〈本文理解〉

出典は尾崎一雄の私小説「痩せた雄鶏」。
 
①段落。「圭ちゃん来年の夏休み、お父ちゃんと二人で、国府津の海へ行くんだ」「ああ、いくとも。大磯へも、小田原へもいくよ。圭ちゃんと二人で」「うれしいな」。二女は、眠っているときにしばしば見せる、あの夢のような笑顔をする。父親と二人で国府津の海岸へ行く、という何の変哲もない空想が、どうしてこの幼女をこんなに仕合せにするのだろう。あるいは、幼女の、病む父親にかけるあらゆる夢と希望とが、こんな変哲もないことに凝結されている、とでもいうのだろうか。
 
②段落。「ああ、これは、がんじがらめだ」(傍線部(1))、死ぬにも死ねないというが、ほんとだな、と緒方は肚で溜息をつく。一方彼は、自分の例の雄鶏気分が多分にくすぐられることを意識する。彼は、まんざらでもなくなり、よろしい治ってやる、治ってやらないまでも、ミむやみと死んだりはしないから安心したまえ、と、多分隣りの雄鶏に似ているだろう気負った目つきになるのだった。
 
③段落。実は、緒方が、以前よりもどこかものやわらかな男になったことには、もう一つ大きな原因がある。それは、彼が、自分の中に、「誰にものぞかせない小さな部屋のようなもの」(傍線部(2))をつくっている、という自覚にある。
 
④段落。毎日顔をつき合わせ、話をし、顔つきだけでも相手の気持が大体判る、という家族の者も、緒方がそんな秘密の部屋を持っているとは知らない。恐らく彼らには、緒方がそれを隠そうとしなくても、その存在に気がつくことはないだろう。なぜなら、それは彼らに何のかかわりもなく、見たことも聞いたこともなく、考えたこともないだろうものだからだ。
 
⑤段落。とはいっても、それは別にこみ入った話ではない。緒方のような境遇にある者なら、誰でも直ぐに了解するだろうことがらである。つまり、自分というものは何で生まれて来たのか、何故生き、そうして何故死ぬのか、ということ、また、それを考えることによってあとからあとからと湧き出す種々雑多な疑問に何かの答えを得ようとあせること、大体それに尽きるのである。そのことについて積み重ねられた多くの考えは、大昔から現在まで、その重みに耐えぬほどで、人間の全努力はそこに向かって集中されているかに見える。宗教、哲学、科学、芸術の巨大な集積は、すべてそこへの登路と思われる。緒方もいつなくそういうふうに教えられ、そういうものなんだろう、と思ってはいた。しかし、今の緒方から見ると、それは他人事であった。
 
⑥段落。凡人のつねとして、緒方は、つねられて見なければ、痛さは判らぬのである。…文字や言葉の上では一応判り、時には自分でもそんな文字や言葉を吐き散らすこともないのではなかったが、ただそれだけのことに過ぎなかった。…
 
⑦段落。自分が病気になり、どう考えても余り長い命でない、という事実にぶち当たったとき、緒方は始めて、痛い、と感じた。「彼には、判り切ったことが判り切ったことでなくなった」(傍線部(3))。素通りして来たものを、改めて見直すと、ひどく、新鮮であった。ありふれたものも、心をとめてみると、みんなただものではなくなった。彼は自分の中の部屋に引きこもって、それらを丹念に噛みくだき始めたのである。…
 
⑧段落。自分のこんな状態を、家族たちの誰に話そうと、まるで無益なことを彼は知っている。これら天真らんまんな、若い、生命に充ち溢れた人間たちに、それ通じようはずはない。…緒方のような衰頽者の、夕暮れの思考は、彼らにとっては毒汁でしかないだろう。…
 
⑨段落。だから緒方は、何気ない顔で、彼らとのつき合いをつづけている。顔をつき合わせ、話のやりとりもそつがないのに、頭はまるで相手とかかわりのない思考にとらわれている自分を、緒方は、残酷な、冷たい奴と思う。しかし、自分のいのちについて、自分が考えずに、いったい誰が考えてくれるだろう。…緒方は、いのち、あるいは生というものについて、納得したいのだ、ただそれだけの、至極簡単なことなのだ。そしてそれは、自分で納得するより外、仕方がない。そのこととは、ただ一人でしか向き合うことが出来ず、その作業はただ一人でしか出来ない。
 
⑩段落。せんだって、ある若い文学批評家から私信が来て、その端に、「赤ん坊ギャアギャア、女房プリプリ、雑事は山積で、このところ出家遁世を思うや切なるものがあります」とあった。緒方は「出家遁世ぐらい、家の中にいても出来ますから、試しにやってごらんなさい」と返事の中に書いた。何の気なしに書いたのだが、あとで、これは、と思ったのである。「どうも緒方の状態には、そういえなくもない節がある」(傍線部(4))。勿論、緒方は東洋流の、無常観、諦観の上にあぐらをかいているのではない。…彼には、未だ野心と色気が残っている。
 
⑪段落。ただ、こっそりと自分だけの部屋を用意し、閑さえあれば家族と離れて、そこへもぐり込もうとする、どうやらこれは、一種の出家遁世かもしれない。「寝ていて、出家遁世出来る法、だ。「俺の雄鶏精神」(傍線部(5))も、影がうすくなった」。
 
⑫段落。隣の鶏小屋では、また卵を生んだらしい。あの雄鶏の元気には、とても及ばない。いささかも遅疑逡巡するところない、あの気負い方はどうだ。あれは立派で堂々としている。…俺も、いや俺は、癇癪を起こさず、凝っと持ちこたえて行こう。堪え、忍び、時が早かろうと遅かろうと、そこまで静かに持ちこたえてゆく、──それが俺のやるべきことらしい、などと緒方は考えつづけた。
 
 

〈設問解説〉
問一「ああ、これは、がんじがらめだ」(傍線部(1))のように緒方が感じるのはなぜか、説明せよ。(三行)

理由説明問題。「がんじがらめ」=幾重にも縛られて身動きがとれない状態、を指摘すれば足りる。すなわち、Aという事態がBという意味(理由)で「がんじがらめ」である、というように説明するとよい。
 
ここでAに当たるのは、「幼い二女が/病む父親(緒方)と/来夏に/海へ行きたいという空想(夢)」であり、それは「何の変哲もない」ものだが、二女の笑顔を見るととても「仕合せ」そうなのである。それが緒方を「がんじがらめ」にするのだが、どういう意味で(B)?これについては傍線部直後の「死ぬにも死ねないというが、ほんとだな、と緒方は溜息をつく」が根拠となる。まず、緒方は「自分が病気になり、どう考えても余り長い命でない(⑦)」という状態にある。なるほど「避けられない死」というのは一つの「縛り」であることは間違いないが、ここで「死ぬにも死ねない」としている以上、緒方は「死ねない」こともある意味「縛り」とみなしているのである。どういう意味で?これは問二で具体的に述べることだが、緒方にとって死が避けられない以上、自分だけの「小さな部屋」で死(と生)について考えることは、ある種の安らぎをもたらすものである(「以前よりもやわらかな男になった(③)」)。そんな緒方にとって、Aの事態は、やれやれ「死ぬにも死ねない」、もう一つの「縛り」をもたらすのである。
 
なお、これに続く「一方彼は…例の雄鶏気分が…くすぐられる」は「がんじがらめ」の根拠にはならないので注意したい。解答は、一つ目の「縛り」=「死の絶望感」がある意味安らぎをもたらすことを前提に、「死ぬにも死ねない」が「がんじがらめ」にする決定的な「縛り」であることを強調して、「〜二女の仕合せを思うと/余命わずかという絶望に逃げる訳にもいかず/死ぬに死ねない気になるから」とまとめた。
→「至高の現代文/解法探究29」「18. 着地点からの逆算」
 
 
〈GV解答例〉
病む父親と来夏に海へ行くという何の変哲もない空想に浸る幼い二女の仕合せを思うと、余命わずかという絶望に逃げる訳にもいかず、死ぬに死ねない気になるから。(75)
 
〈参考 S台解答例〉
来夏父親と海に行くという空想を喜ぶ娘の笑顔を見ると、緒方は娘への愛情から、嫁の短さを自覚しつつも、死に身を委ねることもできない束縛感を覚えたから。(73)
 
〈参考 T進解答例〉
病の緒方は余命の短さを自覚していたが、来夏の自分との旅行を空想する娘の幸福な笑顔に自分への希望を感じ、死ぬこともままならぬと強く感じたから。(70)
 
 

問二「誰にものぞかせない小さな部屋のようなもの」(傍線部(2))はどのようなものか、説明せよ。(三行)

内容説明問題。問三と解答根拠を分けて考える必要がある。本問では「誰にものぞかせない」「小さな部屋」という「部屋」の孤立性(A)と、「部屋のようなもの」の内容(B)を答えればよい。
 
Aについては、まず④段「顔つきだけでも相手の気持が大体判る、という家族の者も…知らない」以下の箇所が根拠となる。ここを広く抜き出すのではなく、一般化して「最も近しい存在でさえも気づきようがなく(a)」として後につなぐ。「さえ」という助詞は「最も極端な事例を承けて他は当然だ」という働きをするから、上の言い方で全てをカバーしたことになる。次に⑤段「とはいっても…緒方のような境遇にある者なら、誰にも直ぐに了解するだろうことがらである」と⑦段「自分が病気になり、どう考えても余り長い命でない、という事実にぶち当たったとき…」を根拠に、aから続けて「死を間近に迎えた者だけが当事者として直面する(b)」とする。
 
その上でBについて。根拠は⑤段「自分というものは何で生まれて来たのか、何故生き、そうして何故死ぬのか…また、それを考えることによって、あとからあとからと湧き出す…疑問に…答えを得ようとあせること」。ここからa→bからつなげて「自己の生き死にに関わり膨張する実存的な問いを孤独に考えぬく時間」と導き、最終解答とした。ここで「実存」とは「真の自己であろうとする人間の主体的なあり方」であり、自分の生と死についての問いとはまさに「実存」についての問いなのである。
→「至高の現代文/解法探究29」「28. 解答範囲の特定」
 
 
〈GV解答例〉
最も近しい存在でさえも気づきようがなく、死を間近に迎えた者だけが当事者として直面する、自己の生き死にに関わり派生する実存的な問いを孤独に考えぬく時間。(75)
 
〈参考 S台解答例〉
死に臨んだ緒方が自己の生死とそれに伴う多大で様々な疑問に納得できる答えを求めるための、若く生命力に充ちた家族たちには見せない、孤立した精神世界。(72)
 
〈参考 T進解答例〉
死に直面するなかで、自らの生と死を根源から問い直し、さらには生にまつわる全ての疑問や日常の瑣事の意味までを、若くて生命力に溢れる家族と自己を切り離して、一人で自己と向き合って考える内面の世界。(96)
 
 

問三「彼には、判り切ったことが判り切ったことでなくなった」(傍線部(3))は、どのような事態を意味するのか、説明せよ。(五行)

内容説明問題。問二と解答根拠を分けて考える必要がある。本問では「判り切ったこと」「判り切ったことでなくなった」の換言と、それをもたらした事態と傍線部後の帰結(「〜なくなった。ではどうなった?」→ないある変換)。を答えるとよい。傍線部前(A)→傍線部(B)→傍線部後(C)。
 
Aについては、傍線部直前(⑦)より「不治の病を得、余命が長くないという事実に直面したことで」としてBにつなぐ。Bについては、傍線部直後(⑦)「素通りしてきたものを、改めて見直すと、ひどく新鮮であった。ありふれたものも…みんなただものではなくなった」に加え、⑥段「つねられて見なければ、痛さは判らぬのである…文字や言葉の上では一応判り…」も参照して、「今までの人生が遡及され/特に意識されず通過してきたものが新鮮によみがえり/言葉で上で理解されたことの自明性が失われ」とする。さらにCについては、⑦段「自分の中の部屋に引きこもって、それらを丹念に噛みくだき始めた」を根拠に、「その結果/一人観念の世界にこもり/それらの意味について丹念に問い直し始めた」とし、ABCをつなぎ「〜事態」と締めて最終解答とした。ハイデガーの「死への存在」を思わせる展開である。
→「至高の現代文/解法探究29」「20. ないある変換」
 
 
〈GV解答例〉
不治の病を得、余命が長くないという事実に直面したことで、今までの人生が遡及され、特に意識されず通過してきたものが新鮮によみがえり、言葉の上で理解されたことの自明性が失われ、その結果、一人観念の世界にこもりそれらの意味について丹念に問い直し始めた事態。(125)
 
〈参考 S台解答例〉
健康なときには知識としてのみ理解していた生死に関わる事柄を、自分の余命の短さに直面した緒方がはじめて痛切に実感し、それまでは看過していた日常の諸事を見直し、特別な新鮮さを覚えて、生死を納得しえない問題として実行するに至った事態。(114)
 
〈参考 T進解答例〉
人の生死について先人たちの残した膨大な知恵を理解しているつもりだったが、死に直面して自らの理解の浅薄さを自覚し、初めて自身の問題として痛切に感じられるようになった緒方が、生と死の根源について、さらには急に新鮮に感じられるようになった日常の平凡な事物についても、内面に閉じこもって一人で深く考えるようになった事態。(156)
 
 

問四「どうも緒方の状態には、そういえなくもない節がある」(傍線部(4))のように、緒方が考えるのはなぜか、説明せよ。(五行)

理由説明問題。文系専用問題だが容易。傍線部に至る事態を説明して、その事態の帰結が緒方の状態と重なったとこを示せばよい。すなわち、「ある若い文芸評論家からの私信」への「返事」が「自身の状態」に当てはまると思えたから、という解答の筋になる。
 
まず文芸評論家の私信の内容を抽象化して示すと、「家族の世話と雑事に明け暮れ出家遁世を願うという文芸評論家の私信(⑩)」となる。それに対して、緒方の返事も抽象化して示すと、「それ(出家遁世)なら家の中でも叶うという何気ない返事(⑩)」となる。これが、緒方のどのような状態と重なったのか。根拠は⑪段「こっそりと自分だけの部屋を用意し…家族と離れてそこへもぐり込もうとする、どうやらこれは、一種の出家遁世かもしれない」。「自分だけの部屋」については問二で答えた要素。「家族と離れて…」については、⑨段「何気ない顔で、彼らとつき合いをつづけている。顔をつき合わせ、話のやりとりもそつがないのに、頭はまるで相手とかかわりない思考にとらわれている…」も参照して、締めの部分を「(〜文芸評論家の私信に対して〜返事をしたものの)自己を省みた時/まさに自宅で家族との交流を続けながら(←家の中で)/心ここにあらずで自己の実存的な問いに浸る(←出家遁世)/自身に相当すると気づいたから」とまとめ、最終解答とした。
→「至高の現代文/解法探究29」「22. 小説・随想の着眼(場-心)」
 
 
〈GV解答例〉
家族の世話と雑事に明け暮れ出家遁世を願うという文芸評論家の私信に対して、それなら家の中でも叶うという何気ない返事をしたものの、自己を省みた時、まさに自宅で家族との交流を続けながら、心ここにあらずで自己の実存的な問いに浸る自身に相当すると気づいたから。(125)
 
〈参考 S台解答例〉
表面的には以前と変わらず家族と接しながら、精神的に孤立して絶えず彼らと無関係に自らの生死について考え続ける緒方自身の状況が、世間の煩わしさから離れる出出家遁世に似たことが自宅でもできるという手紙の文面に該当する点もあると思われたから。(117)
 
〈参考 T進解答例〉
俗世間において一見普通に家族と暮らしているように見えながら、実は彼らとの精神的なつながりを断ち切って自己の生と死についての納得を得ようと、密かに自己の内面世界で孤独な思弁を続ける自分の状態は、家を捨ててただ悟道のみを求める僧の生き方に通じるものがあるように緒方には思われたから。(139)
 
 

問五「俺の雄鶏精神」(傍線部(5))はどのようなものか、本文全体を踏まえて説明せよ。(四行)

内容説明問題。本文全体を踏まえた場合、「雄鶏精神」について記述された箇所は、傍線部(⑪)と②⑫段落。傍線部の前後が緒方の独白で「寝ていて出家遁世できる法、か。俺の雄鶏精神も、影がうすくなった」とあるように、緒方の中で「雄鶏精神」は「出家遁世」=「小さな部屋」とトレードオフの関係である。すなわち、本文のほとんどで「小さな部屋」により沈められていた「雄鶏精神」が冒頭(②)と末尾(⑫)でのみ浮上するのである。
 
「小さな部屋」=「出家遁世」については、これまでの設問を通して繰り返し考察してきたところだ。これとの対比で②⑫段落の「雄鶏精神」を捉えると、前者が「死への接近/観念世界」なのに対して後者は「生への執着/現実世界」ということになる(a)。その「雄鶏精神」に緒方を引き戻すのは、言うまでもなく子ども(と家族)である(①②)。子ども(と家族)は「天真らんまんな、若い、生命に充ち溢れた人間たち(⑧)」である(b)。緒方は二女が病んだ自分との遠出を心待ちにしていることに力を得て(c)、「よろしい治ってやる、治ってやらないまでも、むやみに死んだりはしないから、安心したまえ、と、多分隣りの雄鶏に似ているだろう気負った目つきになる(②)」のだった(d)。そして「卵を生んだらしい」、その時の雄鶏の「元気」には「いささかも遅疑逡巡するところない…気負い」があり(e)、それを緒方は「立派」だと見るのであった(⑫)。
 
以上のポイントをまとめ、「来るべき死を前にして実存的な問いに逃げこみがちな自己を現実世界に引き戻し(a)/そこで病んだ自分であってもそれを頼りに(c)/天真らんまんに生きる(b)/子供と家族のために、病に立ち向かいしゃにむに(←気負い)生き抜こうとする精神(d=e)」と解答できる。
→「至高の現代文/解法探究29」「12. 対比の設定(発見)」
 
 
〈GV解答例〉
来るべき死を前にして実存的な問いに逃げこみがちな自己を現実世界に引き戻し、そこで病んだ自分であってもそれを頼りに天真らんまんに生きる子どもと家族のために、病に立ち向かいしゃにむに生き抜こうとする精神。(100)
 
〈参考 S台解答例〉
東洋流の無常観や諦観とは異なり、作品創造に野心や積極性を持ち続け、父や男として家族の期待に応えつつ、やがてくる死に対して平静に持ちこたえ、悩みためらうことなく堂々としようとする緒方の自負心。(95)
 
〈参考 T進解答例〉
一人の男として、一切の迷いもためらいもない堂々とした態度を保って、自らの生業たる創作における強い野心を抱き、家庭では強い父親として家族を守り、回復の望みがたい自らの病に対してさえも正面から対峙して克服に努める、力強く気負いに満ちた精神のこと。(121)