値)」という構文で解答をまとめる。「困窮する母子に対し政府が母の子育てを支援することが有効なように(c)/当モデルは傷つきやすい存在の危害を避けるという結果に関わる以上(a)/その目的を果たせれば責任は分有されてよく(b)/結果/帰属や契約によらず(e)/他者への責任を分有すべきだとする価値が生じる(d)」。
 
 
〈GV解答例〉
困窮する母子に対し政府が母の子育てを支援することが有効なように、当モデルは傷つきやすい存在の危害を避けるという結果に関わる以上、その目的を果たせれば責任は分有されてよく、結果、帰属や契約によらず他者への責任を分有すべきだとする価値が生じる。(120)
 
〈参考 阪大解答例〉
飢えという深刻な危害が子どもに及ばないよう対策を講じる責任は、その能力をもつ政府が負い、母親には政府とは別の仕方で子どもに危害が及ばないよう努める責任が伴うことになるから。このように分かちもたれた責任をそれぞれが果たすことによって、子どもの傷つきやすい状況が克服されるという価値が生じる。(144)
 
〈参考 S台解答例〉
子の危害を避ける責任は、必ずしも状況を惹起した母親が果たす必要性はなく、政府が最もよく責任を果たせるのであれば政府が果たした方がよいから。またそうすることで母親と政府各々が関係性に即した責任を果たし相互に補完し合えば、子の危害を避けるためにより良い効果が得られるという価値が生じる。(141)
 
〈参考 K塾解答例〉
福祉に依存せざるを得ない母子を社会的コストとして批判せず、母子が飢えるという結果を避ける責任を政府が果たせば、母の子に対する責任も補完される。こうして互いに責任を果たし合う社会的な共同性という価値が実現する。(104)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
子の貧困という危害を避ける結果をもたらすうえで、母親の責任と政府が福祉政策によって果たす責任は両立し、補完し合うから。これにより母子の生活が保障されるだけでなく、社会の構成員が相互に責任を果たし合う共同性実現という価値が生じる。(114)
 
〈参考 T進解答例〉
「傷つきやすさを避けるモデル」による責任論では、母親が福祉に依存しなければ子ども飢えさせてしまうという場合に、子供に、「飢え」という危害をもたらさない責任から母親を免除することには必ずしもならないが、政府も対策を取るべきであって、それによって責任が分け持たれるし、結果的に共同体が築かれていくという価値が生じる。(156)