〈本文理解〉

出典は岡本太郎の随想『日本の伝統』(昭和31年)。
 
①段落。現実は残酷です。今日の若い世代に、古典芸術についてたずねてみてごらんなさい。
 
②段落。コーリンとか、タンニュー、トーハク、なんて言ったら、新薬の名前かなんかと勘ちがいすること、うけあい。そしてダ・ヴィンチやミケランジェロならご存知だということになると、「どっちがこれからの世代に受けつがれる伝統だか分からなくなってきます」(傍線部(1))。(※ コーリン、タンニュー、トーハク=尾形光琳、狩野探幽、長谷川等伯)
 
③段落。さらに一例。…
 
④段落。伝統主義者たちの口ぶりは目に見えるようです。「俗物どもは」ー「近頃の若いやつらは」ー「現代の退廃」ーなどと時代を呪い、教養の低下を慨嘆するでしょう。
 
⑤段落。だが嘆いたって、はじまらないのです。今さら焼けてしまったことを嘆いたり、それをみんなが嘆かないってことをまた嘆いたりするよりも、もっと緊急で、本質的な問題があるはずです。
 
⑥段落。「自分が法隆寺になればよいのです」(傍線部(2))。
 
⑦段落。失われたものが大きいなら、ならばこそ、それを十分に穴埋めすることはもちろん、その悔いと空虚を逆の力に作用させて、それよりもっとすぐれたものを作る。そう決意すればなんでもない。そしてそれを伝統におしあげたらよいのです。
 
⑧段落。そのような不逞な気魄にこそ、伝統継承の直流があるのです。むかしの夢によりかかったり、くよくよすることは、現在を侮蔑し、おのれを貧困化することにしかならない。
 
⑨段落。私は嘆かない。どころか、むしろけっこうだと思うのです。このほうがいい。今までの登録商標つきの伝統はもうたくさんだし、だれだって面倒くさくて、そっぽを向くにきまっています。戦争と敗北によって、あきらかな断絶がおこなわれ、いい気な伝統主義にピシリと終止符が打たれたとしたら、一時的な空白、教養の低下なんぞ、お安いご用です。
 
⑩段落。それはこれから盛りあがってくる世代に、とらわれない新しい目で伝統を直視するチャンスをあたえる。…私がこの『日本の伝統』を書く意味もそこにあるのです。つまり、だれでもおそれていまだにそっとしておく、ペダンティックなヴェールをひっぱがし、みんなの目の前に突きつけ、それを現代人全体の問題にしようと考えるからです。
 
⑪段落。先日、竜安寺をおとずれたときのこと、石庭を眺めていますと、ドヤドヤと数名の人がはいってきました。方丈の縁に立つなり「イシダ、イシダ」と大きな声で言うのです。…彼らは縁を歩きまわりながら「イシだけだ」「なんだ、タカイ」。なるほど、わざわざ車代を払って、こんな京都のはずれまでやって来て、ただの石がころがしてあるだけだったとしたら、高いにちがいない。
 
⑫段落。シンとはりつめ、凝固した名園の空気が、この単純素朴な価値判断でバラバラにほどけてしまった。私もほがらかな笑いが腹の底からこみあげてきました。
 
⑬段落。私自身もかつて大きな期待をもって、はじめてこの庭を見にいって、がっかりしたことがあります。ヘンに観念的なポーズが鼻について、期待した芸術のきびしさが見られなかった。
 
⑭段落。だがこのあいだから、日本のまちがった伝統意識をくつがえすために、いろいろの古典を見あるき、中世の庭園をもしばしばおとずれているうちに、どうも、神妙に石を凝視しすぎるくせがついたらしい。用心していながら、逆に、うっかり敵の手にのりかかっていたんじゃないか。「どうもアブナイ」(傍線部(2))。
 
⑮段落。『裸の王様』という物語をご存じでしょう。あの中で「なんだ、王様はハダカで歩いてらぁ」と叫んだ子どもの透明な目。あれをうしなったらたいへんです。
 
⑯段落。石はただの石であるというバカバカしいこと。だがそのまったく即物的な再発見によって、牽引やものものしい伝統的価値をたたきわった。そこに近代という空前の人間文化の伝統がはじまったこともたしかです。
 
⑰段落。なんだ、イシダ、といった彼らは文化的に根こそぎされてしまった人間の空しさと、みじめさを露呈しているかもしれません。が、そのくらい平気で、むぞうさな気分でぶつかって、しかもなお、もし打ってくるものがあるとしたら、ビリビリつたわってくるとしたら、これは本ものだ。「それこそ芸術の力であり」(傍線部(4))、伝統の本質なのです。
 
⑱段落。戦前、私がフランスから帰ってきたばかりのときでした。小林秀雄に呼ばれて、自慢の骨董のコレクションを見せられたことがあります。まず奇妙な、どす黒い壺を三つ前に出され、さて、こまった。なにか言わなきゃならない。かつて骨董なんかに興味をもったこともないし、もとうと思ったこともない。徹底的に無知なのです。だが見ていると、一つだけがピンときた。「これが一等いい」。とたんに相手は「やあ」と声をあげました。「それは日本に三つしかないヘンコの逸品の一つなんだ。…」…つぎに、白っぽい大型の壺を出してきました。「いいんだけど、どうも口のところがおかしい」というと、彼、ますますおどろいたていで、「するどいですな。あとでつけたものです。これはうれしい」とすっかり感激し、ありったけの秘蔵の品を持ちだしてしまいました。えらいことになったと思った。しようがないからなにか言うと、それがいちいち当たってしまうらしいのです。だから私にはおもしろくもへったくれもない。さらにごそごそと戸棚をさぐっている小林秀雄のやせた後姿を見ながら、なにか、気の毒なような、もの悲しい気分だったのをおぼえています。
 
⑲段落。美がふんだんとあるというのに、こちらは退屈し、絶望している。
 
⑳段落。しかし、「美に絶望し退屈している者こそほんとうの芸術家なんだけれど」(傍線部(5))。
 
 

〈設問解説〉問一「どっちがこれからの世代に受けつがれる伝統だか分からなくなってきます」(傍線部(1))はどういうことか、説明せよ。(3行)

 
内容説明問題。傍線部が「何について」(A)述べたものであるのかと、傍線部自体は何の引っかかりもない(つまり換言の必要性が一見してない)ことを確認した上で、その「含み」を表現すること(B)が求められている。Aについては、傍線部前の①②段落を踏まえて「今日の若い世代にとって/自国の古典芸術には西洋のそれ以上に/馴染みが薄いということ」について、とまとめられる。注意すべきは「自国の古典芸術より西洋のそれに/馴染みがある」などとしないこと。西洋の古典芸術に取り立てて馴染みがあるわけではないし、言うべきことは「自国の古典芸術に/馴染みがない」ということである。
ではBの「含み」については? 留意すべきは、冒頭の指摘に始まり、筆者は「これから盛りあがってくる世代」にとっての『日本の伝統』について述べようとしている(⑩段落)、ということである。ならば、Aの現状について「どっちが〜受けつがれる伝統だか分からなくなって」くるというのは、「受けつがれる日本の伝統を考察する上での困惑」を含意していると言えるだろう。もちろん筆者は本当に困惑を感じているのではなく、逆にこの現状こそ「伝統」を捉え直す手がかりになる、と積極的に考えるのである(⑤段落〜、問二)。
 
以上より、「今後を担う若い世代にとって/自国の古典芸術には西洋のそれ以上に/馴染みが薄いという現状は(A)//継承されるべき日本の伝統を考察する上で/困惑をもたらすということ(B)」と解答できる。
 
 
〈GV解答例〉
今後を担う若い世代にとって自国の古典芸術には西洋のそれ以上に馴染みが薄いという現状は、継承されるべき日本の伝統を考察する上で困惑をもたらすということ。(75)
 
〈参考 S台解答例〉
今日の若者が日本の古典芸術家に無知で、西洋の古典芸術家の名しか知らないとすれば、将来に継承されるべき日本の伝統への関心が失われているように思われるということ。(79)
 
〈参考 K塾解答例〉
日本の伝統文化の継承を期待したい現代の若者が、日本の古典芸術には関心を持っていないのに、西欧の古典芸術には理解を示す、倒錯した状況があるということ。(74)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
今日の若い世代が、日本よりも西洋の古典芸術に親しんでいるのだとすれば、後世に引き継ぐべき日本の伝統というものも自明性も揺るがざるをえないということ。(74)
 
〈参考 T進解答例〉
戦争と敗北によって歴史の断絶した日本の芸術が、これから洋の東西を問わずどのような基盤の上に再生していくのか、明確な方向性は定めがたくと思われるということ。(77)
 
 

問二「自分が法隆寺になればよいのです」(傍線部(2))はどういうことか、説明せよ。(4行)

 
内容説明問題。解答範囲は冒頭の悲観的な現状認識から一転して積極的に捉え直す⑤段落以降(〜⑩段落)。特に、傍線部「法隆寺になればよいのです」の含意を説明した⑦段落(〜よいのです)で解答の骨格を作り、必要に応じて、前後の段落の言葉を使って内容を補足するとよい。そこでまず⑦段落を、簡潔に一文にまとめると「失われたものが大きいとしても(a)/その悔いと空虚を逆の力に作用させて(b)/よりすぐれたものを作る決意をし(c)/それを伝統におしあげるとよい(d)」となる。
 
このうちaについては、「失われた」を具体化して「伝統の継承が滞り(②)/世代間の空白や断絶があるとしても(⑨)」とする。bについては表現が抽象にすぎるので、「その状況を嘆くのではなく(⑤)/積極的に引き受け(⑨)」とし、これに「旧態依然の権威(←登録商標つきの伝統)に囚われない目で(⑨)/伝統を直視し(⑩)」を加える。cとdは合わせて「自らが伝統の創始者となる(⑦)/という気魄をもつべきだ(⑧)」とする。以上を合わせて最終解答とする。
 
 
〈GV解答例〉
伝統の継承が滞り世代間の空白や断絶があるとしても、その状況を嘆くのではなく積極的に引き受け、旧態依然の権威に囚われない目で伝統を直視し、自らが新たな伝統の創始者になるという気魄を持つべきだということ。(100)
 
〈参考 S台解答例〉
伝統の継承を願うのであれば、自己自身が、過去のものが失われたことへの悔いと空虚さを反転的に創造の動機とし、より優れた創造を行い、それを伝統にまで高めるという気魄を持った、伝統継承の主体となるべきだということ。(104)
 
〈参考 K塾解答例〉
伝統を有り難がる態度が絶たれ、教養も失われた現在の状況を逆手にとり、むしろ強い気概を持って、因襲から解かれた自由な視点で、既存の伝統よりも優れた芸術を新しい伝統として創出していけばよいということ。(98)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
日本古来の文物の消失や大衆の教養低下を嘆くのではなく、喪失への悔いと空虚さを逆に創作の力に変え、過去の芸術を超えるような優れた作品を自ら生み出し、新たな伝統を創造していく存在となるべきだということ。(99)
 
〈参考 T進解答例〉
伝統的な芸術作品の消失を嘆き郷愁に耽るのではなく、訳もなく所与の伝統に執着していた自己の姿勢を見直し、不逞の気魄をもって新たな伝統の生成につながるような優れた作品の創造を目指すべきであるということ。(99)
 
 

問三「どうもアブナイ」(傍線部(3))のように筆者が言うのはなぜか、説明せよ。(3行)

 
理由説明問題。「何が」アブナイかを指摘すれば足りる。解答範囲は⑭段落と見えやすいが、具体的な表現から「含み」を読み取り、適度に抽象化して答えるという随想特有の難しさがある。解答根拠を列挙すると、「日本のまちがった伝統意識をくつがえすために(a)/いろいろの古典を見歩き、中世の庭園をもしばしばおとずれているうちに(b)/神妙に石を凝視しすぎるくせがついたらしい(c)/うっかり敵の手にのりかかっていたんじゃないか(d)(→アブナイ)」となる。これらを抽象的な表現に置き換えていくと、「日本の伝統の固定観念を覆そうとして(a)/あらゆる古典を見歩き相対化しようとした(b)/その仕方が伝統的権威の指示する方法に(c)/無意識のうちに準じたものだったから(d)(→アブナイ)」とまとめることができる。ポイントは、「伝統を覆そうとして(a)/伝統に囚われてしまっていた(d)」というアイロニーを踏まえること、bの内容を「相対化」という術語でまとめること、になるだろう。
 
〈GV解答例〉
日本の伝統の固定観念を覆そうとして、あらゆる古典を見歩き相対化しようとした、その仕方が、伝統的権威の指示する方法に無意識のうちに準じたものだったから。(75)
 
〈参考 S台解答例〉
筆者は日本の間違った伝統意識を正そうと努める過程で、単純素朴な態度を忘れ、かえって間違った伝統意識を内面化してしまっていたことに気づき、漠然と危惧を覚えたから。(80)
 
〈参考 K塾解答例〉
伝統主義を排する姿勢を保とうとしていたが、伝統とされてきた作品に触れるうち、いつしかそれらがまとう観念的な価値に自らの率直な判断を曇らされていたから。(75)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
日本の悪しき伝統主義を否定するために古典や造形物を見ていたのに、いつしか単純素朴な見方を忘れ、伝統主義者に近い見方をしていた自分を発見してしまったから。(76)
 
〈参考 T進解答例〉
伝統芸術と称される作品に数多く接していると、いつの間にか伝統的価値の権威に毒され、既成概念を排して単純素朴に眼前の作品と向き合えなくなってしまうから。(75)
 
 

問四「それこそ芸術の力であり」(傍線部(4))はどういうことか、説明せよ。(4行)

 
内容説明問題。傍線部そのままの構文で主語の「それ」を具体化して書くと、頭でっかちでバランスの悪い解答になるので、構文を変換する。「芸術は/その/力を持つ」とし、「その」=「それ」を具体化すればよい。⑰段落から解答根拠を列挙すると、「文化的に根こそぎにされてしまった人間(a)/むぞうさな気分でぶつかって、打ってくるものがあるとしたら(b)/ビリビリつたわってくるとしたら(c)/これは本ものだ(d)」。以上の抽象的で曖昧な表現を、問三と逆で、今度は適度に具体化して答える必要がある。すると「真の芸術は(d)/文化的素養が皆無であっても(a)/対する者の心身に直接的に響き(b)/強い感動を伝える(c)/力を持つ」(A)となる。
 
ただ、傍線部の直後に「(それこそ)伝統の本質なのです」と続くことに着目するならば、Aの内容に加えて、「真の芸術」が「伝統の本質」と直結するように説明する必要がでてくる。根拠となるのは、前⑯段落「即物的な再発見によって/権威やものものしい伝統的価値をたたきわった(e)/そこに近代という空前の人間文化の伝統がはじまった(f)」という記述。ここで言う「即物的な再発見」というのは「石は石だ」「王様はハダカだ(⑮)」のようなものだが、それは文化的素養を前提としない「真の芸術」の姿勢にも通じるものだ。ならば「真の芸術」もやはり「ものものしい権威や伝統的価値を打破しながら(e)/新たな人間文化の伝統を創出していく(f)/力を秘める」、その意味で「伝統の本質」と直結するのである。以上の内容を先のAに加えて、最終解答とする。
 
〈GV解答例〉
真の芸術は、文化的素養が皆無であっても、対する者の心身に直接的に響き強い感動を伝えるものであり、ものものしい権威や伝統的価値を打破しながら、新たな人間文化の伝統を創出していく力を秘めているということ。(100)
 
〈参考 S台解答例〉
既成の伝統意識に基づく見方にとらわれず、文化的に無となった人間の空しさとみじめさを表すほどに無邪気で無遠慮な気分で向き合ってもなお、そのものの心に強く訴えるものを感じさせることが、芸術の本領であるということ。(104)
 
〈参考 K塾解答例〉
本物の芸術は、伝統的な価値観や知識が醸し出す権威的な雰囲気に依拠せず、ごく素朴な態度で、作品それ自体の姿や形をありのままに受けとめさえすれば、鑑賞者の心を強く揺さぶる感動をもたらすものだということ。(99)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
真の芸術とは、既成の権威や伝統的価値などを必要とせず、知識も教養もない者が作品を単なる物として単純素朴な目で虚心に見たとしてもなお、見る者の心を強く揺さぶり感性を刺激することができるものだということ。(100)
 
〈参考 T進解答例〉
伝統的な文化の中に形成されている既成の芸術的な価値観から自らを解き放ち、心を空虚にして作品に接したとき、それでも作品が自分の心に何かを訴えかけてきたなら、それこそが芸術の持つ真の価値なのだということ。(100)
 
 

問五「美に絶望し退屈している者こそほんとうの芸術家なんだけれど」(傍線部(5))について、「ほんとうの芸術家」とはどういうものか、本文全体を踏まえて説明せよ。(5行)

 
内容説明問題(要約)。まずは伝統との関わりにおいて芸術家のあるべき姿勢について述べた問二の論点(a)、伝統的権威をもろともしない真の芸術のあり方について述べた問四の論点(b)を再度解答に盛り込む。その上で、小林秀雄とのエピソードの示唆するもの、特に傍線部にある「美に絶望し退屈している者こそほんとうの芸術家」という記述の真意を説明するとよい。
 
小林とのエピソードから読み取れる内容は、主に二つ。一つは、筆者は骨董にさして魅力を感じておらず、そのコレクションに勤しむ小林を哀れに見ている、ということ。もう一つは、そんな筆者であるが、小林から問われるままに価値ある骨董を言い当ててしまう、ということ(=問四の論点)。さらに筆者は、本文を通して芸術と伝統の関係について述べてきたが、伝統には二つの見方があり、一つは、受け継がれてきたものという一般的で固定的な見方。もう一つは、新たに創造されていくものという筆者の重んじる動的な見方である(問二の論点)。この二つの見方を当てはめて考えるならば、骨董は前者にあたり、完結した伝統、死んだ伝統であり、それは筆者を「絶望し退屈」させるのである(c)。では筆者は、「ほんとうの芸術家」は、何を望むのか。もう言うまでもないことだが、その逆、伝統を創造し、伝統を生きたものとして維持することである(d)。
以上の論点をまとめて、「ほんとうの芸術家とは/骨董のように死物と化した美に満足することなく(c)/大仰な権威や固定観念に囚われない目で伝統を見直して自らが伝統の創造者となる気魄を持ち(a)/文化的素養を前提とせず感動をもたらす作品を創造しつつ(b)/美の伝統に生命を吹き込む存在である(d)」と解答できる。
 
〈GV解答例〉
ほんとうの芸術家とは、骨董のように死物と化した美に満足することなく、大仰な権威や固定観念に囚われない目で伝統を見直して自らが伝統の創始者となるという気魄を持ち、文化的素養を前提とせずに感動をもたらす作品を創造しつつ美の伝統に生命を吹き込む存在である。(125)
 
〈参考 S台解答例〉
過去を理想化して現在を侮蔑するのではなく、過去よりも優れた創造を行う気迫を持ち、自己自身が伝統継承の主体となる。そして、既成の見方に依拠した芸術や伝統のあり方に満足を覚えず、単純素朴に芸術と向き合い、新しい視点で伝統を直視する。そのように伝統を現代の問題として捉えうる存在。(137)
 
〈参考 K塾解答例〉
旧来の価値観によって権威づけられた枠組のなかで、教養として「美」を捉え引き継いでいこうとすることの愚かさを弁え、自らの無知を新しい芸術を生み出していくための条件である無垢と捉え直し、何ものにもとらわれない純粋な直感を信じて芸術に向き合おうとするもの。(125)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
ほんとうの芸術家は、既成の権威や伝統的価値を美として満足するのではなく、自分の感性によって美を発見することができる人であり、伝統とされるものを乗り越えてより優れた作品を生み出す力と、自らが新たな伝統創造の主体になっていこうとする気概をもつ存在である。(125)
 
〈参考 T進解答例〉
伝統芸術と称される作品の価値を既成の文化的教養として無前提に受け容れたりせず、その権威に服することに抗いながらいかなる芸術作品ともあるがままの自己の即物的感性をもって虚心に向き合い、新たな伝統の創造へとつながる芸術的な美を模索し続けているような存在。(125)