〈本文理解〉

出典は福岡伸一のエッセイ「ダ・ヴィンチの蝶」。筆者は生物学者である。
 「自分はこれまでに□□を達成するために何をなしたか…」「自分に□□をもたらすようなことを、かつて自分がしたか…」。15世紀のイタリアの古語。流麗な筆致で手書きされているが、「いずれも□□の部分が欠落している」(傍線部A)。しかし、研究者たちは推定する。ここに入る言葉は「栄誉」あるいは「名声」であったにちがいないと。これがレオナルドの偽らざる胸の内だった。心の奥底に隠された彼の呟きは、知らず知らずに指先を動かした。それほどまでに彼は渇いていた。しかし彼のペン先とプライドはその言葉を明示するまでは至らなかった。

 

 「ルネサンス期の万能の天才、奇跡の才能と称揚されるレオナルドだが、意外なことに完成された作品は少ない」(傍線部B)。高名なクライアントが、最高の場所を飾る大作を最高の条件で次々と依頼してきた。レオナルドは全身全霊をかけて作品に取り組んだ。しかし、今、まさに頂が見えようとする地点までくると、彼は突然、それ以上続けることができなくなり、製作を放棄してしまうのだ。(中略)。なぜレオナルドは何かを成し遂げることができなかったのだろう。それはあまりの完璧主義と、彼の内部にあった暗い炎のせいだった。彼は孤高の天才だ。しかし、彼は私生児として生まれ、父からは見放され、世間からも疎まれた被差別者としての孤高でもあった。

 

 一方で、彼にはこんなエピソードがある。《最後の晩餐》制作中だったあるとき、ミラノ公ルドヴィーゴ・イル・モーロは、未払いの対価として、場外の畑1ヘクタールを下賜すると提案した。レオナルドはたちまち平伏した。この場所は近々、市街化区域に編入され高騰することが見込まれていたからだ。(中略)。
天才たちの溢れる情熱、名誉への渇望、激しい嫉妬と競争、あくなき承認欲求…。ルネサンスをつくり出したものは、もっと小さなものだ。指でつまめ、まぶしく輝き、見た目よりずっと重い。そう。金貨だ。当時ヨーロッパに流通していたのはフローリン金貨。金貨は当局によって緘封された。封印金貨。これこそが「ルネサンスをつくった原動力」(傍線部C)ではなかったか。天才や情熱や功名は形がない。所詮虚構であり幻想でしかない。いや、そうではない。それを具現化し、数値化する方法がひとつだげ存在した。評価と栄誉と名声を、フローリン金貨に換え、袋に詰め、ずっしりと重い封印金貨として手渡してくれるのである。ここには確かに形と質量がある。天才と情熱と功名の証しがここにある。金貨は、才能を数字に表現してくれる身も蓋もない成績表になったのだ。レオナルドも例外でなかった。いや、むしろ、疎外され、孤高で、アウトサイダーであったがゆえに彼こそがもっともこれを求めたのだ。
しかし、ぶどう畑は市街化区域に編入されることはなかった。レオナルドの計算は儚い皮算用に終わった。彼は自己嫌悪に陥ったに違いない。そして早く飛び立ちたかったに違いない。このようなあてどのない不安と焦躁にさいなまれる俗世の現実から解き放たれたかったに違いない。

 

 そんなレオナルドのひとときの安息に思いを馳せるべき格好の場所がある。『アンブロジアーナ図書館』。(中略)。
秘書であるエレナ・フォンターナさんに、わたしは積年の疑問を口にしてみた。──レオナルドは大空をかけることを夢見ていた。その願望の起源には、一種の変身願望を感じる。あらゆる渇望と焦燥から解放されて、自由自在に空を飛翔したい。しかし、彼の絵画にも手稿にも、蝶に関する記載があるとは聞いたことがない。わたしはレオナルドが密かに蝶を研究していたのではないかという仮説をもっている。何か手がかりとなるヒントはあるか。──(中略)。

 

 そしてわたしはついに「パリ手稿B」の最終ページにたどり着いたのだった。奇妙な絵の数々が飛び込んできた。トビウオ、コウモリ、トンボ、そして蝶。しかし、わたしの気持ちを騒がせたのは、それら飛翔する生物たちの絵ではなかった。蝶の隣が丸くくり貫かれていたのだ。その切断線の縁にはこんな不思議な言葉が記されていた。「ひとつの元素からもうひとつの元素に逃走する生物」。破り取られた部分には、その逃走が、その変身が描かれていたに違いない。これが蝶のことでなくして他の何であるというのか。ついこの前まで、醜く地を這い、みぐるしく草を喰むイモムシだったものが、突然空を自由に舞う軽やかな蝶と化す。この劇的すぎるほど劇的なメタモルフォーゼを指す言葉でなくして、一体何であるというのだろう。「これこそが、レオナルドが身を焦がすほど求め続けた変身への願望そのものだったのだ」(傍線部D)。

 

〈設問解説〉
問一 (漢字)

1.頓挫 2.平伏 3.高騰 4.余波 5.格好 6.積年 7.索引

 

問二 「いずれも□□の部分が欠落している」(傍線部A)とあるが、筆者がそこから読み取ったレオナルドの心情を40字以内で説明せよ。

 

心情説明問題。ダ・ヴィンチが「栄誉」「名声」と推定される言葉を伏せた、その心情を問う。傍線のすぐ後から理由と考えられる要素は容易に拾える。P「心の奥底で栄誉と名声を渇望していた」、にもかかわらず、Q「彼のプライドがその明示を許さなかった」。言葉を伏せた心情を聞いているのだから「P→Q」と構成するのは当然だとして、Qの「プライド」を心情の核に据えるのには抵抗がある。「プライド」は理性の働きに相当し、もちろんそれも心の働きの一部であるが、狭い意味での心情、つまり感情と対応しないからだ。そこで、「P(渇望)→Q(プライドによる抑制)」から進めて、R「鬱屈した心情」と導く。フロイト的には、Pがイド(エス)、Qが超自我、Rが自我というところだろう。

 

<GV解答例>
心の奥底で栄誉や名声を渇望しながらも、その明示を許さない矜持に抑制される鬱屈感。(40)

 

<参考 S台解答例>
栄誉や名声を心の奥底で渇望しながらも、プライドからその明示を許さないという心情。(40)

 

<参考 K塾解答例>
常時心の奥底に抑圧されていながら、無意識の内に表出した、栄誉や名声への渇望。(38)

 

問三 「ルネサンス期の万能の天才、奇跡の才能と称揚されるレオナルドだが、意外なことに完成された作品は少ない」(傍線部B)とあるが、その理由を筆者はどのように考えているのか。50字以内で説明せよ。

 

理由説明問題。ダ・ヴィンチに「完成された作品が少ない(G)」理由が問われている。少し離れたところだが、「なぜレオナルドは何かを成し遂げることができなかったのだろう」という問いが繰り返され、直後にその答えとして、「あまりの完璧主義(P)と/彼の内部にあった暗い炎(Q)のせい」とされているわけだから、PとQが答えの核となる。比喩的な表現であるQについては、その後を追いQ「被差別者としての意識」と置き換える。
そして傍線とPQとの間にある、「頂が見えようとする地点までくると…それ以上続けることができなくなり、製作を放棄してしまう」を踏まえ、「完璧主義(P)と被差別者としての意識(Q)が/完成を前に自作を人目にさらすのをためらわせる(R)から→G」、とする。さらに、「P→R」はしっくりくるが、「Q→R」の間にはワンクッションいると考え、「被差別者としての他者への不審→R」として完成とする。

 

<GV解答例>
極度の完璧主義と被差別者としての他者への不信が、完成を前に自作を人目にさらすことをためらわせたから。(50)

 

<参考 S台解答例>
極度の完璧主義と、父や世間から疎まれ被差別者である自分は周囲に理解されない、という孤高の意識のため。(50)

 

<参考 K塾解答例>
レオナルドは過剰な完璧主義者であり、私生児ゆえに疎外されており自己承認への強い不安を抱いていたから。(50)

 

問四 「ルネサンスをつくった原動力」(傍線部C)について、なぜ、金貨がそのような原動力になったと考えられるのか。70字以内で説明せよ。

 

理由説明問題。金貨が「ルネサンスをつくった原動力(G)」となる理由。これについては傍線部のすぐ後より、「(金貨が)虚構であり幻想でしかない/天才や情熱や功名(評価と栄誉と名声)を/具現化・数値化する」という要素がすぐに見つかる。ここから、Gに無理なく着地するよう配慮する。そこで、さらに「ここには確かに形と質量がある/天才と情熱と功名の証しがここにある/才能を数字に表現してくれる…成績表」という記述を参考にする。「自己の才能や情熱/他者の認める栄誉や名声を/数値化し質量を与えることで/芸術家たちに確かな達成感と/更なる創作への意欲をもたらすから→(ルネサンスの原動力)」と、採点者も納得の仕上げをする。

 

<GV解答例>
溢れる才能や情熱、他者が認める栄誉や名声を可視化し質量を与えることで、芸術家たちに確かな達成感と、更なる創作の高みへの意欲をもたらしたから。(70)

 

<参考S台解答例>
芸術家たちの天才としての評価や情熱、功名は虚構や幻想でしかなく、金貨によって具現化され数値化されて初めて社会的に承認されることになるから。(69)

 

<参考 K塾解答例>
金貨は、不可視である天才や情熱や功名を、具現化し数値化する唯一の証であり、芸術家の自己承認欲求を満たすものとして、創作意欲を掻き立てるから。(70)

 

問五 「これこそが、レオナルドが身を焦がすほど求め続けた変身への願望そのものだったのだ」(傍線部D)とあるが、それはどういうことか。本文全体の論旨を踏まえて100字以内で説明せよ。

 

内容説明問題。「これ(P)が/レオナルドの願望(Q)/そのものだった」。PとQを類比的に具体化し、「そのもの」といってもPとQが同一というわけではないから、それが含意するところを正確に指摘する。Pは直前から簡潔に、「醜く地を這うイモムシの/突然空を自由に舞う/蝶への変身(メタモルフォーゼ)」となる。Qについては、本文の前半部(ダ・ヴィンチの「影」について)のまとめの部分、パートの締めに着目して、「世間から疎外された孤高の天才レオナルドの/あてどのないない不安と焦躁にさいなまれる俗世の現実から解き放たれたいという/切望」とし、Pと対応させる。
そこでPとQの関係だが、Qがダ・ヴィンチの内面の夢ならば、Pはそれを具象化した表象だと言えまいか。ここで適切な言葉として「象徴」を選択しなければならない。「PはQを象徴するものだった」となる。

 

<GV解答例>
醜く地を這うイモムシの突然空を飛翔する蝶への変身が、世間から疎外された孤高の天才であるレオナルドの、あてどない不安と焦燥にさいなまれる俗世から解き放たれたいという切望を象徴するものであったということ。(100)

 

<参考 S台解答例>
醜い幼虫から蝶になる劇的な変身は、社会から疎外された者として栄誉や名声を渇望し社会的承認を金貨で可視化する自己を嫌悪して、そこから逃れ不安と焦燥から自由になることを切望したことの表れだということ。(98)

 

<参考 K塾解答例>
地を這う芋虫に、出自ゆえに疎まれて不安を抱き、自己承認欲求を満たす財を得られずに苛立つ自分を重ね、自由に空を舞う蝶に、そうした俗世の現実から解放されたいという自らの切実な思いを投影した、ということ。(99)

 

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