〈本文理解〉

出典は野崎歓「翻訳、このたえざる跳躍」。
①段落。世界文学を遍歴する愉しみは、翻訳の助けを借りなければ味わうことは不可能である。たとえば、僕(筆者)は『白鯨』の新訳を読んでいる。上巻を一息に読み終え、なぜ全巻揃いで出してくれないのだとうらめしく続刊の到着を待っているところだ。

②段落。「待つ間を惜しんで、メルヴィルの原文に移行しようという気には残念ながらならない」(傍線部A)。訳書を堪能するだけで満足してしまい、英語力をのばす必要をさして覚えない。そればかりか優れた訳書に接するとき、自分は「翻訳文学」を読んでいるのだという意識がどこか心地よい刺激となって作品の面白さを増し、読書の悦びをひときわ掻き立ててくれる気さえする。どういうことなのだろう。

③段落。(引用)。ご覧のとおり、訳文には、安易な「意訳」を排し、学究的蓄積の上に立って原典を忠実に訳したものに違いないという感触が備わっている。「硬い」と見える部分があるかもしれないが、それが驚くべき自在で力感にあふれる日本語による訳業であることはすぐに理解される。解釈に踏み込んだ注も大いに楽しみながら、手軽な文庫本にこれほどの知的興奮を与えてもらえることに感謝するばかりだ。

④段落。(引用)。

⑤段落。こうした文章のありさまを翻訳調で「不自然」だという人もいると思う。「しかしながら優れた翻訳とは、どうしたって「翻訳調」を帯びる」(傍線部B)ものではないだろうか。単にぎこちないとか、読みにくいということではない。まさに白鯨のごとき強烈な躍動と生命力をもつ異国の名作を捕獲しようとする闘いは、当然のことながら「海面」にさまざまな痕跡を残すはずだ。異言語とのつばぜり合いをとおして逞しい筋肉を浮き上がらせるかのような日本語の勇姿に僕は惹かれてしまう。

⑥段落。逆に一介の翻訳者として考えてみれば、怪物的な巨鯨でなくても、一匹の猫を訳すことにも翻訳のささやかな愉しみは存在する。

⑦段落。拙訳『ある夜、クラブで』。最後のところで登場する、すぐにかんしゃくを起こす暴れん坊の黒猫は、クライマックスで目を瞠るような存在感を示す。訳者としては、その黒猫の活躍をぜひとも引き立ててやりたい。

⑧段落。「なんていう名前だっけ?」。その名はフランス語でDingo、もともとは「気の触れた」という形容詞。しかしこれを発音すると「ダンゴ」、黒猫の団子では可哀そうではないか。「改名に踏み切り、「イカレ」君として登場してもらうことにした」(傍線部C)。

⑨段落。同一の猫なのに名前が違う。しかし大切なのは、それが同じ一匹の猫であるという事実だ。同一性を作り出すのは原理的に不可能かもしれないが、自分の読み取った「ダンゴ」像をできうるかぎり忠実に再創造して「イカレ」になったのだ。

⑩段落。名前を変えて別の国で生活を営む。それは猫以上に「文学」にこそふさわしいことであるはずだ。書かれた国の言葉の根っこに深く結びついていながら、不思議にも軽々と離陸して別の土地に──さらには別の時代に──しっかりと根づく力が文学には備わっている。逆に言えば、文学は翻訳を必然的に引き起こす。しかも、枯れかかっているかに見えた詩が翻訳によって瑞々しく蘇るという事態も、決して稀ではない。「翻訳は文学の第二の生であり複数の生なのだ」(傍線部D)。

⑪段落。だが、翻訳は不正確であり、正解は原著のみだろうと正論を吐く人もいる。まさにその通り。『白鯨』の冒頭の一句(Call me Ishmael)が今までどれほど多様な日本語訳を生んできたことか。原文との同一性を求めながら、結果がばらばらとは何事か。しかしそれこそが翻訳のダイナミズムだと強弁したい。翻訳は運動であり、たえざる跳躍である。跳躍のスリルは他に代えがたいものである。「翻訳を読む愉しみもまた、そんな運動感覚につながっているはずだ」(傍線部E)。人間の言語が複数であるがゆえに可能になる「生の飛躍」(エラン・ヴィタル)。翻訳とはそれをたっぷりと経験させてくれる営みなのだと思う。

 

〈設問解説〉
問一「待つ間を惜しんで、メルヴィルの原文に移行しようという気には残念ながらならない」(傍線部A)とあるが、それはなぜか。20字以内で説明せよ。

 

理由説明問題。20字内の指定なので本質的要素だけで構成する。②段落「そればかりか」以下、「優れた訳書に接するとき、自分は「翻訳文学」を読んでいるのだという意識が心地よい刺激となって(作品の面白さを増し)」。「翻訳文学」にカッコがついていることに注意しよう。通常訳書は原作に付随するものと見られるが、ここで筆者には固有の「文学」として意識され、それが心地よい刺激を与えているということだろう。

「作品の面白さを増し」は付加的要素だから除外。なお、翻訳で原作の内容自体が面白さを増したというわけではない。だって、筆者はそのために英語力を究めて原作を読んだのではなく、内容を比較しようがないのだから。ここは翻訳形式への興奮として記述を留めるべきだ。

 

<GV解答例>
原作にはない翻訳固有の刺激を得たいから。(20)

 

<参考 S台解答例>
翻訳ならではの面白さを満喫できるから。(19)

 

<参考 K塾解答例>
原文の魅力を高める訳書に満足するから。(19)

 

問二 「優れた翻訳とは、どうしたって『翻訳調』を帯びる」(傍線部B)という理由は何か。文中の言葉を用いて30字以内で説明せよ。

 

理由説明問題。「文中の言葉を用いて」とのリクエストだが、普通「文中の言葉を用いて」解答を作るはずだから、何のことやら。保留。
傍線部以下の文が「単にぎこちないとか…いうことではない。/まさに白鯨のごとき強烈な躍動と生命力をもつ異国の名作を捕獲しようとする闘いは…「海面」にさまざまな痕跡を残すはずだ(A)」と続く。ここから「翻訳調」と対応するのが「闘いの痕跡」だということが分かる。この「痕跡」を理由として「翻訳調」になめらかにつなぐためには、少し説明を足す必要があろうが、30字内の指定だから、そこは「痕跡」でよいということだろう。
後は「闘いの痕跡」を具体化する。そこでAとその次の文「異言語とのつばぜり合いをとおして逞しい筋肉を浮き上がらせるような日本語の勇姿」の比喩的な表現を参考にして「相互に個性のある言語間の置換に伴う苦闘の痕跡」とする。それが表出するから「翻訳調」を帯びるのである。

 

<GV解答例>
相互に個性のある言語間の置換に伴う苦闘の痕跡が表出するから。(30)

 

<参考 S台解答例>
学究的蓄積に基づき、苦闘しながら異言語を忠実に翻訳するから。(30)

 

<参考 K塾解答例>
原典に即した異言語との闘いが、日本語に新たな痕跡を残すから。(30)

 

問三「改名に踏み切り、『イカレ』君として登場してもらうことにした」(傍線部C)とあるが、作者がそのようにしたのはなぜか。60字以内で説明せよ。

 

理由説明問題。作者が黒猫のDingoを「改名した」(G1)理由と、それを「『イカレ』とした」(G2)理由。根拠として⑨段落ラスト「自分の読み取った「ダンゴ」像を(A)/できうるかぎり忠実に再創造して「イカレ」になったのだ」を見つけるのは容易。ただ、これだけではG1の理由にはなっても、G2つまり「なぜその名前が「イカレ」でなければならないのか」には着地しない。
では、なぜ「イカレ」なのか。まず発音通りの「ダンゴ」ではAと合わない。そこで「気の触れた」という原義に戻って「イカレ」としたのである。
加えてAでは「座りが悪い」(表現が間接的である)。「読み取った「ダンゴ」像」とはつまり「(黒猫の)目を瞑るような存在感」(⑦段落)である。それを「できうるかぎり忠実に伝えるため」改名する必要があったのだ。

 

<GV解答例>
対象の存在感を極力忠実に伝えるため、原語の発音がそれに沿わない以上、原語の意味に即して名前を再創造する必要があったから。(60)

 

<参考 S台解答例>
原語の発音通りでは印象が変わるので、自分の読み取った意味内容を極力忠実に表現するには名前を再創造する必要があったから。(59)

 

<参考 K塾解答例>
「ダンゴ」という名前の原音では違和感があるので、名前の原義に即して、自分の読み取った黒猫の像を再創造したかったから。(58)

 

問四「翻訳は文学の第二の生であり複数の生なのだ」(傍線部D)とあるが、それはどのようなことか。50字以内で説明せよ。

 

内容説明問題。「第二の生」(A)と「複数の生」(B)を言い換える。根拠は傍線前の「しかも」の前後。B要素が「しかも」の前「書かれた国の根っこに深く結びついていながら…別の土地に…別の時代に…根づく」と対応する。A要素が「しかも」の後ろ「枯れかかっているかに見えた詩が翻訳によって瑞々しく蘇る」と対応する。これらを簡潔に言い換え、傍線と逆になるが(B→A)の順で解答するべき。一度翻訳されたものが原作に反響するのだから。

 

<GV解答例>
翻訳は、原語を基盤としながら時空を越えて多様な味わいを届け、原作にも新たな価値をもたらすということ。(50)

 

<参考 S台解答例>
文学は、翻訳により読みかえられ様々な別の文化に根づくことで、作品として新たな価値を持つということ。(49)

 

<参考 K塾解答例>
翻訳は、文学を別の土地や時代に何度も根づかせて再生させ、多様な表現を生み続ける営為であるということ。(50)

 

問五「翻訳を読む愉しみもまた、そんな運動感覚につながっているはずだ」(傍線部E)とあるが、それはどのようなことか。80字以内で説明せよ。

 

内容説明問題。傍線部を「因→果」に変換し、「そんな運動感覚」(A)→「翻訳を読む愉しみ」(B)の順で説明する。
Aについては、傍線の前部「原文との同一性を求めながら/翻訳は運動であり、たえざる跳躍である」を参考に「翻訳において/訳者は/原作に忠実であろうとしながらも/母語への置換にあたり/常に跳躍を試みる」とする。
Bについては、傍線自体の表現「もまた…つながっている」と傍線直後の『生の飛躍』(※ベルクソンの用語)を参考に、「読書も訳者の飛躍をたどることを愉しみとする」と捉える。しかしこれではまだ薄い。
ここで全体を視野に置いた時、冒頭から⑤段落までは翻訳を「読む立場」からの記述だった(⑥段落よりは「訳す立場」で、最後で「読む立場」に戻る)。そこから③段落「驚くべき自在で力感にあふれる日本語による訳業/知的興奮を与えてもらえる」を参考にし、Aよりつなげて「訳者の飛躍をたどり/知的興奮を得ることが/翻訳を読む醍醐味(愉しみ)だ」とした。筆者は、訳書の内容はともかく、翻訳の形式的性格(たえざる跳躍)にメタレベルの愉しみ(知的興奮)を見出しているのだ。

 

<GV解答例>
翻訳において訳者は原作に忠実であろうとしながらも母語への置換にあたり常に飛躍を試みるものだが、その飛躍をたどり知的興奮を得ることが翻訳を読む醍醐味だということ。(80)

 

<参考 S台解答例>
翻訳は原文に忠実でありつつ、各翻訳者が二言語間の隔たりを大胆に踏み越えていく営みであり、訳者が試みたその飛躍を追体験することも翻訳を読む愉しみだということ。(78)

 

<参考 K塾解答例>
各訳者が原文との同一性を追求しつつも翻訳は多様であり、その際二言語の隔たりを大胆に乗り越えようとする訳者の様態を感得する所に、翻訳を読む愉しみがあるということ。(80)

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