〈本文理解〉

関連 2015東大国語/池上哲司(同出典)↓↓
https://note.com/pinkmoon721/n/nb9077f40402f

関連 2019九大国語/上田薫『人が人に教えるとは』↓↓
https://note.com/pinkmoon721/n/n1e4625061e48

〈本文理解〉
出典は池上哲司『傍らにあること 老いと介護の倫理学』。結びが教育論に帰結するのは(最終設問もそれに対応する)、前年の同大学第一問と同じパターン。

①段落。サッカー、ラグビー、あるいは野球の場合でも、熱狂的なファンはいるもので、贔屓のチームの勝敗にそれぞれ一喜一憂する。なかには、ただただ自分の応援するチームの勝利を願って、そのためなら相手チームに不利益になることをすべてよしとする者さえいる。…逆に、贔屓チームの不利になることは一切が悪であり、そのような行為をする者は端的に不正を為す者となる。…

②段落。「この場合」(傍線部A)、善悪は最初から決定されている。自分たちが善であり、相手方が悪である、と。なにか共通の基準にしたがって善悪が判断されるのではなく、自分が属するがゆえに自分たちが善であるという、無茶苦茶な発想が貫徹される。…基準は共通に適用されはするが、その基準を決めるのは自分たちだけであり、それも自分たちに都合のよいように基準が作られる。善悪の区別だけがあらかじめ決まっていて、それに合わせて基準が定められ、ときには改変される。ここでは「基準の一定性」(傍線部B)などということは、まったく顧みられない。自分たちは善、相手方は悪といった固定した枠があるだけである。いや、正確に言うなら、それは自分たちと自分たちの役にたつものが善、それ以外が悪という枠組みである。

③段落。これは、敵か味方かという発想である。味方でないものは敵、敵でないものは味方というきわめて明快で単純な区別である。…「重要なのは、誰が敵かの誰ではなくて、味方ではない「敵」が誰かである」(傍線部C)。自分以外の者の位置付けは、自分にとって敵となるか味方となるか、その一点のみによる。したがって、善悪の固定した枠といっても、枠が固定されているだけであって、悪という枠に誰が振り分けられるかは一定していないし、状況次第である。

④段落。それなのに、「相手チーム、あるいはその応援者に対する憎悪と言ってよいほどの態度に見られるしつこさ、激しさ」(傍線部D)はどこから生じてくるのだろう。試合中であれば、敵と味方という立場が設定され、それによって判断が下されることも理解はできる。しかし、試合が終了すれば、この枠組みも解消され、敵も味方もなくなるはずである。だが、実際はそうならない。…試合が終わっても、敵は依然として敵なのである。

⑤段落。ここでは、試合中にのみ有効な枠組みが、試合の外においても働いていると言える。本来しゃしゃり出てきてはならない領域にまで、その敵か味方かという発想が不当にも越境してきているのである。では、なぜこの越境が起こるのか。それは、ある枠組み、基準の絶対化ということから生じる。一般的に言って、基準にはそれぞれ有効期限というものがある。換言すれば、ある基準が有効なのは、ある一定の条件のもとにおいてである。

⑥段落。しかし、しばしば、われわれはその条件を忘れる。いや、意識して無視する。…それぞれの場合の条件を考慮して、その条件に合った基準を選択するためには、その状況に対して一定の距離を保っていなければならない。ところが、この距離を保つということが難しく、われわれはその状況に埋没してしまう。そして、この埋没によって、基準が絶対化されることになる。

⑦段落。もう一度球技場に戻ろう。自分の応援しているチームが試合終了直前、劇的な逆転勝利を収めたときなど、われわれは感激し、隣の見知らぬ人と肩を組み、応援歌を絶叫する。その時われわれは状況に埋没し、勝利の喜びに酔っている。しかし、そこでは敵と味方という区別は必ずしも不可欠ではない。重要なのは、われわれの勝利ということである。…「勝者/敗者という対と、敵/味方という対とは、次元が異なっている」(傍線部E)。ところが、関心が勝敗から敵味方関係へと移動すると、そこに状況への埋没が生じてくる。

⑧段落。試合は勝つときもあれば、負けるときもある。その限りで、今日のわれわれの勝利は今日だけのことである。それに対して、勝利に興奮し気勢のあがった、この「われわれ」の充実は圧倒的である。ここでは、人々が同じ勝利を喜び、同じ敗戦を悲しむ。この同一性がわれわれを強く魅了する。こうして、「われわれ」であることが目的となる。しかし、その「われわれ」が存在するのは、実は、きわめて限られた時間でしかない。(試合中とその前後)。

⑨段落。実現する「われわれ」の時間が短ければ短いほど、われわれはその実現に力を注ぎ、幻想でしかない一体化に専念する。一体化の幻想を真実として受け入れ、その実現に向けて全力を挙げる者が味方であり、それを阻む者が敵である。したがって、敵か味方かという枠組みは、その都度の試合を超えて、全生活を覆うことすらある。こうして敵か味方かというひとつの基準が絶対化されることになる。

⑩段落。この絶対化は、その及ぶ範囲に限られず、基準を用いる者に対しても関わってくる。というのは、基準を批判することをしない者、できない者は、「すでに基準を用いる者ではなく、基準に支配される者」(傍線部F)だからである。一旦絶対化した基準は、その後は自動的にさまざまな下位基準を産出し、その下位基準によって細部にわたるまで、その絶対的基準を信奉するものの生を支配する。応援のとき赤い帽子を被るということが決められられれば、赤い帽子を被ってこなかった者は、それだけで敵である。なぜなら、まさに決められたことに反しているからであり、それ以外の理由など必要ない。

11段落。これは学校の生徒管理の場面でも見られることである。まさか敵か味方かの基準・区別が支配しているとは思えないが、それに近い管理する者/管理される者の基準・区別が支配していることは間違いない。したがって、この基準が絶対化されてしまえば、つまり、生徒が管理の対象であるということが認められてしまえば、後は同じである。細かい規則がつぎつぎと作られ、管理するための管理が行われ、そこに支配している基準に疑問をもち、反抗する者は理由を問わず罰せられる。そのような学校で生徒たちが荒れるのは当然である。まず最初に為すべきは、管理体制を強化することではなく、絶対化されてきた基準に距離を取ることである。基準に批判的に向かうことである。つまり、これまで奪われていた、放棄してきた、「視点の自由」(傍線部G)を回復し、固定された枠組みを壊すことである。

問一「この場合」とあるが、それはどういう場合か、70字以内で説明せよ。

内容説明問題。前段から指示内容をまとめる問題だが、まずは傍線部の後ろのつながりを確認するのが基本。「この場合(傍線部)/善悪は最初から決定されている(着地点)」につながる指示内容にする。前①段落は具体的記述からなるが、その中でもより抽象度の高い表現を選び構成する。また、話の前提に遡り、着地点までもらさず書き込むことが重要である。「チームの対戦(前提)→贔屓チームの勝利を願う→相手チームの不利の一切は善/贔屓チームの不利の一切は悪(→着地点)」という流れでまとめる。

〈GV解答例〉
チームの対戦において、贔屓チームの勝利を願って、相手チームの不利になること一切を善とし、逆に、贔屓チームの不利になること一切を悪とする場合。(70)

〈参考S台解答例〉
自分の応援するチームの勝利を願い、相手チームに不利益になることをすべてよしとし、贔屓チームの不利になることは一切が悪であると決めつける場合。(70)

〈参考 K塾解答例〉
贔屓チームの勝敗に一喜一憂し、自分の応援するチームの勝利のためには相手チームの不利益になることをすべてよしとする、熱狂的なファンの場合。(68)

〈参考 Yゼミ解答例〉
スポーツの試合で、贔屓のチームの有利や相手の不利になることはすべて肯定され、贔屓のチームの不利や相手の有利になることはすべて否定される場合。(70)

 

問二「基準の一定性」とあるが、それはどういうことか、説明せよ。(三行)

内容説明問題。一文で把握すると、「ここでは/基準の一定性(傍線部)…は/…顧みられない」となるから、傍線部の説明は、前後の文脈での説明(X)を裏に返す形でまとめればよい。ならばXは「ここ」を遡って、「基準が一部の利害関係者(←「自分たち」)の善悪の判断により/恣意的に決定され改変される(性質)」となる。このXの否定から続けて、傍線部自体の語義を踏まえ「公的(←「自分たち」の逆)に定められた基準を/全ての関係者に等しく/恒常的に適用すること(一定性)」と置いて仕上げとする。

〈GV解答例〉
基準が一部の利害関係者の善悪の判断により恣意的に決定され、改変されることを認めず、公的に定められた基準を、全ての関係者に等しく、恒常的に適用すること。(75)

〈参考 S台解答例〉
自分たちは善、相手方は悪という善悪の区別に囚われず、自分たちの都合のよいように基準を改変せず、自他に共通する公平な基準を定め固定すること。(69)

〈参考 K塾解答例〉
ある一定の条件のもとで有効性を持つ基準を、自分に都合よく変えることなく、敵味方という枠組みに囚われず、両チームに共通して適用すること。(67)

〈参考 Yゼミ解答例〉
善悪の判断が、人や状況によって異なったり恣意的に変更されたりすることなく、すべての人や場合に共通する普遍的な善悪の判断基準があり、それが不変であるということ。(79)

問三「重要なのは、誰が敵かの誰ではなくて、味方でない「敵」が誰である」とあるが、それはどういうことか、説明せよ。(四行)

内容説明問題。はじめに「重要なのは/Xではなく/Yだ」を「Zにおいては(前提)/Xよりも/Yが重要だ」と変換しておく。「重要なのは〜」というのは、「〜は重要だ」とした方が書きやすい。また、XとYという二項の重要性を比べる場合、同じ土俵(カテゴリー)に乗せられるはずだ(例えば、彼女の美しさをキリンと比べるのは失礼以前の問題であろう)。
この視点があれば、あとは容易である。Z「チームの対戦で贔屓チームに過剰に肩入れする場合」(①②)、X「属人的な性格に基づく区別」(傍線部の抽象化)、Y「初めに自分にとって敵か味方かの単純明快な区別がある→状況に応じて人を振り分ける二分法的な仕方」(③、主に傍線部後)とまとめられる。当然、XとYは対比的に把握して言葉を選ぶ。

〈GV解答例〉
チームの対戦で贔屓チームに過剰に肩入れする場合には、属人的な性格に基づく区別よりも、初めに自分にとって敵か味方かの明快単純な区別があり、状況に応じて人を振り分ける二分法的な仕方が重視されるということ。(100)

〈参考 S台解答例〉
自分以外の者への位置づけは、自分にとって敵となるか味方となるかだけであり、善悪の枠が固定されているだけで、悪という枠が誰に振り分けられるかは一定せず、状況次第で味方でない者が敵となるということ。(97)

〈参考 K塾解答例〉
敵か味方かという発想において重視されるのは、特定のチームを敵とみなすことではなく、自分の属する味方チームではないすべてのチームに対して、悪という枠を状況によって割り振ることであるということ。(95)

〈参考 Yゼミ解答例〉
敵か味方かという二項対立的発想においては、普遍的な善悪の判断基準に照らして悪を為す者を敵と見なすのではなく、自分がつねに善であるという前提に基づいて、自分の味方ではない者をすべて敵と見なすことになるということ。(105)

 

問四「相手チーム、あるいはその応援者に対する憎悪と言ってよいほどの態度に見られるしつこさ、激しさ」とあるが、なぜそういう態度が生じるのか、理由を説明せよ。(五行)

理由説明問題。傍線部は④段落の冒頭にあり、一文で把握すると「それなのにDはどこから生じてくるのだろう」と疑問形になっている。その疑問に対する考察となっている⑥段落までが解答根拠になる(⑦段落は「もう一度球技場に戻ろう」で始まる)。もう一つ留意点。理由の着地点にくる形容表現が「しつこさ」「激しさ」の2つあり、それらの意味する内容は重なりが少ないので、両者に対応する2つの要素を答えとしてあげる必要があるだろう。

まず、⑤段落冒頭「試合中にのみ有効な枠組み(=味方は善/敵は悪という枠組み)が、試合の外においても働いていると言える」(a)に着目すれば「しつこさ」の理由の核ができるだろう。さらにaは「なぜこの越境が起こるのか/それは、ある枠組み、判断基準の絶対化ということから生じる(b)」と続く。なぜbの態度がとられるのかというと、⑥段落「それぞれの場合の条件を考慮して、その条件に合った基準を選択するためには、その状況に対して一定の距離を保っていなければならない/ところが、この距離を保つということが難しく、われわれはその状況の中に埋没してしまう」(c)からだという。以上より、「〜状況に埋没し(c)/基準を絶対化する傾向のある人間は(b)/敵・味方の区別を試合後まで持ち込むから(a)」(X)とすると、「しつこさ」の理由は構成できる。

では「激しさ」は? bの「判断基準の絶対化」もその前提ではあるが、まだ弱い。ここでの「激しさ」は相手とその応援者、すなわち「敵」に対する「憎悪と言ってよいほどの」激しさである。広く④段落以前も視野に入れたときに、「敵か味方かの発想」(③冒頭)は「善悪の枠」(②③)という倫理的な基準と呼応するものであった。つまり「(c)〜基準を絶対化する傾向のある人間は(b)/敵・味方の区別に善悪の倫理的基準を重ねるから」(Y)として「激しさ」の理由にする。XとYを合成して解答にする。

〈GV解答例〉
状況に対して一定の距離を保ち、場面に応じた条件を考慮するよりも、状況に埋没して自己の基準を絶対化する傾向のある人間は、試合における敵・味方の区別を、本来その区別が解除されるはずの試合後の領域にまで持ち込み、そこに善悪の倫理的基準を重ねようとするから。(125)

〈参考 S台解答例〉
試合中にのみ有効な敵と味方という枠組みが、本来適用してはならない領域にまで、越境してきているからであるが、それは条件に合った基準を選択するための状況に対する一定の距離を保つことが難しく、状況の中に埋没することで判断基準を絶対化してしまうからである。(124)

〈参考 K塾解答例〉
条件に合った基準を選択するには、敵味方に分けて考える状況に対して一定の距離を保つ必要があるが、その状況の中に埋没してしまうことで基準が絶対化されてしまい、試合中にのみ有効な善悪という枠組みが試合の外においても働くから。(109)

〈参考 Yゼミ解答例〉
本来、相手チームとその応援者が敵であるのは試合中に限られるはずなのに、敵か味方かの判断基準が有効になる条件を考慮して状況を相対化することは難しいために、われわれは意識的にその条件を無視して敵か味方かの基準を絶対化し、相手チームとその応援者を、試合後も敵と見なしつづけるから。(137)

問五「勝者/敗者という対と、敵/味方という対とは、次元が異なっている」とあるが、それはどういうことか、説明せよ。(六行)

内容説明問題(対比)。「勝者/敗者という対」(X)と「敵/味方という対」(Y)との違いを具体的に説明する。解答範囲は、傍線部のある⑦段冒頭「もう一度球技場に戻ろう」以下⑨段落までの意味段落(⑩段落からは「球技場」の話から離れる)。Xは⑦段落の傍線部前と⑧段落の「それに対して」より前の部分、Yは⑧段「それに対して」以下⑨段落終わりまでの部分、がそれぞれ解答根拠になる。

情報の少ないXから整理すると「勝敗による感情の起伏(X1)/試合の場に限る(X2)」となる。一方、それとの対比でYの中心的要素は「敵か味方かの基準の絶対化・全生活を覆う(Y1)/「われわれ」の試合後までの持続(Y2)」となる。これに、Y1とY2をつなぐ要素として「「われわれ」の充実を維持する味方/阻む敵」(Y3)を加えた。当然、本文においてYの記述が中心なので、解答記述もYの方が重くなる。Yとの対比からXに「(その場限りで)相手への悪感情を伴わない」(X3)を足してバランスをとっておいた。

〈GV解答例〉
「勝者/敗者」は、試合の勝敗に即して現れ感情の起伏を付随するが、定義上、それは試合の場に限り、相手への悪感情も伴わない。一方、「敵/味方」は、試合中に現れる「われわれ」のもたらす魅惑的な充実を試合後も維持しようと励む味方と、それを阻む敵の区分だが、それは試合を超えて絶対化し全生活を覆うことすらある。(150)

〈参考 S台解答例〉
前者は、試合の結果に左右される一時的で相対的な区別であるが、後者は、自分とそのチームの一体化の幻想を真実として受け入れ、その実現に向けて全力を挙げる者が味方であり、それを阻む者が敵であるため、敵か味方かという枠組みはその都度試合を超えて全生活を覆うこともあり、その区別の基準は絶対化されるという違い。(150)

〈参考 K塾解答例〉
勝者か敗者かという枠組みは、試合開始から終了までの時間あるいはその前後を含んだ時間にのみ適用され、有効範囲が有限の枠組みであるが、敵か味方かという枠組みは、その都度の試合を超えて、全生活をも覆うことすらあり、有効範囲が無限の枠組みである、という点でまったく違ったものであるということ。(142)

〈参考 Yゼミ解答例〉
勝者か敗者かは試合の結果によって生じる枠組みであり、その日だけに限られる。これに対して敵か味方かは自分を基準にした枠組みであるが、自分に味方しない者はすべて敵になる。本来は後者もその日限りの枠組みであるが、敵か味方かの基準が絶対化されると、試合後、さらには生活のあらゆる場面においてもその枠組みが適用されるという点で、前者と異なる。(166)

問六「すでに基準を用いる者ではなく、基準に支配される者」とあるが、それはどういうことか、説明せよ。(五行)

内容説明問題。まず、段落頭「この絶対化」=「敵・味方の基準の絶対化」(前提P)、である。そうなった場合、Xは「すでに基準を用いる者(Y)ではなく/基準に支配された者(Z)」になる、ということである。Xは少し縮めて「敵・味方の基準を批判する意思や能力を欠いた者」とする。Yについては、スペースをさかずに「用いているつもりがそうなっていない」というニュアンスが出るようにする。

その上でZの説明だが、傍線部の後の文より「P→下位基準が自動的に産出(Q)→下位基準が細部まで絶対的基準の信奉者(=X)の生を支配(R)」となる。ただ、そのまま「支配」ではなく、「支配」のメカニズムを具体化したいところだ。そこで、同段落の最後にある具体例を参照する。その例は「赤い帽子を被ること(下位基準)が決められる→赤い帽子を被らなかったものは敵とされる」ということである。ならば、基準の信奉者(=X)はどうするだろうか。当然、「基準に過剰適応し、敵にならないことを第一に、体制従属的に振る舞う」はずである。これが先のRの言い換え内容。

以上より、「P→Xは/自らの意向に関わらず(Y)→絶対基準から産出された下位基準(Q)/に縛られ敵味方に振り分けられる(③)→敵とされるのを過剰に恐れて体制従属的になる( Z=R)」とまとめられる。

〈GV解答例〉
敵・味方の基準が一旦絶対化されると、その基準を批判する意思や能力を欠いた者は、自らの意向に関わらず、絶対化された基準から自動的に産出される下位基準に縛られ、敵か味方かに自動的に振り分けられるので、敵とされるのを過剰に恐れて体制従属的になるということ。(125)

〈参考 S台解答例〉
敵か味方かという基準は、一旦絶対化すれば、自動的にさまざまな下位基準を産出するため、基準を批判することをしない者、できない者は、その基準を信奉することで、基準を活用する者ではなく、その下位基準によって細部にわたるまで、自らの生を支配されるということ。(125)

〈参考 K塾解答例〉
敵か味方かという基準の絶対化が生じると、基準を主体的に用いることはもはやできなくなり、絶対化した基準によって自動的にさまざまな下位基準が産出され、その下位基準によって、その絶対的基準を信奉する者の生は細部にわたるまで支配されてしまうということ。(122)

〈参考 Yゼミ解答例〉
敵か味方かという基準が絶対化すると、自動的にさまざまな下位基準を産み出し、その基準を信奉する者の生を支配するが、基準が絶対化された状況下では、批判や条件の確認は行われないため、基準を司っていたはずの者であっても、基準に服従せざるをえなくなるということ。(126)

問七「視点の自由」とあるが、具体的にはどういう自由か、説明せよ。(四行)

内容説明問題。最終11段落は、これまで展開してきた「敵・味方の基準の絶対化」を、教育現場の「管理する者・管理される者の基準の絶対化」に応用する。この絶対化により、前者の場合と同様、細かい規則が内容を問われないまま学校を支配し、生徒たちが荒れる原因となっている、と筆者は見ている。そこで筆者は「最初に為すべきは…絶対化されてきた基準に距離を取ることである。基準に批判的に向かうことである」とし、それを「つまり」で承け、「視点の自由」(傍線部)の回復の必要性を説くのである。
以上より、前提を踏まえて解答を作ると、「学校現場において教師と生徒が(視点の主体)/絶対視されてきた管理する者・管理される者の基準と/それに付随する諸細則から距離を取って批判的に捉え直すという自由」(仮)となる。ただ、これではまだ概略(消極的規定)を述べただけで、「視点の自由」の中身(積極的規定)に触れてないような感じがする。

そこで「距離を取る」という表現を手がかりに、⑥段落の以下の記述に戻らなければならない。「それぞれの場合の条件を考慮して/その条件に合った基準を選択するためには//その状況に対して一定の距離を保っていなければならない」。ここで「XのためにはY」は「YしてX(目的)」に直すことができる。これより、先述の(仮)の「〜距離をとって批判的に捉え直す(Y・消極的規定)」の後に、「場面に応じて条件を考慮し、その都度適切な基準を選択する(X・積極的規定)という自由」とつないで、最終解答とする。

〈GV解答例〉
学校現場において教師と生徒が、絶対化されてきた管理する者・管理される者の基準とそれに付随する諸細則から距離を置いて批判的に捉え直し、場面に応じて条件をを考慮し、その都度適切な基準を選択するという自由。(100)

〈参考 S台解答例〉
管理する者と管理される者という基準・区別が絶対化しているときに、絶対化されてきた基準に距離を取り、基準に疑問をもち批判的な姿勢を取ることで、固定されてきた枠組みに対して自在な見方ができるという自由。(99)

〈参考 K塾解答例〉
管理する者/管理される者の基準・区別が支配している学校の生徒管理の現状に対して、そこてま絶対化されてきた基準に距離を取り、批判的に向き合うという、学校という場に関わる者たちが持つべき自由。(94)

〈参考 Yゼミ解答例〉
学校側が管理する者、生徒側が管理される者という枠組みを当然としてきた固定的な基準から距離を取り、そのなかで作られたさまざまな規則を批判的に見直すことによって、従来の枠組みに囚われない学校のあり方を模索していく自由。(107)