〈本文理解〉

出典は長田弘の随想『詩人であること』。筆者は詩人。第四問は詩人や歌人の文章からの出題が多く、2020谷川俊太郎、2014蜂飼耳、2012河野裕子、2010小野十三郎、という具合である。
 
①段落。それぞれに独自の、特殊な、具体的な経験の言葉を、「公共」の言葉や「全体」の意見ときうレベルに抽象して引きあげてしまうとき、そうした公準化の手続きのうちにみうしなわれやすいのは、それぞれのもつとりかえのきかない経験を、それぞれに固有なしかたで言葉化してゆく意味=方向をもった努力なのだ。たとえどのように仮構の言葉であっても、言葉は、その言葉をどう経験したかという一人の経験の具体性の裏書きなしには、その額面がどんなにおおきくとも割れない手形でしかない、ただ「そうとおもいたい」言葉であるしかできない。
 
②段落。たとえば、「平和」や「文化」といったような言葉に、わたしはどんなふうに出会ったかをおもいだす。「平和」も「文化」も、どのようにも抽象的なしかたで、誰もが知ってて誰もが弁えていないような言葉として、「観念の錠剤のように定義されやすい」(傍線部ア)言葉だけれども、わたしがはじめてそれらの言葉をおぼえたのは、子どものころ暮らしていた川のある地方都市に新しくつくられた「平和通り」「文化通り」という二つの街路の名によって、日々の光景のなかに開かれた街路の具体的な名をとおしてだった。
 
③段落。…
 
④段落。一つの言葉がじぶんのなかにはいってくる。そのはいってくるきかたのところから、その言葉の一人のわたしにとっての関係の根をさだめてゆくことをしなければ、「言葉にたいする一人のわたしの自律」(傍線部イ)をしっかりとつくってゆくことはできない。言葉にたいする一人のわたしの自律がつらぬかなければ、「そうとおもいたい」言葉にじぶんを預けてみずからをあやしむことはないのだ。「そうとおもいたい」言葉にくみするということは、言葉を一人のわたしの経験をいれる容器としてでなく、言葉を社会の合言葉のようにかんがえるということである。
 
⑤段落。わたしたちの戦後の言葉が、たがいにもちあえる「共通の言葉」をのぞみながら、そのじつ「『公共』の言葉、『全体』の意見というような口吻をかりて合言葉によってかんがえる」(傍線部ウ)、一人のわたしの自律をもたない言葉との関係を、社会的につくりだしてきたということがなかったか、どうなのか。合言葉としての言葉は、その言葉によってたがいのあいだに、まずもって敵か味方かという一線をどうしようなく引いてしまうような言葉である。しかし、言葉を合言葉としてつかって、逆に簡単に独善の言葉にはしって、たがいのあいだに敵が味方かというしかたでしか差異をみない、あるいはみとめないような姿勢が、社会的につくられてゆくことへの怖れが、わたしのなかには打ち消しがたくあり、わたしは言葉というものを先験的に、不用意にしんじきるということはできない。
 
⑥段落。言葉というものを、それを信じるものとしてでなく、むしろそれによってみずから疑うことを可能にするものとしてかんがえたい。わたしたちはふつう他者を、じぶんと平等においてみとめるのではなく、じぶんとの差異においてみとめる。この単純な原理を活かすすべを、わたしたちの今日の言葉の大勢はどこか決定的に欠いているのではないか。「私」については饒舌に語りえても、他者について非常にまずく、すくなくしか語ることのできない言葉だ。そうしたわたしたちのもつ今日の言葉の足腰のよわさは、「共通の言葉」をのぞんでいまだそれをじゅうぶんに獲得しえないでいる結果であるというよりは、むしろ、わたしたちの言葉がみずから「差異の言葉」であることを正面きって受けいれることができないままできたことの必然の結果、なのではないだろうか。
 
⑦段落。たがいのあいだにある差異をじゅうぶん活かしてゆけるような「差異の言葉」をつくりだしてゆくことが、ひつようなのだ。わたしたちはたがいに現にさまざまなかたち、位相で、差異をもちあっているのだから、一つひとつの言葉をとおして、わたしたちがいま、ここに何を共有しえていないかを確かめてゆく力を、じぶんにもちこたえられるようにする。言葉とはつまるところ、一人のわたしにとってひつような他者を発見することなのだ、とおもう。わたしたちは言葉をとおして他者をみいだし、他者をみいだすことによって避けがたくじぶんの限界をみいだす。「一つの言葉は、そこで一人のわたしが他者と出会う場所である」(傍線部エ)。たいせつなのは、だから、わたしたちの何がおなじか、でなく、何がちがうかを、まっすぐに語りうる言葉なのだ。
 
 

問一「観念の錠剤のように定義されやすい」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

内容説明問題。傍線部は②段落の具体例にある。その具体例を導く、①段落の「それぞれに独自の、特殊な、具体的な経験の言葉」(X)と「ただ「そうとおもいたい」言葉」(Y)との対比に着目したい。筆者の望ましいと考えるXは「公準化の手つづき」を通してYに陥る。そのYを比喩的に説明したのが、傍線部「観念の錠剤のように定義されやすい(言葉)」に当たる。ここから傍線部は、Xの否定(A)→「観念の錠剤」(B)→「定義=公準化の手つづき」(C)、という順で説明するとよいだろう。
 
特に「観念の錠剤」という比喩(直喩)の一般言語化である。一般に、比喩とは、筆者と読者の共有イメージを前提として、対象についての具体的イメージを喚起する表現技法である。その比喩の説明が求められている以上、本文の他の記述に頼っても無駄で、「筆者と読者の共有イメージ」を自前の言葉で的確に言語化する必要がある。もちろん、その言語化の過程で本文の文脈を参照することになる。
 
「観念」とは、主に否定的な意味で、具体的経験から乖離した思念(a)。「錠剤」とは、中身の成分は不明だが、効き目があるもの(b)。以上と、傍線部の直前で、傍線部と並列的な内容である「誰もが知ってて誰もが弁えないような言葉」(c)も踏まえる。解答は「個々の具体的経験の固有性に十分配慮せず(Aa)/その使用の効果のみが考慮され(Bb)/言葉の漠然とした意味が(c)/公的に決定される(C)/傾向があるということ」となる。
 
 
〈GV解答例〉
個々の具体的経験の固有性に十分配慮せず、その使用の効果のみが考慮され、言葉の漠然とした意味が公的に決定される傾向があるということ。(65)
 
〈参考 S台解答例〉
言葉が固有の具体的経験と切り離され、内実の不明瞭なまま社会で通用しやすい抽象的で単純な意味に固定されがちだということ。(59)
 
〈参考 K塾解答例〉
個々の具体的な経験と切り離され、全体的で抽象的な理念・枠組みとなった言葉は、深く理解されないまま自明なものとして受容されやすいということ。(69)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
抽象性や一般生の高い言葉は、個人的で固有な経験から切り離されて、具体性を伴わない観念的で空疎な語としてとらえられやすいということ。(65)
 
〈参考 T進解答例〉
人の具体的な経験の裏付けを欠いたまま、人々が何となく納得する、きれいにまとめられた流通しやすい抽象的な内容を、語義として認められがちだということ。(73)
 

問二「言葉にたいする一人のわたしの自律」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

内容説明問題。傍線部は②③の具体例を承ける④段落の二文目にある。その冒頭の2文は「一つの言葉がじぶんのなかにはいってくる。そのはいってくるきかたのところから、その言葉の一人のわたしにとっての関係の根をさだめてゆくことをしなければ、「言葉にたいする一人のわたしの自律」をしっかりとつくってゆくことはできない」となっている。ここから「言葉の一人のわたしにとっての関係の根をさだめてゆく(A)」→「言葉にたいするわたしの自律(B)」という因果関係を抽出できる。つまり、Aの論理的帰結としてのBを具体的に説明することが本問の要求である。
 
Aについては、問一で検討した①段落の内容(X)、および②段落「わたしがはじめてそれらの言葉をおぼえたのは…日々の光景のなかに開かれた街路の具体的な名をとおしてだった」を参照するとよい。Bについては、傍線部直後の2文「言葉にたいする一人のわたしの自律(X)がつらぬかれなければ、「そうとおもいたい」言葉にじぶんを預けて(Y)…。「そうとおもいたい」言葉にくみするということは(Y)、言葉を一人のわたしの経験をいれる容器(X)としてでなく、言葉を社会の合言葉のように(Y)…」のXとYの否定とから迫るとよい。
 
以上より、解答は「言葉を自らの具体的経験の文脈に位置づけ了解することで(A)//その言葉を自らと切り分け相対化し(Yの否定)/適切に使用することが可能になるということ(X)」となる。特に「相対化し〜適切に使用する」という表現で「自律」という動詞的名詞を表現していることに着目したい。内容的には、お仕着せの概念ではなく、自らの言葉として十分に肌に馴染ませてこそ、その着脱、適切な使用が可能になる、ということであろう。
 
〈GV解答例〉
言葉を自らの具体的経験の文脈に位置づけ了解することで、その言葉を自らと切り分け相対化し、適切に使用することが可能になるということ。(65)
 
〈参考 S台解答例〉
既存の言葉を安易に用いるのではなく、個々人の経験に基づき固有の関係性を築きながら一つ一つの言葉を獲得していくということ。(60)
 
〈参考 K塾解答例〉
社会で流通する言葉をうのみにせずに、自己の具体的な経験のなかで出会い、その経験を各自固有の方法で言語化していく主体的な姿勢。(62)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
ある言葉を具体的な状況でどのように獲得したかという固有の経験を重んじ、独立した一人の人間として自らの言葉との関係に責任をもつこと。(65)
 
〈参考 T進解答例〉
他者とは交換不可能な具体的経験を持つ人間の、固有の方法による努力を通じて、自身の経験と言葉が確かな結びつきを持つに至った、その人独自の言葉との関係。(74)
 

問三「『公共』の言葉、『全体』の意見というような口吻をかりて合言葉によってかんがえる」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

内容説明問題。「『公共』の言葉、『全体』の意見というような口吻」については、本文冒頭「『公共』の言葉や『全体』の意見というレベルに抽象して引きあげてしまうとき、そうした公準化の手つづき」を踏まえて一般化し、「公準化された言葉(a)」とする。「合言葉」については、傍線一文の次文「合言葉としての言葉は、その言葉によってたがいのあいだに、まずもって敵か味方かという一線をどうしようもなく引いてしまうような言葉(b)」を踏まえる。以上を踏まえ、傍線部を「彼我を二分する(b)/公準化された言葉に(a)/依存して/かんがえる」(A)と換言することができる。
 
ただ、これだけでは要素が不足するし、「何を」かんがえるのか、不明である。ここで「合言葉」(Y)に対する、望ましい言葉のあり方(X)が、本文全体を通して想定されていることに留意したい。特に、本問の該当箇所で「合言葉」という言い方に対応するXを探すと、「差異の言葉」(⑥⑦)が浮かび上がる。それについての説明「たがいのあいだにある差異(c)/言葉とはつまるところ、一人ひとりのわたしにとってひつような他者を発見すること(d)」(⑦)を踏まえ、また冒頭に戻って、言葉は本来「具体的な経験」に根ざしていること(e)を想起したい。以上から、ここでのXを「個々の経験に基づく言葉の差異に配慮し(ce)/他者理解に向かう(d)」とし、「Xではなく」とし先のAにつなげたらよい。
 
また「何を」については、傍線直前に「たがいにもちあえる「共通の言葉」をのぞみながら」とあり、先のXで「他者理解」としたことから、それと対応させて「他者をかんがえる/他者を理解した気になる(実際はそれに及ばない)」という意味で捉えるとよいだろう。以上より、解答は「個々の経験に基づく言葉の差異に配慮し他者理解(→相互理解)に向かうのではなく//彼我を二分する公準化された言葉に依存し(他者を)理解した気になるということ」となる。
 
 
〈GV解答例〉
個々の経験に基づく言葉の差異に配慮し相互理解に向かうのではなく、彼我を二分する公準化された言葉に依存し理解した気になるということ。(65)
 
〈参考 S台解答例〉
社会全体で共有される言葉のように装いながら、じつは他者を排斥し仲間内のみで通じ合う独善的な言葉で考えているということ。(59)
 
〈参考 K塾解答例〉
敵か味方かという区別をもとに、味方にのみ通用する抽象的な言葉を社会に公認されたものとして正当化し、差異を認めない偏狭な考えに陥ってしまうこと。(71)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
社会全体で共有される言葉のように装いながら、ある言葉を認めるか否かで敵、味方を分かち、仲間内の符牒のような言葉で物事を考えること。(65)
 
〈参考 T進解答例〉
相互理解をもたらす共通の言葉のようで実は社会を敵と味方に分断する、空疎な抽象語を安易に信じて使う者同士が結託し、独善的な思考を進めているということ。(74)
 

問四「一つの言葉は、そこで一人のわたしが他者と出会う場所である」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。(60字程度)

内容説明問題。傍線部を「一つの言葉=そこに(A)/触れることで//(わたしは)他者に(B)/出会う」とし、AとBを具体化すればよい。Aについては、前問で検討したことを再利用して「個々の経験を反映し(①)/無数の差異を含む一つの言葉に(⑦)」とする。Bについては、傍線直前部「わたしたちは言葉をとおして他者を見いだし、他者を見いだすことによって避けがたくじぶんの限界をみいだす」を参照する。ここで「じぶんの限界」という表現をそのまま使っても意味が伝わりにくい。そこで、さらに遡り「一つひとつの言葉をとおして、わたしたちがいま、ここに何を共有しえていないかを確かめてゆく力を、じぶんにもちこたえられるようにする」を参照するとよい。つまり「じぶんの限界」とは「他者の決定的な分からなさ=他者の他者たるゆえん=他者の絶対的他者性」ということである。
 
ただ、この「じぶんの限界=他者の絶対的他者性」は、「出会い」という言葉のニュアンスからしても、傍線部に続く本文のポジティブな締め(「たいせつなのは…何がちがうかを、まっすぐ語りうる言葉なのだ」)からしても、決してネガティブな意味ではない。それを踏まえた上で、以下のように解答した。「個々の経験を反映し無数の差異を含む一つの言葉に触れることで//自己と異なる他者の絶対的他者性の/豊かさを/見出すことができるということ」。
 
 
〈GV解答例〉
個々の経験を反映し無数の差異を含む一つの言葉に触れることで、自己と異なる他者の絶対的他者性の豊かさを見出すことができるということ。(65)
 
〈参考 S台解答例〉
人は本来、言葉を通し自他の間にある様々な差異を直視することで、自己の限界を見いだし他者と向き合い生きるものだということ。(60)
 
〈参考 K塾解答例〉
言葉は個々の具体的な経験にもとづくものであり、一つひとつの言葉を介して自他の差異を自覚することは、他者との関係性の構築につながるということ。(70)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
言葉はそれを通して他者との同一性を探る場ではなく、自己との差異をみいだすことによって、自己の限界や本質を知るための場だということ。(65)
 
〈参考 T進解答例〉
経験と固有の結びつきを持つ言葉を通して、自分に必要な、共有し得ないものを持つ他者を、さらには自分の限界を見出し、相互の差異の尊重に至るということ。(73)