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過卒生の現代文の授業では、全ての生徒に上のような課題を課します。ひたすら文章を吟味し、主張とその根拠を捉え、それを制限字数内で言い換え構成しまとめる。(他に、本格的な記述式の問題をロジカルに読み解く授業があります。マーク式の授業は今は特に設けていません。効率的な学習や何とかテクニックを求めている生徒にはGVは向かないですね!笑)

 

その上で、人様の極めて興味深い論考を酒の肴に(笑、手がかりに)、極めて自由すぎる分野横断的な解説をします。その対象はGV(グレイトヴォヤージュ)が目指すところの大海原、つまり「世界」、ありとあらゆるもの全て、です。僕自身、話の中でいろんなアイデアが浮かんできます。

 

今まで、近代/前近代、西洋/東洋、ポストモダン、科学/宗教、貨幣、資本主義、グローバリゼーション、国民国家、について話しました。

 

今後も、情報化、メディア、生態系、システム論、構造主義、言語/身体、歴史、時間、文明/文化、日本文化、芸術論、文学論、ジェンダー、老い/病い、など盛りだくさんです。試験での効用はあまり考えていませんが笑、間違いなくどこかで話した内容が本番に出るでしょう。

 

これが、沖縄で国語の教師として10年、現在到達した地点です。ある予備校の立ち上げの時、それまで全く経験の無かった国語をほぼ一人で教える立場に立たされました。その時、短い準備期間の後で曲がりなりにも「出来てしまった!」のは、20代の頃の徹底した読書経験があったからでした。(まあ、今からすると未熟そのもので笑、その後の国語教師としての成長は、まさに生徒と共にありました。)

 

国語の教師として生徒に教えることは「日本語の運用能力(母国語を日本語とする我々にとって全ての思考の基礎となります)」と「教養」です。「教養」は我々が社会に対峙した場合にその本質を見抜ける力となります。直接的に役にたつものではありませんし、悩みを深くするだけかもしれませんが、僕はそれこそが人生に深みや豊かさをもたらすものだと信じます。
大学に行って「学問」をするとは、そういったことではないでしょうか?そういった意識は大学に入る前から高めておいた方がなお良い。本来受験というものは、大学での学びに直結したものであるべきだし、現場の者の心がけでそうしたものに近づけると実感しています。

 

少しでも生徒の「世界」を広げることが出来たら、と思い、僕は国語・社会の講師としてGVの教壇に立ちます。(大岩)

 

本日は、大岩先生に書いていただきましたが、今後はGVの先生方の受験に対する熱も載せていきたいと思いますので、