〈本文理解〉

出典は林達夫「文章について」。筆者は京都帝大出身の思想家。
 
①段落。書かれる言葉は、話される言葉と違って、実は時代や社会によってその使命や性格を非常に異にしている。…現代においては、それはたいていの場合目で黙読されるために印刷される運命にある言葉であり、少なくともそれを理想的境地として目差している。このように印刷されるということは、書かれる言葉にとって決して軽視されることのできない意義をもっている。アランはそこに近代散文の主要特徴をさえ見ているくらいだ。…彼に言わせると、肉筆で書かれたものは、続け字や略字のためにその行間になお何か身振り的なものや舞踏的なものを残しているが、印刷はそれを払拭して、抽象的に均一化するのである。
 
②段落。しかし書くということには、彼が指摘しているようなかかる表面的な身体性ばかりでなく、「もっと深いところに根差している身体的なもの」(傍線部(1))も現れており、そのものの払拭も印刷の役目の一つになっていないであろうか。というのは、作家の表現の努力そのもののあとかたであるところの、消し、直し、書き足し等が、書く行為には多少とも必ず随伴しているからである。しかしかかる書く工作のあとをありありと示している大作家の「原稿」を写真版にして忠実に示したからと言って、彼の傑作の一頁がより美しいものに見えることになるであろうか。「必ずやその効果は逆であろう」(傍線部(2))。
 
③段落。ここに話される言葉と書かれる言葉との第一の相違点がある。話される言葉は本来即興的にほとんど猶予なしに産出され、産出されるままに多少の訂正と彫琢とを受けながら、しかも多くは未完成にとどまったままその使命を終えてしまうものであるのにひきかえ、書かれる言葉は一定の時間をかけられて構成され、再構成され、とにかく仕上げを完うされたものとして、しかる後にその使命を果たさんがためにおもむろに提出されるのが普通である。…
 
④段落。これらは極めて卑近な観察にすぎないが、しかしそれからだけでもありのままの話される言葉と一定の目標と境地とを目差さねば用をなさぬ書かれる言葉とが、いかに違って来なければならぬかは明らかであろう。かくて話される日常の言葉とその組立てとがたとい文章の前提ではあっても、文章はどんな初歩的なものでも例外なく何らかの思想の絆によって全体が貫かれ、引き締められ、この全体的連関の見通しにおいて、絶えず後ろを振りかえり、且つ前を見してそこから余計なもの、冗漫なもの、重複的なものを取り除くという心構えと作業を欠かすわけに行かないのである。ヴァレリーの次の言葉は、この原始的な基礎工作が、文章の第一歩であることを言おうとしているのであろう。…
 
⑤段落。「かかる何でもないような浄化の仕事が、既に書かれる言葉を話される言葉から区別させている」(傍線部(3))のであるが、そのような工作はやがて曖昧な言い廻しや陳腐な月並句等々を除去してゆき、ついには耳にうったえるようなものさえも慎重に回避するに至るのである。というのは、アランの言ったように、「眼のためにつくられたこの芸術(散文)においては、すべて耳にうったえるものが下品になる」から。演説口調の、調子づいた、それに反復句の多い文章が、洗練された散文読者にとって我慢のならぬ悪趣味として不快感を催さしめる事実を我々はしばしば見てきているのである。
 
 
 

〈設問解説〉問一「もっと深いところに根差している身体的なもの」(傍線部(1))はどういうことか、わかりやすく説明せよ。(三行)

内容説明問題。一文で見ると「書くということは/…かかる表面的な身体性ばかりでなく/もっと深いところに根差している/身体的なもの」となるから、構文変換して「書くという身体的なものは(A)/かかる表面的な身体性(B)からばかりでなく/もっと深いところ(C)から表れるということ」と言い換える。Aについては、「続け字や略字/身振り的なものや舞踏的なもの(a)」と「消し、直し、書き足し等(b)」がそれに含まれるが、両者はまとめて抽象化し「書き言葉が与える表記上の印象の個別性(A)」とした。ここで「個別性」としたのは、「印刷」がabを「払拭」し「抽象的に均一化」するという内容(①②)の「抽象/均一」を逆転して導いたものである。
 
Bについては、①段落より「肉筆で書かれた結果(から表れる)」くらいでよいだろう。Cについては②段落の「作家の表現の努力そのもの」が相当するが、これをさらに具体化した記述として③段落「書かれる言葉は一定の時間をかけられて構成され、再構成され、とにかく仕上げを完うされたものとして」を参照し、「書き手が仕上げを完うしようと推敲を重ねた過程(から表れる)」と導いた。以上、ABCのつなぎを整え、下のように解答した。
→「至高の現代文/解法探究29」「7. 構文変換」
 
〈GV解答例〉
書き言葉が与える表記上の印象の個別性は、肉筆で書かれた結果というだけではなく、書き手が仕上げを完うしようと推敲を重ねた過程が表出したものだということ。(75)
 
〈参考 S台N師解答例〉
肉筆で書くことには、作家の手の動きを示す筆跡という表面的な身体性だけではなく、作家の表現努力そのものの痕跡という、より内面から生じる身体性が現れるということ。(79)
 
〈参考 S台解答例〉
肉筆には、作家の身体的運動の痕跡として視覚的に把握できる筆跡だけでなく、作家の内面的思索の表現過程である推敲の痕跡も残っているということ。(69)
 
〈参考 T進解答例〉
肉筆原稿に残された、続け字や略字といった作者の身体の動きを直接的に示すものにとどまらぬ、書く行為に必ず随伴する、消したり直したりしながらより良い文章に仕上げようとする努力そのものの痕跡のこと。(96)
 
 
 

問二「必ずやその効果は逆であろう」(傍線部(2))のように筆者が考えるのはなぜか、説明せよ。(四行)

理由説明問題。筆者の考えに沿って、まず目指したものが何であり(A)、その効果がAの逆になること(B)と、その根拠(C)を示せばよい。解答構文は「Aは/Cという点で/逆にBという結果になりうるから」(アイロニー構文)となる。Aについては、傍線部直前から元の目的を明確にしてまとめ「傑作をより美しく見せるため/作家の努力の痕跡である推敲の過程を/忠実に再現すること」とした。もちろん、この試みは「美しくない」という効果を読者に与えるのである(B)。どういう観点から(C)?
 
そこでCについては、「話される言葉」と比較して「書かれる言葉」を説明した③④段落の内容を参照する。つまり「書かれる言葉」は「一定の時間をかけて/仕上げを完うすること=一定の目標と境地とを目差す」、それを基準(美徳)にした場合、Aはむしろ「美しくない」ものに映りかねない、ということになる。これに、①段落冒頭よりそうした「書かれる言葉」の「使命や性格」は現代という時代の要請であること、⑤段落末尾より「洗練された散文読者」には「耳にうったえるような」過剰さ「さえ」「不快感を催さしめる」、ゆえに当然Aもその範疇にあること、を踏まえBを具体化し、以下のように解答する。「Aは/時間的猶予のもと完うな表現を目差す書く行為の美徳(C)に相反するもので/現代の洗練された散文読者には不快感をも催しうるから(B)」。
→「至高の現代文/解法探究29」「11. パラドックスの基本形式」
 
〈GV解答例〉
傑作をより美しく見せるため作家の努力の痕跡である推敲の過程を忠実に再現することは、時間的猶予のもと完うな表現を目差す書く行為の美徳に相反するもので、現代の洗練された散文読者には不快感をも催しうるから。(100)
 
〈参考 S台N師解答例〉
書かれる言葉は、時間をかけて構成を繰り返し、完成後に提出されることを第一とするので、印刷によって完成前の跡を払拭するのが理想的であるが、原稿写真は書く工作の跡を明白に残し、書かれる言葉の理想と正反対であるから。(105)
 
〈参考 S台解答例〉
現代の文章は、構成を整えた完成品として、肉筆の身体性を捨象した純粋な形態で印刷され読者に提示されることを理想としており、推敲の過程をそのまま残した肉筆原稿は、その要求を満たさないから。(92)
 
〈参考 T進解答例〉
現代の文章は、一切の余剰性や冗慢性を排除しつつ、筆者の思想性により全体を統括されて構造化された持続可能な完結体を、印刷して純粋な抽象の形態として提示すべきものであって、推敲の努力の痕跡をも含む身体性が残された肉筆原稿では、その要件を満たさぬから。(123)
 
 

問三「かかる何でもないような浄化の仕事が、既に書かれる言葉を話される言葉から区別させている」(傍線部(3))はどういうことか、「書かれる言葉」の特質をふまえて説明せよ。(五行)

内容説明問題。設問の誘導に従って「書かれる言葉」の特質を「話される言葉」と対比しながらまとめ(A)、特にその「浄化の作用(B)」が「既に」両者を「区別させている」ことを示す。その上で「既に」の後にくる「区別」の完成状態を盛り込み、その状態がBの時点で先取りされていることを指摘すればよい(C)。
 
Aについては、前問までと重なることになるが、③段落を根拠に「話される言葉が相手と話す時間の制限下で未完のまま産出されるのに対し/書かれる言葉は読者に提出される前に時間の許す限り推敲を重ね、完成度を高めたものである。」とまとめられる。次にBについては、④段落「余計なもの、冗漫なもの、重複的なものを取り除くという心構えと作業」を根拠に、「冗漫で重複する表現を省き」として、Aの「推敲を重ね」と「完成度を高めた」の間に繰り込む。さらにCについては、傍線部直後「そのような工作は…ついには耳にうったえるようなものさえも慎重に回避するに至る」を根拠とする。そしてA+Bの一文を「その点で」と承けて、「耳に訴える過剰さを忌避する以前に話される言葉との分離は進んでいる」とつなげ、「既に」のニュアンスも表現し、最終解答とする。
→「至高の現代文/解法探究29」「8. 表現への配慮」
 
〈GV解答例〉
話される言葉が相手と話す時間の内で未完のまま産出されるのに対し、書かれる言葉は読者に提出される前に時間の許す限り推敲を重ね、冗漫で重複する表現を省き完成度を高めたものである。その点、耳に訴える過剰さを忌避する以前に前者との分離は進んでいるということ。(125)
 
〈参考 S台N師解答例〉
書かれる言葉は、時間をかけて構成を繰り返し、読者に黙読される完成された印刷物を目指して、全体的連関を思想で見通し、悪趣味で不快感を催す余計で、冗漫で、重複的な表現を除去する。この原始的な基礎工作だけでも、対話現場で即興的に未完成のまま話される言葉とは異なるということ。(134)
 
〈参考 S台解答例〉
書かれる言葉は、思想的一貫性によって体系化された完成品として、時間的持続に堪える洗練された散文を目指すもので、文脈を点検し余分な字句を除く推敲の基礎的段階から、未完成のまま即興的に話される言葉とは、性質を異にしているということ。(114)
 
〈参考 T進解答例〉
文章において、冗漫性や重複性の排除といった作業が当然のように行われて推敲が行われることそのものが、思想性に貫通されて構造性を備えた完結体として持続を目指す「書かれる言葉」と、即興的な産出状況で、多くは未完成のままに消えていく「話される言葉」との本質的な相違を示すものであるということ。(142)