〈本文理解〉

出典は中野孝次の随想『ブリューゲルへの旅』。
 
①段落。当時のそんな精神状態(※ 1944年、19歳の筆者は、戦時下の現実から目をそむけるために、西洋的教養主義を志向し、抽象的観念性を養っていた)を思い浮かべていると、それにたいし「もの」によって、屹然と対峙しているような一枚の絵が現れてくる。ニューヨーク、メトロポリタン美術館にある絵である。十年前、これを見たとき、私はほぼ一年の西欧滞在の終わりにあり、現実の西欧市民階級というものをいやというほど知らされて、少年期以来続いた「西洋」というイリュージョンに最後のとどめをさされて帰るところであった。絵はまるで私の四十年の生に冷水を浴びせるように作用した。
 
②段落。なんの変哲もない麦刈りの絵である。
 
③段落。画面中央を黄褐色の熟麦の巨大なマッスが見るものを圧するようにひろがり、右手に今労働の中休みの一団が大きな梨の木の下に憩い、麦畑の色調と均斉を保っている。…
 
④段落。樹の真下に両足をだらんとのばして眠りこけている男の姿態は、「怠け者の天国」の農民を思い出させるし、画面にみなぎる労働のはげしさと休息の一途さとの対比は、晩年のあの比類ない版画「夏」の気分に通じる。
 
⑤段落。はげしい絵である。大地はその豊穣な生産力に見合うだけの代償を農民の労働に要求し、労働のはげしさはその逞しい肉体や疲労やむさぼるような飲食や、無知と愚かさと粗野とを必然的につくり出したように見える。しかしここには人間が自然の一部として生き、自然のゆたかな恩寵とその反面であるあらあらしい生命力とに真向から取組んで、結びつき、充足しきっている姿がある。画家の目はたしかに何ものをも見逃していない、農民の放埒も貪りくらう食欲も、ぐったりと疲れきってあがってくるさまも、かれらの肉体が示すすべての特色も、だがそれもふくめて、この地上にあるがままの姿において、人間はなんと大地と深く結びつき、生命をともにし、そして全体の生命を形作っていることだろう。人間は愚かなまま、無様なまま、あるがままにその全存在を肯定されて、大自然の中にいるのだった。
 
⑥段落。絵は、わたしに1944年6月、農村地帯へ一週間の勤労動員が行われたときのことを思い出させた。われわれは農家に分宿し、その家の麦刈りを手伝った。麦刈りがこれほどきついはげしい労働だとは、だれひとり予想もしていなかった。…だが、あのとき日に灼かれながら成熟した麦というものをこの肉体の労苦を通して相手にした経験は、いまもわたしのなかに、まちがいのない生命の充実の感じをともなって残っているような気がする。その感覚が、あの「麦刈り」の、何も彼も放りだしてでんと休んでいる男や女に共感をよせる。「あれは十九歳の自分たちの姿でもあった」(傍線部(A))。
 
⑦段落。マディソン・スクエアガーデンのわたしの宿のまん前には、道路を距てて、建物を取壊した跡地が駐車場になっていた。…駐車場には車が前後三十センチくらいの感覚でびっしり詰めこまれていた。若い男が一人、次から次へ前の車を出しては別の列につめかえ、あのなんとかゲームのように、大きな車を順繰りに巧みに扱って、とうとう奥の一台を道路に引き出し、お客にわたしたとき、わたしは思わず四階の窓で感嘆の声をあげずにいられなかった。男の運転技術は神業のようだった。しかし、それと同時に、それにもかかわらず「彼の神業的労働を、おそろしくむだな、ばかばかしいものに感じないわけにはいかなかった」(傍線部(B))。これが一体労働と言えるだろうか、と。
 
⑧段落。すると、とわたしの連想はまたあの黄褐色の絵に帰っていく、あすこにはなにか労働以上のものがあったわけだ、と。労働とその報酬、所有関係を越えるなにか──むろんそれは、自然のなかの人間の生に関わるもの──があって、だから画家はああいう自足しきった姿を描いたのだろうか、と。画家はほとんどこう言っているように見える、絵画芸術は現実のあるがままの人間の生を正しく描けさえすればそれでいいのだ…愚かな者も、醜い者も、ずるい者も、存在はすべてあるがままに全肯定されているではないか、それを正しく描き出す以外に芸術の用はない、と。事実ブリューゲルは、いわゆる美のための美を追求する絵など一枚も描かなかった。
 
⑨段落。「この考えはわたしを慄然とさせた」(傍線部(C))。それはほとんど「言語と精神」の世界の自律性そのものを否認するように聞こえたからである。「微笑しつつ無意識な無言の人生に君臨している、精神と言語の力」(※19歳の筆者が絶望的な熱い思い入れで読んだトーマス・マンの小説『トニオ・クレーゲル』からの引用)など迷妄だったというのだろうか。絵の世界と同じく、言葉の世界も、書かれた現実自体のがわの批評によって初めてその規律と価値を得ることができるのであって、決してその逆、つまり作品の自律的価値のためにではないのではないか。すると、と私はまた始まった駐車場のゲームめいた空しい入替え作業に目をやりながら思う、言葉や形象や色彩や音の世界が第二の現実となることはありえないのか、それらはつねに一義的に生の現実のなからだけその生命と存在理由を獲得することができるものであって、言葉の伝統だけで成り立つ世界、絵画作品の歴史だけで成り立つ世界などありえないのか、と。すると作品とは一体現実にたいしてどういうものとしてあるのだろう。
 
⑩段落。ぎりぎりの最後に現れる現実とはExistenz(※ドイツ語で生存、生活、現実的・個別的存在の意)だけかもしれんな、とわたしは思った。…「麦刈り」の絵はしかし現実の模写ではない。いかにもリアルであるが、これは写生的リアリズムではなくて、彼が民衆の肉体と精神においてこれぞ真実の姿と見極めた精髄の形象化、従って様式化されたリアリズム、いわば彼の見た生の実相の表現といったものだろう。彼の絵のなかには民衆の生存の実相が表現されきっているが、それを表現したのはブリューゲルという画家だ。あれは、ちょうどシェイクスピアの世界が民衆の生の実相にたいし完全に開かれていながら、彼自身の精神によって統一されているように、ブリューゲルという思想によってだけ統一されている。あそこに描かれた人物たちは、個体でありながら個を超えたもの、いわば個体の、個体の普遍的な表現となっている、ちょうど彼の自然が写生そのものでなく、普遍的な世界風景であるように。するとあの絵は現実にたいしてどういう関わりで存在しているのだろうか。
 
⑪段落。抽象的な世界に逃れなければ生きてこられなかったのだろうか、という反省が初めて浮かんだのはそのときである。この画家は現実そのものをしっかりとその手で掴んでいた。彼の天才的な形象把持能力のなかで、岩塊や樹木や丘々と同じように、生きるすべての人間はおどろくべき鮮やかさでつねに彼のなかにひしめき、動き、生き、表現を求め、そして画家にとってはそれを画面の上に再創造することが彼自身の生となったことであろう。しかし抽象的観念世界の生は、「暗い花ざかりの森」(※野間宏の小説『暗い絵』による。この表現は1937年、左翼運動弾圧下にあった青年たちの非現実的で観念的な生き方を表している)はうんでも、そういう「現実との幸福な関係」(傍線部(D))はうみえなかった。
 
 

〈設問解説〉
問一 (漢字の書き取り)

(ア)変哲 (イ)代償 (ウ)粗野 (エ)報酬 (オ)迷妄
 
 

問二「あれは十九歳の自分たちの姿でもあった」(傍線部(A))はどのようなことを言っているのか、説明せよ。(三行)

内容説明問題。「あれ」すなわち「ブリューゲルの「麦刈り」の男女の休息シーン」のX1という点が、戦時勤労動員での筆者の麦刈り体験X2と重なり共感した、というのが解答のベースになる。解答としては、X1の方が主題なのでこちらを厚めに、X2は同じ言葉は避けながらX1との重なりが明確になるような言葉を選ぶとよい。
 
X1は⑤段落「人間が自然の一部として生き…自然の生命力に真向から取組んで(a)、結びつき、充足しきっている(b)/人間は…あるがままにその全存在を肯定されて、大自然の中にいる」を参照し、aの箇所はX2についての説明箇所「肉体の労苦を通して相手にした(⑥)」に置き換え(X1の説明としても妥当)、解答に反映させた。X2は⑥段落「麦というものをこの肉体の労苦を通して相手にした経験は(c)…生命の充実の感じをともなって残っている」を参照し、cをX1に譲った代わりに、bはX1から差をし引きX2の表現と重ならないようにして、解答を作った。最終解答は以下の通り。
→「至高の現代文/解法探究29」「14. 類比の形式と設定」
 
 
〈GV解答例〉
ブリューゲルの絵の、肉体的労苦を通して自然と結合し全存在を肯定されて休息する農民の姿に、勤労動員で麦刈りを経験し充足感を得た筆者は共感するということ。(75)
 
〈参考 S台N師解答例〉
筆者は、「麦刈り」の絵の、自然と深く結合し、ともに全体の生命を形作り、充足しきった農民たちの姿に、勤労動員の労苦を通して経験した生命の充実感を見て、共感するということ。(84)
 
〈参考 S台解答例〉
ブリューゲルの描く、全存在を肯定され自足する農民の姿は、勤労動員で自然と関わる労苦により生命の充実感を得た自分たちと重なり、共感を抱くということ。(73)
 
〈参考 K塾解答例〉
労働を通じて自然のもたらした成果を享受する農民たちの休息が体現する生の充実は、勤労動員時の麦刈りの中に体感された自己充実の感覚と重なっているということ。(76)
 
〈参考 T進解答例〉
ブリューゲルの描く、あるがままに全存在を肯定された農民の姿は、勤労動員の厳しい労働を通じて生命の充実感を得た自分たちと重なり、共感を覚えるということ。(75)
 
 

問三「彼の神業的労働を、おそろしくむだな、ばかばかしいものに感じないわけにはいかなかった」(傍線部(B))のように筆者が感じたのはなぜか、説明せよ。(四行)

理由説明問題。「彼の神業的労働」の「神業」性を説明した上で、それが一方では「おそろしくむだな、ばかばかしいもの」と筆者に感じられる理由を指摘する。その理由は傍線部の直後に「これが一体労働と言えるだろうか」とあるように、筆者の労働観からして到底そう言えない代物だ、むだなものだ(よってばかばかしい)、ということになる。なぜ「むだ」かというと、本文を遡ってブリューゲルの絵を通して筆者があるべき労働を示唆した部分(⑥)に求められる。すなわち「人間が自然の一部として生き、自然のゆたかな恩寵とその反面であるあらあらしい生命力とに真向から取組んで、結びつき、充足しきっている/あるがままにその全存在を肯定されて、大自然の中にいる」の部分が参照できる。特に「自然のゆたかな恩寵」という箇所に着目すると、筆者の考える労働においては、人間は自然と結びつき、その恵みを引き出すものである(X)。翻って「彼」は混雑した駐車場から神業のような運転技術で奥の車を引き出した、それは感嘆に値するものに違いないけれど、自然から切り離されたもので、車の配列を変えただけ、何も新しく産出していない。この意味で「労働」とは言えず、「むだな」作業である(Y)。
 
これに加えて、本文では全文を通して「もの=自然=現実」に対峙する姿を肯定し、筆者が若い時から囚われてきた「観念世界」の貧しさを説いている。その点で言うと、「彼」の神業は「観念世界」を現実化したものにすぎず、その逆ではない(⑨参照)。この点も加え(a)、以下のように解答できる。「混雑した駐車場から奥の車を引き出した男の運転技術は神業的だが(Y)/一方で自然との結合の中から恵みを産出することで存在を肯定され充足を得るという筆者の労働観からすると(X)/ただの観念的な操作のように見えたから(a)」。
→「至高の現代文/解法探究29」「18. 着地点からの逆算」
 
 
〈GV解答例〉
混雑した駐車場から奥の車を引き出した男の運転技術は神業的だが、一方で自然との結合の中から恵みを産出することで存在を肯定され充足を得るという筆者の労働観からすると、ただの観念的な操作のように見えたから。(100)
 
〈参考 S台N師解答例〉
筆者が労働であると思っていた「麦刈り」に描かれた農民の姿には、自然の中の人間の生に関わる労働以上のものがあったので、駐車場の若い男の感嘆すべき運転技術による通常の労働を見ても、労働には値しないと感じられたから。(105)
 
〈参考 S台解答例〉
車の入替えをする男の運転技術は驚嘆に値するが、その作業は収入を得るための労働にとどまり、自然の中で人間が全存在を肯定されて生命の充実感を覚える労働の自足とは何ら関わらないものだと思われたから。(96)
 
〈参考 K塾解答例〉
駐車場で車を入替える男の運転技量は並外れたものに違いないが、その仕事は自然に真摯に働きかけることで生が肯定されるという労働の本質を欠いており、報酬を得るだけの自己完結した空疎な遊戯としか思えないから。(100)
 
〈参考 T進解答例〉
若い男の駐車場での神業的な運転技術は驚嘆すべきものだが、それは自然との結びつきの中で生の充足がもたらされ、全存在を肯定される労働の本質とはかけ離れた空疎な作業に過ぎないと感じられたから。(93)
 
 

問四「この考えはわたしを慄然とさせた」(傍線部(C))のはなぜか、説明せよ。(四行)

理由説明問題。「この考え(X)」すなわち「ブリューゲルの絵の示唆する、画家は現実のあるがままを正しく描くだけだという考え」(⑥)が、筆者を慄然とさせる(=恐れおののかせる)までの理由を指摘する。それは傍線部直後にあるように、Xが「「言葉と精神」の世界の自律性(Y)」を否認するように聞こえたからである。これをつかめば、あとはYをXと対比的に具体化し、それが否認されることは「慄然」と言えるほどのインパクトを持つことを示せばよい。
 
Yについては「言葉や形象や色彩や音の世界が第二の現実となること(⑥)」と併せて「言語、形象、色彩、音による表象は現実から自律した作品世界を形成する(すなわち現実に付随するもの(X)ではない)」と具体化した。問題は、このYという発想が⑥段落の注にあるように「十九歳の筆者が絶望的な熱い思い入れで読んだ」トーマス・マンの小説に由来するということだ。筆者の十九歳というのは、別の注にあるように「戦時下の現実から目をそむけるために、西洋的教養主義を志向し、抽象的観念性を養っていた」時期である。また、①段落のブリューゲルの例の絵との対峙でとどめを刺された「少年期以来続いた「西洋」というイリュージョン」「私の四十年の生」という記述とも重なるものだろう。つまりYとは筆者の半生を貫く信念で、Xがそれを突き崩す力を持ったから、筆者は「慄然」とするのである(R)。以上より「ブリューゲルの絵が示唆する、画家は現実のあるがままを描くだけだという考えは(X)/言語、形象、色彩、音による表象は現実から自律した作品世界を形成するという(Y)/筆者の半生を貫く信念を突き崩す力を持ったから(R)」と解答した。
→「至高の現代文/解法探究29」「18. 着地点からの逆算」
 
 
〈GV解答例〉
ブリューゲルの絵が示唆する、画家は現実のあるがままを正しく描くだけだという考えは、言語、形象、色彩、音による表象は現実から自律した作品世界を形成するという筆者の半生を貫く信念を突き崩す力を持ったから。(100)
 
〈参考 S台N師解答例〉
絵の価値は現実のあるがままの人間の生を正しく描く真実性にあると考えれば、言葉の世界も書かれた生の現実のなかからだけ、一義的に規律と価値を得るとされ、筆者の志向する言語芸術の自律性が否認されると思われたから。(103)
 
〈参考 S台解答例〉
描かれた現実自体の真実性のみが絵画の価値を決めるという考えによって、生の現実と無関係にそれだけで成立つという、筆者が志向してきた言語的観念的な世界の自律性自体を否定されたように思われたから。(95)
 
〈参考 K塾解答例〉
現実のあるがままの生を全て肯定しつつ正しく表現することのみが芸術だとすれば、少年期から西洋の観念的世界に憧れ、抽象的言語による自律的な世界の価値を信じていた自分の人生の存立に関わる衝撃であったから。(99)
 
〈参考 T進解答例〉
芸術は、現実のあるがままの生を全肯定して描くものだという考え方は、筆者が志向していた抽象的な観念世界、すなわち、現実を離れて自律的に存在する言語と精神の世界そのものを否定するように思われたから。(97)
 
 

問五 ブリューゲルにおける「現実との幸福な関係」(傍線部(D))とはどのようなものか、説明せよ。(五行)

内容説明問題。⑨段落末文「作品とは一体現実にたいしてどういうものとしてあるのだろう」と⑩段落末文「あの絵は現実にたいしてどういう関わりで存在しているのだろうか」の二つの疑問文をそれぞれ承ける、⑩段落と最終⑪段落が解答の根拠となる。
 
両段落ともに「麦刈り」に代表されるブリューゲルの絵が自然という現実から、どのように生み出されたかを記述した部分である。参照箇所は⑩段落「「麦刈り」の絵は、しかし現実の模写ではない…彼が民衆の肉体と精神においてこれぞ真実の姿と見極めた精髄の形象化した…彼の見た生の実相の表現といったものだろう…ブリューゲルという思想によってだけ統一されている(a)/個体でありながら、個体を超えたもの…個体の普遍的な表現となっている(b)」、⑪段落「彼の天才的な形象把持能力のなかで、岩塊や樹木や丘々と同じように、生きるすべての人間はおどろくべき鮮やかさでつねに彼のなかにひしめき、動き、生き、表現を求め(c)/そして画家にとってはそれを画面の上に再創造することが彼自身の生となったことであろう(d)」。以上より、まずabcをミックスして「ブリューゲルの絵は、彼の形象把持能力が捉えた人間を含む自然の個物が彼の内で鮮やかにひしめき生きる中から(a)/彼の精神が生の実相として統一し再創造して(c)/普遍性を得た表現である(b)」(P)とする。ここから指示語でdにつなぎ「このように現実を表現の源泉とし、自身の生としていく関係」などとすれば一応、及第点だろう。
 
ただ、もう二つ見逃してはならない記述がある。⑪段落の冒頭「抽象的な世界に逃れなければ生きてこられなかったのだろうか、という反省が初めて浮かんだのはそのときである」と最終文「抽象的な観念世界の生は、「暗い花ざかりの森」はうんでも、そういう「現実との幸福な関係」(傍線部)はうみえなかった」である。ここはもちろん、ブリューゲルの創作と生き方(X)と対比した場合の筆者自身のこれまでの創作と生き方(Y)に対する反省となっている。つまり、筆者自身これまで「抽象的な世界に逃れなければ生きてこれなかった」のは、それが本意でないにせよ自明のものとしてきたが、ブリューゲルの絵を見てそうでない生き方や創作があったことに気づきを得たのである。注にあるように筆者は戦時下で青年期を過ごし「現実から目をそむけるために」抽象的観念性を養い、「言語と精神」の自律性(⑨)を説くトーマス・マンの小説に熱中した。ブリューゲルの絵は、そうでない「現実との幸福な関係」がとりえたのではないか、と今筆者に告げるのである。たとえ、かつての筆者のように過酷な現実にあっても。この理解を踏まえ、先述のPに続けて二文目を「このように仮に現実が過酷なものでも観念世界に逃れず、それを表現の源泉とできる関係」と修正し、最終解答とした。
→「至高の現代文/解法探究29」「13. 対立項の利用」
 
 
〈GV解答例〉
ブリューゲルの絵は、彼の形象把持能力が捉えた人間を含む自然の個物が彼の内で鮮やかにひしめき生きる中から、彼の精神が生の実相として統一し再創造して普遍性を得た表現である。このように仮に現実が過酷なものでも観念世界に逃れず、それを表現の源泉とできる関係。(125)
 
〈参考 S台N師解答例〉
ブリューゲルは天才的な形象把持能力で個々の現実の精髄を形象化、様式化し、自身の思想だけにより、普遍的な真実の表現へと統一し、画面上に再創造する。その営みが彼自身の生となり、作品は現実の生に対して自律的価値を持ちながら、表現に真実性があるという望ましい関わりかた。(131)
 
〈参考 S台解答例〉
フリューゲルの天才的な形象把持能力により、現実の自然と個々の人間を超えた精髄の形象化、様式化を行い、普遍的な世界風景と個体を超えた生きるすべての人間個体の普遍的な姿を画面上に再創造し、同時にそれがブリューゲルの生の充実となるというもの。(118)
 
〈参考 K塾解答例〉
抽象的観念に閉じこもることなく、存在そのものの形象を把握する能力によって、生命力に満ちた自然やその中における民衆の生の実相を固有の思想において統一し、自然も個人も普遍性を備えたものとして画中に再創造するが、それが同時に画家自身の充実させるというもの。(125)
 
〈参考 T進解答例〉
天才的な対象把持能力によって、人間の生存の実相を捉え切ってそれを形式化、様式化しつつ、独自の思想によって統一し、個体でありながら個を超越した普遍的な存在として再創造され、さらにはその再創造することが自身の生となるというもの。(112)