〈本文理解〉

出典は福田恆存『芸術とはなにか』(1950)。著者は劇作家、演出家。保守派の論客としても有名。
 
①段落。演劇はあらゆる芸術の母胎であるようにおもわれる。ドラマはタブローに対立する。タブローは《見られるもの》であり、「ドラマは《為されるもの》であります」(傍線部(1))。それは舞台においてなにごとかが為されるというだけではない。…ドラマが真に《為されるもの》であるゆえんは、それを為す主体が観客であるからであり、為される場所が舞台ではなくて劇場であるということにほかならない。演劇のリアリティは、舞台のうえに、プラセニアムのかなたにあるのではなく、劇場に、その平土間にあるのです。…近代劇はそれを逆にプロセニアムのかなたに押しこめてしまいました。こうなれば、それは映画にかなわない。…演劇芸術は映画とはまったく対蹠的なものです。にもかかわらず、現代では演劇と映画とは双生児として併称されております。そのことこそ近代の演劇がいかに堕落したかを物語る明白な証拠ではないでしょうか。
 
②段落。有名な、少々陳腐になったたとえ話があります。『ピーター・パン』という童話劇のなかにティンクという妖精が死ぬ場面が出てまいりますが、このときピーター・パンは観客席の子供たちにむかって、もしきみたちが妖精の存在を信じるならティンクは生きかえる、妖精がいるとおもう子供は手をたたいてくれと頼みます。子供たちはティンクを生かしたい一心で夢中になって手をたたく。これがもし映画だったらどうか。もし映画だったら、たとえ子供たちが手をたたかなくとも、あとにくりひろげられる筋書はすでにフィルムにおさめられ、未来は映写機のなかにしまわれているのです。…子供が手をたたくのを待っている舞台上のピーター・パン、それに応ずるように拍手する子供たち、そしてにっこり笑ってそれにこたえるピーター・パン──「この呼吸は映画では不可能です」(傍線部(2))。小説でもだめだ。それこそ演劇の独擅場ではないか。
 
③段落。この一事で明瞭ですが、演劇をはこんでいる主体は俳優ではなく観客であります。…俳優とはギリシャ語で《答えるひと》という意味です。…俳優が答えるひとなら、そのほかに問うひとがいたはずです。それが観客だ。…
 
④段落。俳優は神事や縁起について説明し、神秘の謎を解くひとだったのですが、それなら他のひとたちはそれについて説明を求めるというたんなる受動的な存在だったかというとそうではなく、問うというのは、とりもなおさず、精神の運動開始にほかならなかった。…問いとは精神の可能性について精神みずからが発するものであり、答えとはその限界にまでゆきつくことであります。そこでは問いがそのまま答えにならなければならない。中世の神秘的や奇跡劇は、それをたんなる宗教問答におきかえてしまったのです。…
 
⑤段落。近代劇も同様であります。劇場の平土間は死んだように静かになってしまった。…わずかに保たれていることは、ものまねの快感です。ものまねは演技であって演戯ではない。それは日常生活そのままを演ずることであり、杯をもつ手つきとか落胆した様子とか、そんなことがいかにも真に迫っているということで観客は感心する。ものまねをやる楽しみ、そしてそれを見てわかる楽しみ──「そのくらいなら、見せられるより見せる側にまわったほうがよっぽどおもしろい」(傍線部(3))。…鑑賞ということに主体性が欠ければ──すなわち鑑賞者に精神の自由を許さぬ作品が氾濫すれば──だれもかれも造る側にまわりたくなるのであります。主体性とは生きる自覚のことであり、誰しもそれを欲しているのですから。
 
⑥段落。しかし、今日では、劇作家も俳優も、観客にとって自分たちが芸術創造に参与するための道具にすぎないということを自覚せず、逆に観客を自分たちの道具にしております。稽古場だけでははりあいいがないから、お客を呼んできて鏡にしようというのだ。今日の俳優はことごとくこの種の自我狂におちいっているらしい。俳優ばかりではない、小説家も画家も、政治家も革命家も、みんなそうだ。そして、演劇の観客も、小説読者もその例外ではない。あたりまえです──そういう観劇法や読書法を教えたのが近代芸術というものでありますから。観客は舞台のうえに生きた人間を──いや、自己の似顔を──見つけだそうとしている。かれらは薄闇でいじきたなく眼を光らせ、すこしでも自分らしきものを見いだし、それをふとのろにしまって帰ろうとねらっている。絵を見ても彫刻を見ても、なにかを自分のものにしようと構える。「教養とは、そういう自我の堆積にほかなりません」(傍線部(4))。自我、自我、自我──かれらが狂気のように求めているものはそれだ。
 
⑦段落。観客たちの顔をごらんなさい。おたがいの顔を見ようとせず、また、他人に自分の顔をのぞかせようともしない。劇場においてさえ、ひとびとは堅く殻をとざして自分のうちに閉じこもり、舞台から他人が得られぬなにものかを自分だけが手にして帰りたいと願っている。劇場ばかりではない。こういう光景は…現代ではいたるところに見受けられはしないでしょうか。そしてそれは小説において…もっともきわまれるものとなっております。「現代では、芸術の創造や鑑賞のいとなみにおいてさえ、だれもかれも孤独におちいっている」(傍線部(5))。が、なにより重要なことは、この自分たちの孤独を気づかずにいるということだ。いや、孤独を自覚することすら、孤独からのがれる機縁とはならず、それを深めることによって自我を富ましめようとし、さらに芸術がそのために利用されるというしかけになっております。
 

問一「ドラマは《為されるもの》であります」(傍線部(1))はどういうことか、説明せよ。(三行)

内容説明問題。「ドラマ(演劇)」=《為されるもの》」を「タブロー(絵画)」=《見られるもの》」との対比で説明する。まず傍線部に続く部分(①)から、後者が「俳優が主体/舞台が見られる場」であるのに対し、前者は「観客が主体/劇場が為される場」であることを把握するのは容易。これに加え、「演劇ー観客ー劇場」の内容について次段落以降から具体化するとよい。すなわち、②段落から「観客は俳優と呼応しながら演劇を展開する」という内容、③段落から「観客は俳優に問い、俳優がそれに答える」という内容を抽出する。以上より、解答は「演劇の主体は舞台で演じる俳優ではなく/問いを発する観客であり/劇場を場として/両者が呼応しながら/演劇は動的に展開していくものであるということ」となる。解答の締めの箇所を傍線部の「主ー述」と対応させ、「ドラマ=演劇」は「為されるもの=動的に展開するもの」としたのがミソである。
 
〈GV解答例〉
演劇の主体は舞台で演じる俳優ではなく、それに対峙し問いを発する観客であり、劇場を場として両者が呼応しながら、演劇は動的に展開していくものだということ。(75)
 
〈参考 S台解答例〉
演劇は、舞台での出来事を観客がただ見るのではなく、舞台で何かが為されながら、演劇を為す主体が観客であり為される場所が劇場であることで、リアリティを持つということ。(81)
 
〈参考 K塾解答例〉
本来の演劇は、観客が囲いこまれた舞台を静かに眺めるものではなく、劇場全体において、主体である観客が問い演者が応じるという動的な営為であるということ。(74)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
舞台上で繰り広げられ、観客に見られるだけのタブローとは異なり、演劇は、主体となる観客と舞台上の俳優との呼応によって劇場空間に立ち現れるものだということ。(76)
 
〈参考 T進解答例〉
演劇のドラマとは、劇場という場に身を置いて俳優と向き合う観客が、自己の精神の可能性を自己の精神に問い、その答を突き詰めようとする能動的な行為だということ。(77)
 

問二「この呼吸は映画では不可能です」(傍線部(2))のように筆者が言うのはなぜか、説明せよ。(三行)

理由説明問題。「この呼吸(X)」を演劇のものとして明確にした上で、映画をXの否定=Yとして説明するとよい。解答構文は「Xである演劇に対して//映画はYだから」となる。Xについては、傍線前部のピーター・パンと子供たちの記述「子供が手をたたくのを待っているピーター・パン、それに応ずるように拍手する子供たち、そしてにっこり笑ってそれにこたえるピーター・パン(a)/子供にしたって、一瞬の機を逸らしたらそれまでだ(b)」(②)。Yについては、ピーター・パンと子供たちとの比較で述べている箇所「もしこれが映画だったらどうか/筋書きはすでにフィルムにおさめられ、未来は映写機のなかにしまわれている(c)」(②)を参照する。この両方の記述を踏まえ、対比を明確にして、以下のようにまとめる。「俳優と観客が緊張感の中で(b)/呼応しながら(a)/事前の筋書きを書き換え(cの否定)/展開する演劇に対して//映画は予め収録された筋書きが決定事項として観客に提示されるものだから(c)」。
 
〈GV解答例〉
俳優と観客が緊張感の中で呼応しながら事前の筋書きを書き換え展開する演劇に対して、映画は予め収録された筋書きが決定事項として観客に提示されるものだから。(75)
 
〈参考 S台解答例〉
観客と俳優とのやり取りは、演劇のもつ観客と俳優の間の相互性によってはじめて達成されるものであり、決められた筋書きをただ一方的に進行する映画では達成できないから。(80)
 
〈参考 K塾解答例〉
観客の反応とは無関係に固定された物語を展開する映画には、時機を逃さぬ拍手を観客に促し以後の物語を進行させるという演劇のダイナミズムは生じてこないから。(75)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
演劇における観客と演者の呼応は、精神の動的で自由な相互作用があってこそのものだが、映画は、規定の筋書きを観客がただ受動的に鑑賞するだけのものだから。(74)
 
〈参考 T進解答例〉
俳優と観客とが直接対面できない映画では、俳優と観客の関係が筋書に影響与えることはなく、観客の反応とは無関係に規定の筋書が展開していくだけであるから。(74)
 

問三「そのくらいなら、見せられるより見せる側にまわったほうがよっぽどおもしろい」(傍線部(3))のように筆者が言うのはなぜか、説明せよ。(三行)

理由説明問題。「そのくらいなら」を具体化する。ここに消極的理由(A)がある。また「よっぽどおもしろい」という言い方は、本質的におもしろいというわけではない、ということだろう。あくまで「そのくらいなら」という条件の下、「見せらせる」よりはマシ、という相対的な理由(B)を説明すればよい。
 
Aについては、傍線前部(⑤)より、演劇が演技(ものまね)に留まるなら、ということ。加えてそれは、③段落までに述べられた演劇の望ましいあり方でない、つまり「見せられる」側である観客が主体性を喪失した状態であること、そのことはさらに、「精神の可能性について精神みずからが発する」問い(④)の機会を奪われた状況でもあること。以上をつないで、解答の前半部を「演劇が演技を見せるものに留まり/精神の可能性を問いかける/観客の主体性を発揮できないならば」とする。Bについては、傍線前部(⑤)より、「見せる側」の方が「ものまねの快感」がある分、まだマシだということ。あくまで相対的な理由にすぎないので、「見せる方が主体性があるから」といった本質的な理由を配するのは明確に誤りである。以上、前述の条件節からつなげて「(〜ならば)演じる側の方がものまねの快感を味わえる分楽しみが大きいから」とし、最終解答とする。
 
〈GV解答例〉
演劇が演技を見せるものに留まり、精神の可能性を問いかける観客の主体性を発揮できないならば、演じる側の方がものまねの快感を味わえる分楽しみが大きいから。(75)
 
〈参考 S台解答例〉
演劇で日常生活のものまねを見て楽しみを感じる程度のことであれば、鑑賞に主体性を欠くので、観劇するより、創造する方に主体性を感じ、精神の自由を認めることができるから。(82)
 
〈参考 K塾解答例〉
近代劇の観客は、日常を模倣するだけの舞台を見させられる受動的な存在に甘んじるよりも、舞台を作り出す側にまわりこんで、わずかに主体性を補おうとするから。(75)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
日常生活をそのまま演じる迫真性を競うだけの近代劇においては、鑑賞する側よりも演じる側の方が少なくともまだ、生きる自覚として自由な主体性を得られるから。(75)
 
〈参考 T進解答例〉
鑑賞者の精神の自由や主体的な生をないがしろにする近代劇では、観客ではなく日常生活のリアルなものまね程度で賞賛される俳優になる方がまだ快楽が得られそうだから。(78)
 

問四「教養とはそういう自我の堆積にほかなりません」(傍線部(4))について、筆者がここで言う「教養」とはどのようなものか、説明せよ。(二行)

内容説明問題。解答範囲は、近代芸術とそれがもたらす「自我狂」を批判した最終⑥⑦段落である。直接的には、「そういう」を具体化し、「自我の堆積」を「教養」の語義も踏まえた言葉で言い換えるとよい。「そういう」は、傍線前部「観客は…自己の似顔を見つけ出そうと/すこしでも自分らしきものを見いだし/なにかを自分のものにしようと構える(a)」(⑥)を承ける。また、その箇所は⑦段落「ひとびとは堅く殻をとざして自分のうちに閉じこもり(b)/舞台から他人が得られぬなにものかを自分だけが手にして帰りたいと願っている(a)」という記述とも重なる。さらに、ここでの主体は「現代ではいたるところに…見うけられはしないでしょうか」(⑦)ともあるように、近代(現代)人一般(b)を想定しているものである。そして「自我の堆積」については、「教養」の語義に寄せて本文最終文にある「それ(→孤独)を深めることによって自我を富ましめようとし(c)」という記述を利用すればよい。
 
以上より、解答は「近代の他人と隔絶された自我が(b)/あらゆる対象から抽出することに執着する(a)/自我を富ませる養分となるもの(c)」となる。
 
〈GV解答例〉
近代の他人と隔絶された自我が、あらゆる対象から抽出することに執着する、自我を富ませる養分となるもの。(50)
 
〈参考 S台解答例〉
あらゆるものから、他人には得られない、自分だけのなにものかを見いだし、自分のものとして集め、蓄積したもの。(53)
 
〈参考 K塾解答例〉
芸術から自己の独自性を探りだし獲得しようと競い合う経験が積み重なって成立した、近代的な観念の所産。(49)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
自己を発見し、高めることに異常なまでに固執して、自身に合致する観念や知識を文化活動から抽出したものの総体。(53)
 
〈参考 T進解答例〉
自分の個性と他者に対する優位性の証となり、自分だけが秘匿していると各人が思い込みたがる情報のようなもの。(52)
 

問五「現代では、芸術の創造や鑑賞のいとなみにおいてさえ、だれもかれも孤独におちいっている」(傍線部(5))はどういうことか、本文全体を踏まえて説明せよ。(五行)

内容説明問題。解答範囲は主に、問四と同じく、近代芸術とそれがもたらす「自我狂」を批判した最終⑥⑦段落となる。解答のレイアウトは、添加の副助詞「さえ」に着目すれば、「現代は一般的に孤独な状況をもたらすが(A)/本来孤独と対立するはずの芸術の創造や鑑賞においてさえ(B)/孤独な状況が蔓延しているということ(C)」というようになる。Aについては、なぜ「一般的に」そうなっているのか、という必然性を説明したい。つまり、「そういう観劇法や読書法(→お客を呼んできて鏡にしようとする→自己の似顔を見つけだそうとする)を教えたのが近代芸術というもの」(⑥)とあるように、「近代芸術」が「自我狂」をもたらし、現代人の孤独を深めている、ということである。
 
次にBについては、ここでの「芸術」とは、「近代芸術」とは異なる「あらゆる芸術の母体」(①)である「演劇」を核としたものであるということを明確にする。またその演劇は、③④段落にあるように「精神の可能性」を主体としての観客が問い、俳優が答えるという協働の営みである、すなわち、孤独の上に成り立つ「近代芸術」の対極にあることを明確にする。続けてCについては、その演劇を母体とした芸術の創造や鑑賞でさえ、最終文に「それ(孤独)を深めることによって自我を富ましめようとし、さらに芸術がそのために利用される」とあるように、孤独を深める手段に成り下がっている、と指摘する。また、その前提として現代では「近代芸術」の影響下、観客の主体性が失われている(⑥)という内容を加える。
 
以上より、解答は「近代芸術は孤独な自我が対象に自己の似顔を見出し、さらに孤独を深めるように促すが(A)/元来主体としての観客が精神の可能性を俳優に問い答えを得る演劇とそれを母胎とした芸術の創造と鑑賞さえも(B)/観客の主体性が奪われ、孤独を深める手段に成り下がっているということ(C)」となる。
 
〈GV解答例〉
近代芸術は孤独な自我が対象に自己の似顔を見出し、さらに孤独を深めるように促すが、元来主体としての観客が精神の可能性を俳優に問い答えを得る演劇とそれを母胎とした芸術の創造と鑑賞さえも、観客の主体性が奪われ、孤独を深める手段に成り下がっているということ。(125)
 
〈参考 S台解答例〉
近代芸術によって鑑賞者に精神の自由を許さなくなった現代では、日常生活だけでなく、芸術においても創造者は鑑賞者を自分たちの道具にして鑑賞者に自己を見ようとし、鑑賞者も芸術から他人が得られぬなにものかを自分だけが手に入れたいと願い、皆が自我を過剰に求めているということ。(133)
 
〈参考 K塾解答例〉
自由な精神の運動によって生み出される本来の芸術は、制作者と享受者の応答によって成立する主体的な営みであるが、芸術が日常の模倣と化した近代では、制作者も享受者も他と精神的に呼応することを拒絶し、自我を補強する材だけを芸術に求めようとしているということ。(125)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
現代人は自我に執着するあまり、鑑賞者と芸術家が呼応しあうはずの芸術においてすら、自分にとって価値あるものだけを得ようとしている。その結果、創造者も享受者も精神の自由や主体性を失って、誰もが個の中に無意識に閉じこもるようになってしまったということ。(123)
 
〈参考 T進解答例〉
芸術とは想像する者と享受する者が協同しながら精神の可能性を問い究めていく営為であったはずなのに、現代では両者とも己の時代に固執し、他者と絶縁して自身の個性や優位性の確認に躍起になっているということ。(124)