〈本文理解〉

出典は吉田修一「月夜のダイニング」。

1️⃣ 未だにあれは夢だったのではないだろうかと思うような数日間の記憶がある。もちろん夢ではなくて、古いパスポートを開けば、そこにタイの入国スタンプと出国スタンプが押してあるのは間違いないのだが、それで「あの数日間が、その前後に流れていた時間と繋がっているようには思えない」(傍線部(1))。
場所はバンコクから飛行機で一時間ほどの有名なリゾート島だった。誰に薦められたのか、自分でガイドブックから選んだのかも覚えていないが、ある一軒のホテルに予約を入れていた。いわゆるリゾートホテルで、白砂のビーチに囲まれた小さな入り江を見下ろす場所に、小さなコテージが建っていた。案内されたのはビーチに一番近い白壁のコテージで、大きな窓からは真っ青な南シナ海が一望でき、白いレースのカーテンが潮風を大きくはらんでいる。ギリシア映画『永遠の一日』の中に、似たようなシーンがある。白壁と風を大きくはらんだ白いカーテンの動きが、今思い返してみるととても似ている。となると、夢だったのではなく、何かの映画で見た光景が自分の記憶となっているのだろうか。いや、「だから」(傍線部(2))古いパスポートを開けば、そこにはちゃんと出入国スタンプがあるのだ。「このホテルで何か奇妙な体験をしたわけではない」(二重傍線部)。もっと言えば、この島では何も起こっていない。たぶん、あまりにも何も起こらなかったせいで、まるで夢の中にでもいたような気になっているのかもしれない。

2️⃣ 各コテージにはそれぞれに小さなプールがあった。プールに飛び込むと、その水音が大きく響く。プールの水面の高さは遠景の海と平行に設計されているようで、まるで海の中にいるような気分になる。目に飛び込んでくる景色は壮大な景色なのに音がない。繰り返される波音と、ときおり自分が立てる小さな水音。ただ、その二つの音だけが世界である。おそらくシーズンオフの時期で、ホテルではまったく他の客と会わなかった。ホテル内だけではなく、この島の中には自分しかいないような感じで、心細いというよりも、たぬきに化かされているとでもいうのか、次の瞬間、ボンと煙に巻かれて、気がつけば東京の自宅に戻っているような、そんなフワフワとした時間だった。
極めつきは、このホテルでとった夕食だ。前述したように、ホテルのコテージは小さな入り江を見下ろすように急な斜面に点々と建てられている。この斜面の一角に、海に突き出すように、いや、空に突き出すように、だだっ広いウッドテラスが張り出している。当然、そこには壁も仕切りもないので、このウッドテラスに立つと、いかだで海に浮かんでいるような、魔法の絨毯で空に浮かんでいるような、なんとも幻想的な雰囲気に包まれる。この一角に四つだけテーブルが並んでいる。真っ白なテーブルクロスが潮風に揺れ、クロスの上には完璧に磨かれた食器とグラス。時間は遠い水平線に今にも夕日が沈もうとしている頃、背後の山はすでに闇に包まれており、テーブルにぽつんと置かれたロウソクだけが明かりとなる。当然、他に客はいない。
テーブルに案内してくれたのは褐色の青年で、糊の効いたシャツに蝶ネクタイをつけている。礼儀正しく、プロフェッショナルな感じがする。とりあえず食前酒を頼み、メニューをもらった。たぶん何かを質問するつもりで、次の瞬間、振り返ったのだが、なんとそこには彼がいなかったのだ。足音もしなかったので、てっきり背後に立っているとばかり思っていた。しかし、視線の先には闇に包まれた背後の山しかない。食事が終わるまでずっとそんな感じだった。美味しい料理が一皿一皿運ばれてくる。その都度、彼がボンと煙の中から現れて、また煙の中に消えていくような感じ。小学生の頃、宮沢賢治の『注文の多い料理店を初めて読んだのだが、あの印象とどこか似ていた。まるで自分が物語の中に入ってしまったような感覚。現実にはない料理店が、この世のどこかにあるような感覚。ただ、決して気味が悪いのではなく、「自分が今いるこの世界ではこれが当然なのだというような、やはり夢の中でその夢を肯定しているような、そんな奇妙な感覚」(傍線部(3))だった。

3️⃣ 翌日の夜はホテルの外へ出てみることにした。そこで早速フロントに電話してみたのだが、島の繁華街は遠いという。…せっかくなら夜風を浴びて走ってみたい。結果スクーターを借りることにした。…未舗装の山道をゆっくり下ると、アスファルトの道路に出た。地図によれば、この道が島を一周しているらしい。繁華街の方に向かってスクーターを走らせた。ちらほらと民家はあったが、森の中を走っているような感じだった。予想に反して、島の繁華街は大変な盛り上がりだった。渋滞したメインストリートには何軒ものレストランやバーがひしめき、この島のどこにこんな多くの人たちがいたのかと思うほど、どの店からも若者たちと大音量の音楽が溢れ出している。「ついさっきまで宮沢賢治の世界にいたので、少し気後れしてしまい」(傍線部(4))、結局、繁華街を素通りし、そのままホテルに戻ってしまった。奇妙だ、奇妙だとは思いながらも、滞在中のホテルに居心地の良さを感じていたのだと思う。
未だに、ふとこの時のことを思い出しては、「奇妙だったなぁと感じる」(傍線部(5))。現実だったのは間違いないのだが、1パーセントくらいの確率で夢が混じっていたのかもしれないと思う気持ちもある。でも考えてみれば、このように現実がほんのちょっとだけ欠けるような体験こそが、旅の醍醐味なのだ。
(以上、便宜的に場面を1️⃣〜3️⃣に区切っておいた)。

 

問一「あの数日間が、その前後に流れていた時間と繋がっているようには思えない」とある。これは、どういうことか、説明せよ。(二行)

内容説明問題。傍線部の要素を輪切りにして、本文の言葉を拾って逐語的に言い換える、という機械的な方法論は通用しない。傍線部の質的な分析と、豊富な語彙力に基づいた適切な表現力が問われている。ここでは「〜繋がっているようには思えない」という否定表現に気をつけて、「あの数日間」の内実がどのように、現在から振り返って感じられるか、を明確に示すことが肝要になる(ないある変換)。特に1️⃣パートの締め「たぶん、あまりにも何も起こらなかったせいで、まるで夢の中にでもいたような気になっているのかもしれない」を参照し、「夢ー現実」の対を解答に繰り込むとよい。「タイのリゾート島に滞在した数日間が/前後の時間の流れと断絶されて/現実離れした夢であるかのように/振り返られるということ」となる。

〈GV解答例〉
タイのリゾート島に滞在した数日間が、前後の時間の流れと断絶されて、現実離れした夢であるかのように振り返られるということ。(60)

〈参考 S台解答例〉
リゾート島で過ごした旅の数日間の経験に、現実感が欠如した奇妙さを感じ、日常とは隔絶しているように思われたということ。(58)

〈参考 K塾解答例〉
タイのリゾートに滞在した数日間の時間の流れは、旅に行く前や旅から帰った後の普段の生活の流れとは異なるように思われたということ。(63)

問二 ②「だから」の使い方は、次の例のような「だから」の使い方とどのように違うか。簡潔に答えよ。(二行)

(例) あの人は、アメリカに三十年間もいた。だから、英語がペラペラだ。

表現意図説明問題。一般的な「だから」の用法(因果)と比較して、傍線部(2)での「だから」の使い方の特殊性を説明する。例文のように、一般的な「だから」は「原因・理由」と「帰結」をつなぐ役割を果たす。それに対して、(2)「だから」は、前文「映画で見た光景が自分の記憶となっているのだろうか」を「いや」と否定した後に現れ、「古いパスポートを開けば、そこにはちゃんと出入国のスタンプがあるのだ」という一文を導く。ここから、(2)「だから」は前文を否定した上で、その否定の根拠を導いていると同時に、文末の「〜のだ」と呼応して論点を確認するように機能している、と言える。「例のように〜ではなく〜(2要素)」とまとめる。

〈GV解答例〉
例のように前文を根拠として承け、帰結を導くのではなく、前文を否定した上で、否定の根拠を後ろから確認するように導いている。(60)

〈参考 S台解答例〉
例文が因果関係を表す順接の使い方であるのに対し、傍線部は既出の内容を「だから」以下で改めて述べる確認の使い方である。(58)

〈参考 K塾解答例〉
例文では前に言った事柄が後から言う事柄の原因になることを示すために使われているが、本文では前に述べたことをあらためて強調するために使われている。(72)

問三「自分が今いるこの世界ではこれが当然なのだというような、やはり夢の中でその夢を肯定しているような、そんな奇妙な感覚」とある。これはどういうことが奇妙だと言っているのか。50字以内で説明せよ。

表現意図説明問題(比喩)。実質「夢の中でその夢を肯定しているような…感覚」という比喩の言わんとするところを説明する問題。本文ベタで説明するのではなく、語り手のメタレベルに立って説明する問題である。その点が分かっていない「模範」解が多いことに愕然とする。もう一つ、比喩表現は表現者と受け手のイメージの共有を前提として成り立つ。その自明性を本文の言葉に頼らず説明しきる言語能力が問われているのである。
傍線部は、ホテルでの夕食をとったシーンの後にくる記述である。それは「物語の中に入ってしまったような感覚」「現実にはない料理店が、この世のどこかにあるような感覚」をもよおす経験であった。それを「自分が今いる世界ではこれが当然なのだというような(A)/夢の中でその夢を肯定しているような(B)…奇妙な感覚」と言い換えているのが傍線部である。AとBは構造的に同意であるが、Aの説明はわかりやすい分、「奇妙」さに届かないので、Aを重ねてBの比喩に含まれる奇妙さを理解するとよい。
そこで「夢を見る」という経験一般であるが、Aにもあるように、夢の中にある時はそれが当然と思えるものである。しかし、いったん夢から覚めて振り返ってみた場合、設定からして突飛で馬鹿げたものであるということは、われわれが日常で繰り返している経験である。そのギャップを「奇妙」としているのである。まさに、筆者にとって「ホテルでの夕食」はそうした夢の「奇妙」さを感じさせるものであった。以上より「その世界から離れ省みた時には矛盾に満ちた経験であるのに/その世界に在る時はごく自然に感じられること」とまとめる。

〈GV解答例〉
その世界から離れ省みた時には矛盾に満ちた経験であるのに、その世界に在る時はごく自然に感じられること。(50)

〈参考 S台解答例〉
ホテルでの夕食が現実感に欠け幻想的ではあるものの、その印象が不気味さよりも必然性を感じさせること。(49)

〈参考 K塾解答例〉
旅先での夕食時に現実離れした感覚を味わったにもかかわらず、その感覚が現実であると思われたこと。(47)

問四「ついさっきまで宮沢賢治の世界にいたので、少し気後れしてしまい」とある。

1「宮沢賢治の世界にいた」とは、どういうことか。わかりやすく説明せよ。(二行)

表現意図説明問題(比喩)。「宮沢賢治の世界にいた」とは、前2️⃣パートのホテルでの体験を指している。そこで筆者は「物語の中に入ってしまったような感覚」「現実にはない料理店が、この世のどこかにあるような感覚」を受けたのであった。これらをミックスして「現実には存在するはずのない/物語のような虚構の世界にのめり込み/それを現実の出来事であるかのように/感受していたということ」とするとよい。

〈GV解答例〉
現実には存在するはずのない物語のような虚構の世界にのめり込み、それを現実の出来事であるかのように感受していたということ。(60)

〈参考 S台解答例〉
繁華街にたどり着くまで筆者は、森閑としたなかで現実感に欠けた幻想性のある、完結した必然的な雰囲気を感じていたということ。(60)

〈参考 K塾解答例〉
静寂に包まれた島で一人幻想的な時間を過ごすような気分を味わっていたということ。(39)

2「少し気後れしてしま」ったのは、なぜか。簡潔に説明せよ。(二行)

理由説明問題(心情)。あたりまえの話をしよう。われわれは日常の経験世界から常識(標準)を形作っている。その常識(標準)からの偏差で物事を判断したり形容したりするが、それは所与のものとして普段は認識されないのである。傍線部の次文「奇妙だ、奇妙だとは思いながらも、滞在中のホテルに居心地の良さを感じていたのだと思う」が根拠になる。人気のないホテルでの非日常が「日常」となったため、それとの対比で「予想に反し」た島の盛り上がりが逆に現実離れしているように感じられたのだ(→気後れ)。以上を簡潔にまとめる。
本問の説明として、本文の根拠を述べる前に、われわれの経験世界からくる認識について話した。これは本文を客観的に読み、本文の言葉を用いて解答することにこだわる受験指導においては邪道に映るかもしれない。しかし、われわれの思考は経験をもとに、対象との交渉を経て立ち上がってくるものではないか。客観性は条件ではあるが、片方でしかない。経験を深めることで知性を涵養しておくことは、問い対して適切に答える力と何ら矛盾するものではなく、それを助けるものである。東京大学が「学生が高等学校までの学習によって習得したものを基盤としつつ、それに留まらず、自己の体験総体を媒介に考える」(東京大学「高等学校段階までの学習で身につけてほしいこと」国語)と述べることの意味を心に留めておきたい。

〈GV解答例〉
人気のないホテルでの滞在に居心地の良さを感じ馴染んでいたため、今眼前にある繁華街の賑わいが現実ではないように思えたから。(60)

〈参考 S台解答例〉
筆者は、直前までの人気のない静寂の快さからかけ離れた、繁華街の多くの人や大音量の生々しさに突然接し、たじろいだから。(58)

〈参考 K塾解答例〉
非日常的な雰囲気を味わうことに心地よさを感じていたため、それとは対照的な繁華街の喧騒に不快感を抱いたから。(53)

問五「奇妙だったなぁと感じる」とある。一方、「このホテルで何か奇妙な体験をしたわけではない」とある。一見、両者は矛盾しているようにみえるが、どのようにつじつまが合うのか。説明せよ。(二行)

内容説明問題(主旨)。問四の2の説明と重なるが、標準をどこに置くかの違いとして説明できる。旅行先にあり、そこでの滞在が「日常」化している場合は、その体験は奇妙なものと感じられない。しかし、旅から戻りレギュラーの日常に復帰すると、そこを物差しとして旅の体験が「奇妙」なものとして思い返される。つまり、これが筆者のいう「旅の醍醐味」ということだろう。あとはまとめ方。旅という経験(on/off)を媒介にすれば、両者はつじつまが合うことを表現すればよい。「旅先のホテル滞在時は〜日常的に思えた体験が/旅から戻り相対化してみた時は非日常として思い返される」となる。
それにしても、である。S台とK塾の解答はひどい。本文末文の「でも考えてみれば、このように現実がほんのちょっとだけ欠けるような体験こそが、旅の醍醐味なのだ」を踏まえたつもりだろうが、「旅の情緒を味わった点でつじつまが合う」では何も説明していないのと等しいだろう。本文のそれらしい言葉を使ってお茶を濁す。こういった姿勢が知性を堕落させる。

〈GV解答例〉
旅先のホテル滞在時は特別な感覚はなく日常的に思えた体験が、旅から戻り相対化してみた時は非日常的なものとして思い返される。(60)

〈参考 S台解答例〉
不思議な出来事は起こらなかったが、人気のない静けさが現実感を欠如させ、そこに旅の深い情緒を味わった点でつじつまが合う。(58)

〈参考 K塾解答例〉
実際には何も不思議なことは起こっていなかったが、旅先では夢のような体験が味わえる点でつじつまが合う。(50)