〈本文理解〉

出典は北杜夫の小説『少年』。作者は東北大出身の医師で小説家。ペンネームは「杜の都」仙台に由来する。父は歌人の斎藤茂吉。

小説の出題は主に、「心情系」と「表現系」に分かれ、両者を組み合わせて聞くことも多い。前者は、前提となる「場面」を整理した上で「心情」を正確に把握する。後者は、比喩的表現や象徴的表現を一般的な表現で的確に言語化する。
あらすじ(場面と心情)を整理する。一読の結果、以下を五つのパートに分けた。

 

 

(大槍) ぼくは、ひとりぼっちで、日も昏れかかるころ、あたり一面濃霧(ガス)につつまれ、大槍の頂きに立ち、下方に広がる槍沢の雪渓をさがす。昨夜泊まった燕山荘のおじさんの言葉に反して、『肩の小屋』には番人も登山者もいない。そして、さしせまった問題として、水が一滴もなかった。それで、勇気を出して頂きにのぼってきたのだ。雪渓は小屋から少し降ったところに見つかったが、それでも槍沢のごろた石の登り降りでは、往復20分はかかりそうだ。夜になる前にと心を決め、両手で冷たいくさりにつかまり、大槍の岩肌を「みじめな気持」(傍線部(ア))ですべりおりた。

 

(雪渓) 雪渓にたどりついたときは、どんなに嬉しかったことだろう!近づくと、表面はうすぐろく汚れていて、ガリガリに凍りついている。すこし掘ると、「痛々しいほど」(傍線部(1))純白な結晶があらわれてくる。凍えきった手に息をはきはき、ぼくはせかせかと夢中になって掘りつづけた。

 

(放心) ながくしゃがんでいたものだから、腰が痛かった。背をのばして、ひょいと空を見あげた。そして、がらりと一変した景観に肝をつぶした。ああ、なんという変幻だったろう!あれほど渦をまいていた濃霧はどこへ行ってしまったのだろう!(突きだす峰々、満天の星、雲海、月の光)。わずか数分のうちに、どんな魔術が演じられたのだろう!ぼくは茫然と、我をわすれて極美の月を、大空一杯に陣をはる星座を見まわした。(星座の記述)。放心!ぼくはおそらく蒼ざめて、またたきもせず、この大景観に見とれつくした。すでに「神話の世界に生きている自分をぼくは感じた」(傍線部(イ))。下界の意識は残っていなかった。ぼくは夢想した。ギリシャ神話の示す、ひとつの天地創造説のことを。はじめ、渾沌だけがあった。すなわち、さきほどまでの濃霧の流動状態が。〈渾沌〉から〈大地〉と〈夜〉がうまれ、〈夜〉の卵から〈愛〉がうまれた。

 

(夢想) つつましくおぼろに、ぼくは考えた。さっきの濃霧と気流の犇めき!あれが一切のはじまりなんだろう。人間が現在は、自然と対立しているにしろ、はじめはひとつだったにちがいない。だからこそ、自然に対してこんなにも郷愁を抱くのだろう。これは夢なのかしら。しかし、ぼくはこの夢を大切にしよう。実際、この荘麗な自然を眺めていると、ぼくはもっとたくましく、美しく、賢くなりたいと思う。ぼくは自然と人間がひとつであった状態をみた。それから、人間と自然がはなれてゆくところをも体験した。いや、こうした対立という考えこそ、囚われた、せまい、ちょっとセンチな、近視眼的な観方じゃなかろうか。それよりもぼくは、もっととおくから、人間の位置をみることができたような気がする。ぼくが下界に帰って、ふたたびぼくを含めた人間たちを見るとき、「ぼくは今までとはまったく別のあたらしい眼で、人間を眺めることができるような気がする」(傍線部(ウ))。哀れな、はかない存在、──そのなかから叡知や愛情を生もうとするいじらしい意志、それこそ尊むべき貴重なものにちがいない。醜くくっても、愚かであっても、その自覚のうえに生まれる可憐な意志だけが、ぼくらを宇宙のみなし児から救ってくれるのかも知れない。

 

(覚醒) 月しろはあおじろく、荒涼とした岩々を照らしつづけた。ひとり夢想するぼくは座っていた。「ぎこちない」思念にわななきながら、化石したように座っていた。今こそ〈愛〉が生まれるのではないか?〈夜〉の卵がひそかにくだけるのではないか?神話はくりひろげられて行った。(オリンポスの山の尖頂が閃光をとばし、満点の星くずが影を失う)。
同時に、打たれたようにぼくはおののいた。覚醒!夢のように脳髄をおおっていた靄がとれて、あたりを見まわした。神話は去り、北アルプスの荘厳な夜景だけがぼくをおしつぶすような重量感をともなって展開されているばかりだった。腰をおろしている岩のかたさを、かすかに動悸している自分の肉体を、ぼくは改めて意識した。「〈愛〉とは、より透徹した認識なのであろうか?」(傍線部(エ))。ふいに、氷河時代の寒気がおしよせてきて、ぼくの五体をわなわなとふるわせた。

 

問一「痛々しいほど」(傍線部(1))、「ぎこちない」(傍線部(2))の語の意味を文脈に即して簡潔に記せ。

 

語の意味。「表現」を問う。語義を踏まえながら文脈に沿う形で説明する。
(1)については、うすぐろく汚れていて固く凍った雪を掘り起こしていったところに、「痛々しいほど」純白な、結晶があらわれてくる、という文脈。見ていて心が痛くなるような、汚れや圧迫に耐える、か弱さや立派さ、それを守ってあげたいといった心情を表す。一語としては「いじらしさ」「健気さ」がほぼ対応するが、ただの語の置き換えとせず、具体的に説明する。

(2)については、天地創造を思わせるダイナミックな景観を前に、「ぼく」は黙然と夢想する、その思念が「ぎこちない」、という文脈。「ぎこちない」は、「ぎこちない会話」と言うように、「滑らかに進まない様」を表すが、ここはネガティブな意味にとらず、外界を内部世界に取り込み、吟味を重ねながら思念を進めている状態、と理解したい。

 

<GV解答例>
(1) 弱々しくも立派で守りたいくらい (15字)
(2) 外界を取り込み吟味しながら進む (15字)

 

<参考 S台解答例>
(1) 凍てつく中で健気なほど (11字)
(2) 慣れない体験ですっきりせずにいる (16字)

 

<参考 K塾解答例>
(1) 純粋で傷つきやすく思われるほど (15字)
(2) 洗練されず不慣れな (9字)

 

問二「みじめな気持」(傍線部(ア))とあるが、「ぼく」が「みじめな気持」になったのはなぜか。(45字以内)

 

理由説明問題。「心情」を問う。「みじめ」は「みっともない様/見られてひどい様」。1️⃣パートを中心に状況を把握するが、解答の締めを、傍線直前の「槍沢の/登り降り/往復20分もかかりそう」を利用し、その「苦役」を思ったから(→みじめ)、などとはじめに決めるとよい。その上で、「槍沢の登り降りの苦役」を際立たせる要素として、「ひとりぼっち/少しの水を得るため/夜が迫り/濃霧で視野が悪い/ごろた石で足場も悪い/冷たい(寒い)」を拾い、短い制限字数に手際よく配する。

 

<GV解答例>
一夜の水を得るために、視界も足場も悪い槍沢を凍えながら、一人登り降りする苦役を思ったから。(45字)

 

<参考 S台解答例>
小屋の番人も登山者もおらず、一人で夜になる前に急坂をくだり、水を確保する必要があるから。(44字)

 

<参考 K塾解答例>
昏れかけた険しい岩峰での一滴の水もない状況に、独り対処せねばならない無力さを感じたから。(44字)

 

問三「神話の世界に生きている自分をぼくは感じた」(傍線部(イ))とあるが、「ぼく」は、なぜ「神話の世界」に生きていると感じたのか。(45字以内)

 

理由説明問題。「心情」を問う。3️⃣パートの状況を把握する。というより、3️⃣パートを分けることができたならば、当然「わずか数分の/景観の変幻/放心」を前提として解答に書き込むことになる。その上で、「神話」という頻出の「表現」に配慮するところだが、本問については、傍線直後に「ギリシャ神話の示す/天地創造説」とある。「ぼく」の目の前に現出する「景観の変幻」が天地創造の神話に重なったのだ。それにより、「神話の世界」に生きていると感じたのである。

 

<GV解答例>
目を離したわずかの間に変幻した夜の景観に放心し、天地創造の場面に立ち会った心地がしたから。(45字)

 

<参考 S台解答例>
濃霧が消え、月や星、大地の姿を眼にし、俗世から離れた天地創造を思わせる感動を覚えたから。(44字)

 

<参考 K塾解答例>
濃霧が晴れ、満点の星座に包まれて、下界の意識から離れ、天地の創造に立ち会う思いがしたから。(45字)

 

問四「ぼくは今までとはまったく別のあたらしい眼で、人間を眺めることができるような気がする」(傍線部(ウ))とあるが、それはなぜか。(60字以内)

 

理由説明問題。「心情」を問う。4️⃣パートの一連の夢想が該当箇所になる。ここで「ぼく」は、景観が変幻する前の「濃霧と気流の犇めき」を天地創造の始まりである「渾沌」と見立て、そこから自然と人間はひとつだったにちがいない、と直観する。これが解答の前提。

ここから、傍線部の直前、やがて人間は自然から離れるのだが、それを「対立」とみるのは「近視眼的な観方」だと否定し、「ぼく」は「もっととおくから、人間の位置をみることができたような気がする」(A)となり、傍線部がくる。Aが直接理由を構成するが、ここで、とおくから見た時、人間はどう位置づけられるのか。

論理的に推論すると、人間と自然を「対立」すると見なすのは「近視眼的な」見方であった。ならば、遠くから見ると、人間は自然から対立しない。「哀れな、はかない存在」として、そこから「叡知や愛情を生もうとするいじらしい意志」を持つ存在として、やはり大自然の中に抱かれてある、ということになるのではないか。そうした存在の自覚と意志だけが「ぼくらを宇宙のみなし児から救ってくれるかも知れない」、つまり人間と自然の本来的な繋がりを回復させる、ということだろう(→問五)。
まとめると、「ぼく」は原初において人間が自然と一体だったという直観したことで、自然から離れた人間をそれと対立したものと見なさない、人間を自然の中に位置づけ直す俯瞰的な視座を得た。このことが、今後「あたらしい眼で、人間を眺める」ことを可能にする、ということである。ここで「人間をどうみるのか」は本問の範囲ではないし、焦点がボケるので解答に書き込むべきではないだろう。

 

<GV解答例>
原初人間は自然と一体であったことを直観したことで、切り離された自然の中に再び人間を置いて見る俯瞰的な視座を手にしたから。(60字)

 

<参考 S台解答例>
荘麗な景観の中で人間と自然との一体感を得、生まれ変わった思いになり、人間のいじらしさが尊く感じ取れるようになったから。(59字)

 

<参考 K塾解答例>
壮麗な自然の中で、自然と人間を対立するとみる見方から解放され、自然の一部であるはかない人間のいじらしさを理解できたから。(60字)

 

問五「〈愛〉とは、より透徹した認識なのであろうか」(傍線部(エ))とあるが、なぜ「ぼく」はこのように考えたのか。本文全体の内容を踏まえて、60字以内で説明せよ。

 

理由説明問題。直接的には「心情」を問うが、〈愛〉や「透徹した認識」といった「表現」を、正しく理解した上で的確に言語化する力が問われる。

パートから状況を把握する。「ぼく」は、自然の織りなす壮麗な景観に「見とれつくし/放心/夢想」する。その夢想の中で〈愛〉が生まれるのを予感し、打たれたようにおののき「覚醒」する。夢と神話は去り、荘厳な夜景だけが重くのしかかる。岩の固さを、動悸している自分の肉体を、改めて意識する。「〈愛〉とは、より透徹した認識なのであろうか?」(傍線部(4))。
流れを整理すると「壮麗な景観への陶酔→覚醒→(身体も含む)自然の認識」。ここで傍線の「より透徹した認識」とは、「自己を認識者として自然から切り離し(覚醒)/対象化して認識すること」ということだろう。それが〈愛〉と重なったのである。
それでは〈愛〉という象徴表現が意味するところは何か。「本文全体の内容を踏まえて」考える。参照すべきはパート。問四ですでに考察した通り、景観の変幻を契機とした夢想の中で「ぼく」は人間を眺める新たな視座を得た。その人間は「哀れな、はかない存在」であり、その自覚の上に「叡知や愛情を生もうとするいじらしい意志」「可憐な意志」で「宇宙のみなし児」から逃れようとする。つまり、かつて一体であった他者や自然との本来的繋がりを回復しようとする。
ピンとくるだろうか。パートで「ぼく」が俯瞰する「人間」の一人が、パートでの「ぼく」である。その〈愛〉とは?自然の景観への陶酔から覚醒し、認識者として自然を対象化した時に、はかない「私」は自然との本来的(原初の)繋がりの回復を切望するのである。これが、ここでの〈愛〉であり、「透徹した認識」が〈愛〉を導いた。よって「〈愛〉は、より透徹した認識なのであ」ると「ぼく」は考えたのだ。

 

<GV解答例>
荘麗な自然への陶酔から覚醒し、認識者として自然を対象化した時、人は自然との原初の繋がりを回復したいと切望するはずたから。(60字)

 

<参考 S台解答例>
神話のもとで観念的な思索にふける中、現実に引き戻され〈愛〉とは理屈を超えた澄みきったものであると気づかされたから。(57字)

 

<参考 K塾解答例>
人間のもたらす神話的夢想から、人間を圧倒する荘厳な自然の最中で、肉体としての人間が生きることが〈愛〉だと覚醒したから。(59字)

 

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