〈本文理解〉

出典は西谷啓治の随想「忘れ得ぬ言葉」。筆者は京都学派の哲学者。

 

①段落。もうかれこれ30年も前の話である。当時、私は京都大学の学生で、やはり東京から来て同じ地区にいた何人かと特に親しいグループを作っていた。いずれも気儘な者ばかりだったが、ただ兄貴株の山崎深造だけは別であった。彼はおだやかな、思いやりの深い、そして晴れやかな落着きを感じさせるような人間で…彼だけは既におとなであった。
 
②段落。京都へ来て二年目の六月に、私は熱を出し、チブスの疑いがあるというので入院させられることになった。
 
③段落。そのとき彼は…入院の手続きから必要な買物まで、万事世話をしてくれた。幸いチブスではないとわかって、半月程して退院したが、医師のすすめで、そろそろ始まる夏休みには東京へ帰らずに郷里で保養をすることにした。それで、退院の直後、私は彼の下宿の部屋で雑談しながら、郷里の海や景色の美しさ、軽いボートを操って釣りをしたり泳いだりして遊ぶ楽しさのことなどを、はずんだ気持ちで、調子づいて話していた。その時、彼は突然笑いながら、一言、「君も随分おぼっちゃんだなア」と言った。そして「これが私には『忘れ得ぬ言葉』になってしまった」(傍線部(1))。…それを聞いた私にとっては、ハッとさせるものをもっていた。私はその時の自分の心が自分自身のことで一杯になっていて、彼の友情、彼が私のために払ってくれた犠牲、についての思いが、そこに少しも影を落としていないことに気付かされた。しかも、自分というもの、それまでの自分の心の持ち方というものが、鏡にうつし出されたかのような感じであった。いわば生まれてからこのかたの自分に突然サイド・ライトが当てられて、それまで気が付かなかった自分の姿に気が付いたというような気持であった。彼の眼には、散々迷惑をかけながら好い気持でしゃべっていたわたしが、罪のない無邪気なお坊ちゃんと映ったに違いない。しかしそのひとことによって、「私の眼には、その自分の『罪のない』ことがそれ自身罪であることと映って来た」(傍線部(2))のである。それは眼が開かれたような衝撃であった。実際、それ以来自分がおとなの段階、乃至はおとなに近い段階に押し上げられたと思っている。
 
④段落。実はそれまでにも高等学校の頃など、時たま友人達から「世間知らず」とか「おぼっちゃん」とか言われたことがある。…しかしそういう場合いくら「世間知らず」といわれても、殆んど痛痒を感じなかった。というのも、少年の時に父親を失って以来、物質的にも精神的にもいろいろな種類の苦痛を嘗めて、いわば人生絶望の稜線上を歩いているような状態で、批評した友人達よりはずっと「世間」の何たるかを知っているという気持だった…からである。しかし今度はまるで違っていた。「今度は、自分が、以前に言われたとは全く別の意味において『世間知らず』であったことを知った」(傍線部(3))。という事は、裏からいえば、山崎の友情が私の実感になることによって、私は彼という「人間」の存在に本当の意味で実在的に触れることが出来、そして彼という「人間」の実在に触れることにおいて、本当の意味での「世間」に実在的に触れることが出来たということである。他の「人間」に触れ、彼とのつながりのなかで自分というものを見る眼が開けて初めて、普通に世間といわれるような虚妄でない実在の「世間」に触れたように思う。…ずっと後になって考えたことだが、仏教でよく「縁」と言うのは、今いったような意味での人間とのつながり、又あらゆるものとのつながりのことではないであろうか。それはともかく、そういう意味で「人間」に触れ、「世間」に触れたことが、絶望的な気持のなかにいた当時の私には、何か奥知れぬ所から一筋の光が射して来て、生きる力を与えてくれるかのようであった。
 
⑤段落。それにしても、ほんのちょっとした言葉が「忘れ得ぬ」ものになるのだから、言葉というものは不思議なものだと思う。言葉の本源は、生き身の人間がそれを語るというところにある。忘れ得ぬ言葉ということは、他人が自分のうちへ入って来て定着し、自分の一部になることだろうが、そのなり方はいろいろである。書物から来た言葉の場合には…それが繰り返し想起され反芻されているうちに…筆者のマークがだんだん薄れてくる。言葉の抽象的な意味内容だけが自分のうちに定着して…自分のうちへ紛れ込んでしまう。ところが、「言葉が生き身の人間の口から自分に語られた場合は、全く別である」(傍線部(4))。その場合には言葉は、それを発した人間と一体になって自分のうちへ入ってくる。それが忘れ得ないものになるという時には、独立した他の人間がその人間としての実在性をもって自分のうちに定着し、自分とつながりながら自分の一部になる。…その言葉が想起されるたびに、言葉は語った人間の「顔」、肉身の彼自身、を伴って現れてくる。そしてその言葉を反芻するたびに、我々は我々の内部でその彼の存在の内部へ探り入り、彼を解読することになる。それによって彼はますます実在性をもってくるし、同時にますます我々自身の一部にもなってくる。つまり、言葉は人間関係の隠れた不思議さを現わしてくる。
 
⑥段落。私にとって、山崎の場合がまさしくそうであった。…「生きているとか死んでいるとかという区別を越えた」(傍線部(5))、そういう人間関係は、私にはいわゆる現実よりも一層実在的に感ぜられるのである。明日には忘れられる「現実」よりも、何十年たってもますます実感を増すものの方が一層実在的ではないだろうか。本当の人間関係はそういう不思議な「縁」という性質があり、人間とはそういうものではないだろうか。

問一‪「それと今一つ、それにこだわっている自分も見抜かれたくない」はどういうことか、説明せよ。(三行)

理由説明問題。当たり前だが理由説明なので、言葉の内容でなく、その言葉が私に与えた影響や意義について(A)述べる。合わせて、その言葉を得た時の状況、言葉を伝えた山崎が筆者にとってどんな存在で(B)、筆者は当時どのような境遇にあったか(C)を述べればよい。まずBについては、①段落の後半を参考に「周囲で一人大人びた山崎(の言葉)」とまとめた。次にBについては、傍線部前の①〜③段落で「学生/入院→退院/はずんだ気持」をおさえる。加えて、④段落末文「絶望的な気持のなかにいた当時の私」も踏まえて「(Aが)絶望感を奥に持ちつつ退院により高揚していた学生時の筆者(に)」とまとめた。
Cについては、傍線部後の③段落の内容から特に「(山崎の言葉で)それまで気が付かなかった自分の姿に気が付いたというような気持」(a)をおさえる。また④段落後半の内容から特に「彼とのつながりのなかで自分というものを見る眼が開けて初めて、普通に世間といわれるような虚妄でない実在の『世間』に触れたように思う」(b)をおさえる。さらに③段落末文の「それ以来自分がおとなの段階、乃至はおとなに近い段階に押し上げられた」(c)も踏まえる。以上よりCを「真の自分や(a)/人の縁に対する直観と(b)/精神的な成熟(c)」とまとめた。解答は「AがBにCをもたらしたから」となる。
 
 
〈GV解答例〉
周囲で一人大人びた山崎の言葉が、絶望感を奥に持ちつつ退院により高揚していた学生時の筆者に、真の自分や人の縁に対する直観と精神的な成熟をもたらしたから。(75)
 
〈参考 S台解答例〉
郷里について無邪気に語る筆者をからかうような山崎の言葉から、病で万事世話になった山崎への思いの欠如に加え、それまでの自分のあり方を初めて自覚して衝撃を受けたから。(81)
 
〈参考 K塾解答例〉
親身に世話してくれた友人の何気ない私への言葉は、単なる批評であることを越え、彼の人柄を通じて私の心を打ち、真の人間関係へと目を向ける契機となったから。(75)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
敬愛する友の何気ない言葉によって自身のことしか考えていなかった自分の姿に気づいて衝撃を受け、その言葉が彼の人間の実在性をもって自分の中に定着したから。(75)
 
〈参考 T進解答例〉
山崎の何気ない言葉が、自分のことで精一杯で他人の気遣いなど顧慮できずに無邪気に生きてきた自分の、人間としての未熟さと向き合うきっかけになったから。(73)
 
 

問二「私の眼には、その自分の『罪のない』ことがそれ自身罪であることと映って来た」(傍線部(2))はどういうことか、説明せよ。(3行)

内容説明問題。「その自分の『罪のない』こと」は前文を参考に「自分の行為に対して無邪気であること」(A)と換言できる。A自身罪であるということは、Aに内在する罪の要素(B)と、それ以前に「無邪気な行為」がもたらした罪の要素(C)とがあるはずだ。
傍線部を一文に延ばすと「しかし、その一言によって/(傍線部)/のである」となる。Cについては、傍線部の前の譲歩部「散々厄介をかけながら」の箇所が直接の根拠となる。実際、筆者は山崎に、布団を借り、入院の手続きから必要なこと万事を頼っていたのである(③冒頭部)。Bは、山崎の「その一言」すなわち「君も随分おぼっちゃんだなア」によって気づかされたことである。これについては本文に明示されないが(当たり前だし甘えちゃいけない)、要は「おぼっちゃん」であることを自覚せず振る舞っていたこと、それによって山崎のストレスを増やしたであろうことである。
以上を一般化して示すと、「Aは/行為のもたらす周囲への負荷のみならず(C)/それへの反省を欠き負荷を増やす点でも不適切だ(B)/と認識するに至った(←映って来た)」となる。
 
 
〈GV解答例〉
自分の行為に対して無邪気であることは、行為のもたらす周囲への負荷のみならず、それへの反省を欠き負荷を増やす点でも不適切だと認識するに至ったということ。(75)
 
〈参考 S台解答例〉
筆者を罪のない無邪気な存在と見る山崎の言葉から、筆者自身は、病で山崎に世話になりながら自身のことで一杯で、無邪気でいること自体が罪悪であると認識し始めたということ。(82)
 
〈参考 K塾解答例〉
自分のことしか考えられない私は、無邪気であっただけでなく、自分を支えてくれる他者の思いやりに無自覚な点で、それを蔑ろにしていると気づいたということ。(74)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
自分のことだけを考える無邪気さは、他者への感謝や配慮のない自己中心的なあり方であると気づき、それに無自覚であった自らの幼さと愚かさを悟ったということ。(75)
 
〈参考 T進解答例〉
自己本位で世間知らずな自分の生き方を省みようともしなかった幼さが、人間的な成長から自分を遠ざけていた原因なのだということに気づき始めたということ。(73)
 
 

問三「今度は、自分が、以前に言われたこととは全く別の意味において『世間知らず』であったことを知った」(傍線部(3))はどういうことか、説明せよ。(3行)

内容説明問題。「以前」言われた「世間知らず」(A)についてと、「今度」山崎に言われた「世間知らず」(B)の意味の違いについて述べればよい。
といってもAについては一般的な意味で字義通り「世間のあれこれについて知らない」ということであり、このことの指摘よりも、そう言われて筆者がどう受け止めたのかの指摘を重視したい。傍線部前文「しかし今度はまるで違っていた」の前の譲歩部を参考に、前半を「以前は/世の辛酸をなめてきた筆者にとって/周囲の方が『世間知らず』に見えたが」とまとめた。
それでは、山崎に言われて今度は自分こそが「世間知らず」だと思った、その意味するところとは何か(B)。傍線部の次文「という事は、裏から言えば」以下の記述が根拠となる。特に「他の『人間』に触れ、彼とのつながりのなかで自分というものを見る眼が開けて初めて、普通に世間といわれるような虚妄でない実在の『世間』(→仏教の『縁』)に触れたように思う」を参考に、後半を「山崎の一言で自分がいかに世間のあり様(内実)に無理解だったかを思い知った」とまとめた。
 
 
〈GV解答例〉
以前は世の辛酸をなめてきた筆者にとって周囲の方が「世間知らず」に見えたが、山崎の一言で自分がいかに世間のあり様に無理解だったかを思い知ったということ。(75)
 
〈参考 S台解答例〉
人生経験の不足ではなく、他人の存在に実在的に触れ、その人とのつながりのなかで自分を捉え、世間に実在的に触れるという経験の欠如を、山崎の言葉から自覚したということ。(81)
 
〈参考 K塾解答例〉
人並みの苦労を知らないで生きてきたということではなく、人との関わりの中で自分を見出し、それを通じて世間の確かなありようを知ることがなかったということ。(75)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
現実の苦労は知っていても、人間の実在として世間に触れておらず、人とのつながりを実感して自分をその中に位置づけることができていなかったということ。(72)
 
〈参考 T進解答例〉
自分は、兄弟姉妹のない独り子ゆえではなく、他の人間や事物事象との関わりの中で自分を捉えられないがゆえの世間知らずであったことに気づいたということ。(72)
 
 

問四「言葉が生き身の人間の口から自分に語られた場合は、全く別である」(傍線部(4))のように筆者が言うのはなぜか、説明せよ。(4行)

理由説明問題。傍線部を導く「ところが」の前の譲歩部「書物から来た言葉の場合」(A)との対比で「言葉が生き身の人間の口から自分に語られた場合」(B)についてのあり方と効果を説明すればよい。解答構文は「〜Aと違い、Bは〜だから」となる。
対比の場合は対立する二項の要素を比べながら配置する必要がある。記述の少ないA(対立項)からは「(反芻するうちに)抽象的な意味内容だけが自分のうちに定着する」(a)という要素が拾えるが、これと対応するB(主題)の要素は「独立した他の人間がその人間としての実在性をもって自分のうちに定着する」(b)となる。これで対比は明確になったので、あとは主題であるAの要素を肉づけすればよい。
⑤段落後半部より「b→言葉が想起されるたびに言葉は語った人間の「顔」を伴って現れる→我々は我々の内部で彼の内部に入り彼を解読する→彼はますます実在性をもち我々自身の一部となる」という流れを踏まえる。比喩的表現を一般化し解答後半を「(直接語られる言葉は)それを発した人間と一体化して自分に入り込み(b)/その内なる他者との対話を通して/自分を形成するものだから」とまとめればよい。
 
 
〈GV解答例〉
反芻されるうちに抽象的な意味内容として自分の中に定着する書物の言葉と違い、直接語られる言葉はそれを発した人間と一体化して自分に入り込み、その内なる他者と自分との対話を通して、自分を形成するものだから。(100)
 
〈参考 S台解答例〉
現実の生きた人間からの言葉を忘れ得ない場合は、他人が実在性をもって自分に定着し、自分の一部となり、人間関係の隠れた不可思議さを現わすに至る点で、書物の言葉の抽象的意味内容を忘れ得ない場合とは異なると思われるから。(106)
 
〈参考 K塾解答例〉
書物における他人の言葉は、その抽象的な意味だけが自己の中に残っていくが、生身の人間の言葉は、取り込まれて自らの一部となりながらも独立の実存感を保ち、生きた他者として自己に訴えかけ続ける存在となるから。(100)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
書物の言葉は反芻されるうちに筆者の個性が薄れ抽象的意味内容だけが定着するが、生身の人間の言葉は、発した人間が実在性をもったまま定着し、自分とつながりながら自分の一部となったことが強く感じられるから。(99)
 
〈参考 T進解答例〉
読み手の内に抽象的な意味内容だけが定着する書物の言葉とは異なり、生き身の人間の発した言葉は、発話者の実在性そのものとして聞く者の内に定着し、聞き手による想起は存在の深部での発話者との対話となるから。(99)
 
 

問五「本当の人間関係」について、「生きているとか死んでいるとかという区別を越えた」(傍線部(5))のように言われるのはなぜか、説明せよ。(4行)

理由説明問題。傍線部を承けての「そういう人間関係は…私にはいわゆる現実よりも一層実在的に感ぜらせる/明日には忘れられる『現実』よりも、何十年たってもますます実感を増すものの方が一層実在的ではないだろうか」が最初の手がかりになる。「本当の人間関係」(A)に言及するのなら、当然「通常の人間関係」(B)が想定されているはずである。それは「現実の/具体的な場に縛られた関係」(B)だといえよう。Aはそうした時間や空間の制約を越えたものだということになる。どういう意味で?
Aの起点となるものは、本文の主題(④段落までの第1パートで具体的なエピソードが語られ、⑤⑥段落の第2パートで抽象的な考察が加えられる)「忘れ得ぬ言葉」である。それは、問四(⑤段落)で考察したように「それを発した主体と一体になって/自分の中で実在性を増し/自分に影響を与え続けるもの」である。その意味で「忘れ得ぬ言葉」に端を発するAは、過去から未来に渡って、また具体的な場を越えて継続していくもの、すなわち「生きているとか死んでいるとかという区別を越えた」ものなのである。
解答は「Aは/Bにとどまらず/過去において印象深い言葉(←忘れ得ぬ言葉)を発した他者が/その言葉とともに実在感を増し/時間や空間の制約を越えて/自分に影響を与え続けていくものだから」とまとめた。
 
 
〈GV解答例〉
本当の人間関係は、現在において営まれる具体的な関係にとどまらず、過去において印象深い言葉を発した他者がその言葉とともに自分の中で実在感を増し、時間や空間の制約を越えて自分に影響を与え続けるものだから。(100)
 
〈参考 S台解答例〉
ある人とその忘れ得ない言葉を思い出す毎に、その人が一層実在性をもち、自分の一部になるという人間関係は、人間やあらゆるものと不思議なつながりという性質をもち、生死にかかわらず、移り変わる現実よりも一層実在性をもつから。(108)
 
〈参考 K塾解答例〉
本質的な他者との関係は、現実の日常において過ぎ去る時間の中で営まれるというよりも、言葉を通じて他者とのあいだに築かれた関係をもとに、人の生死や時間を越えた切実で生々しい対話を続けることにこそあるから。(100)
 
〈参考 Yゼミ解答例〉
本当の人間関係とは、自分の人間性に深い洞察を与えた人間がたとえ死んでも、その言葉を反芻するごとにその人が現実以上に実在性をもって感じられ、自分も相手への理解をますます深めていくような不思議なつながりだから。(103)
 
〈参考 T進解答例〉
生き身の人間の発した言葉が忘れ得ぬものとして聞く者の内奥に定着する時、本当の人間関係が成立し、言葉を発した人間は言葉を聞いた者の内で生き続け、時の経過と共によりいっそう親密性と実在性を増していくから。(100)